2019年10月 4日 (金)

教皇訪日にむけて

9月13日には、教皇フランシスコのタイと日本公式訪問が発表となり、さらに10月2日には、プログラムの主な内容もバチカンから発表されました。

東京では、11月25日月曜日に、(まだすべての時間が確定して発表されていませんが)、教会の行事としては、東北の被災者の方々との集まり、青年との集い、そして午後4時からの東京ドームでのミサが予定されています。被災者の方々とは麹町にある一般ホールで、また青年との集いは関口の東京カテドラルで行われます。

それ以外に、政府行事としては、天皇陛下や首相との会談などが予定されています。

教皇訪日に関する情報は、中央協議会の特設ページに掲載されていますので、このリンクから是非そちらをご覧ください。

東京教区のホームページにもすでに掲載しましたが、教皇訪日にあたってのビデオメッセージを作成しましたので、ご覧いただければと思います。メッセージは英語ですが、日本語の字幕をつけてあります。

 

今回の訪日では、とりわけ長崎や広島での核廃絶のメッセージに注目が集まっています。もちろん核兵器の廃絶は教皇様にとっても、また教会全体にとっても重要な課題であり、国際社会の場でも聖座はしばしばこの点を力説してきたところです。したがって、原子爆弾の被害を受けた長崎と広島の被爆地で、核兵器廃絶や平和を訴えられることは、国際社会に対して大きなインパクトを与えることでしょう。

同時に教皇様は、普遍教会の最高の牧者として、また使徒の頭ペトロの後継者として、私たち日本の教会を訪れることで、教会に与えられた福音宣教の使命を率先して果たされる模範を示されることでしょう。その意味で、日本の社会にある人間の「いのち」に関わる問題に、積極的に発言されることでしょう。

もちろん教皇様の立場は国家元首でもありますから、日本の内政に干渉するような直接的な発言は慎まれることと思いますが、倫理道徳的側面から、その始まりから終わりまで例外なく護られなくてはならない人間のいのちの尊厳、少子高齢化社会にあっての孤立や孤独の問題、貧困や格差、生きる希望の創出、真の幸福を見いだす道などについて、準備されたいくつかの行事におけるスピーチで触れられることが予想されます。

また教皇様は、しばしば難民の方々や移住者の方々の人生について、踏み込んだ発言を続けてこられましたから、そういった課題についても、何らかの形で触れられることが予想されます。

聖霊の導きのうちに、時のしるしを読み解きながら、神に至る道を示そうとされる牧者の言葉に、謙遜に耳を傾けたいと思います。

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2019年9月30日 (月)

青梅教会で堅信式、そして福音宣教の特別月間へ

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9月29日の日曜日、午前11時から、青梅教会で堅信式を行いました。11名の方々が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

ちょうど福音はラザロと金持ちの有名な話でありました。物語で登場する金持ちの、この世でばかりか、この世を離れてさえも、自分のことだけを考えて、他者を自分に奉仕させようとする態度。しかも自分に奉仕する者を自分のところへ呼びつけるような生きる姿勢が、イエスによって厳しく非難されています。

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ちょうど教皇様の訪日にあたり、教皇様の述べられてきたことを振り返る「とき」が与えられています。すると教皇フランシスコが、常々強調されているのは、まさしくこの金持ちの生きる姿勢とは真逆な姿勢です。教皇は、「出向いていく教会」を語られます。安住の地に留まるのではなく、困難を抱えている人、いのちの危機にある人のところへ、積極的に出向いていく教会を語られます。

また教皇フランシスコは、だれ一人排除されて良い人はいない、だれ一人忘れられて良い人はいないと強調することで、自分の殻に閉じこもって、自分中心の世界の中で、空虚な反映の夢をむさぼることのないようにと語られます。まさしく、このたとえ話の、金持ちとは対極にある生き方こそが、今の教会には求められていると語ります。

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堅信の秘跡を受けられた方々には、聖霊の助力を得ながら、また聖霊の賜物に満たされながら、勇気を持って出向いていくこれからの教会を作り上げるために力を貸していただければと思います。失敗を恐れずに、常に前向きで挑戦し続ける教会でありたいと思います。

もちろん、すべての人が皆おなじタレントを与えられているわけではないのですから、皆が同じことをする必要はありません。自らに与えられているタレントは何か。そのタレントに忠実に生きるためには何をすべきなのか。聖霊に助けによって、それぞれの道を見いだすことができますように。

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さて、10月が始まります。10月はロザリオの月ですから、聖母マリアの取り次ぎにいつも以上に信頼しながら、聖母を通してイエスへと至る道を歩み続けたいと思います。主イエスとともに受難の生涯を歩まれた母の取りなしを、イエスが聞き入れないはずがないと、私たちは信じています。

また今年の10月は、福音宣教のための特別月間です。東京教区では、そのためのパンフレットを用意して、各小教区に配布したところです。パンフレットのPDF版が教区ホームページのこのリンクに掲載されていますから、ご自分でダウンロードして印刷していただくことも可能です。

教皇様を迎える前に、あらためて福音を宣べ伝える使命をどのように果たすことができるのか、この一月考えてみたいと思います。

以下、10月の主な予定ですが、今月は、教皇訪日準備のために、週日の予定が大きく変更になる可能性があるため、主に週末の予定中心に掲載します。週日に関して、ご用の際には、教区本部の司教秘書であるディンド神父にお尋ねください。

10月5日(土) お告げのフランシスコ会誓願式 (11時)

10月6日(日) 新潟教会堅信式 (9時半)

10月7日(月) 東京教区司祭評議会 (10時半)

10月19日(土) 受刑者のミサ (14時 麹町教会)

10月20日(日) あきる野教会堅信式 (11時)

10月20日(日) 世界宣教の日晩の祈り・聖体礼拝 (17時 カテドラル)

10月21日(月)~23日(水) 東京教会管区司祭研修会 (札幌)

10月26日(土) 聖ヨハネ会誓願式 (14時)

10月27日(日) 大森教会ミサ (9時半)

10月27日(日) 高輪教会、宣教協力体合同堅信式 (14時半)

10月29日・30日 カリタスジャパン全国担当者会議 (新潟)

 

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2019年9月27日 (金)

ネットワークミーティングと葛西教会50周年

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9月21日の土曜日、お昼過ぎから、千葉の鎌取にある聖母マリア幼稚園を会場にして、全国から150名近い青年たちが集まり、ネットワークミーティングが二日間の日程ではじまりました。

開会式のミサを依頼されたので、東京教区を中心に様々な教区から駆けつけた青年司牧担当の司祭とともに、野外でのミサを捧げました。またこの千葉の地にあっては、先日の台風の被害を受けて、復興に取り組んでおられる方々が大勢おられますし、この幼稚園の周囲でも樹木が大きな被害を受けている様子を目の当たりにしましたので、ミサの中では被害を受けられた方々のために、皆でお祈りをいたしました。

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ネットワークミーティングとは、なにか。

中心になっているのは、カトリック青年連絡協議会です。ホームページがあります。そこに次のように記されています。

「1998年にカトリック中央協議会の青少年委員会が解散するにあたり、全国のカトリックの青年の動きを支えるものを何か残したいということで、カトリック青年連絡協議会の発足の準備が始まりました。従来の青少年委員会の反省から、司祭・修道者と青年が一緒に話し合い考えていくことができるような形の会を目指し、何度も話し合いを進めてきました。

その結果、青年や青年にかかわって活動している人たちが自由に話し合い、交流ができる場「ネットワークミーティング」と、会を責任を持って支えていく場「カトリック青年連絡協議会」とを分けるということが提案されました。

そして、2001年9月、第1回ネットワークミーティングが東京にて開催されました。」

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全国各地で、年に二回ほどネットワークミーティングが開催されています。もちろんこの集まりだけが、日本の教会のすべての青年を網羅しているわけではなくて、それ以外の共同体や運動体も教会にはいくつも存在しています(伝統的には例えばJOCとか、または新しいカリスマによって集まった運動体とか)。また、わたし自身もそうだったのですが、こういった集まりで見知らぬ人と出会うのが苦手で、という人だっていることでしょう。一つの形式にとらわれずに、様々なスタイルで青年たちが教会につながってくれていることを期待すると同時に、教皇様が言われるように、青年は未来の教会の担い手なのではなくて、今の教会を作り上げている力なのですから、その力をまさしく「今」発揮していけるような教会共同体でありたいと思います。

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そして今回37回目となったネットワークミーティングのテーマは、なんと召命。「灯して照明!応えて召命!」でありました。

もちろん召命は、司祭や修道者だけのことではなく、キリスト者としての召命全般のことを指しています。今回の集まりでの出会いによって、それぞれの青年たちが、自らに固有の召命に目覚め、司祭や修道者を含めて、それぞれの呼ばれている道を力強く歩み始めてくれることを、こころから願っています。

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そして翌9月22日の日曜日は、都内の江戸川区にある葛西教会の創立50周年ミサでした。

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葛西教会は、聖アウグスチノ会に司牧が委託されている教会です。現在の主任司祭は、フィリピン出身のアウグスチノ会員ジェス神父。日本の責任者である柴田神父様をはじめ、大勢の司祭が参加してくださいました。またこの教会出身の二人を含め、司牧を手伝ってくださる女子修道会の方がたを含めた奉献生活者も、大勢参加。これからも司祭や修道者の召命が、豊かに与えられるように祈ります。(上の写真、右がジェス神父、左が柴田神父)

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葛西教会の皆さん、50周年おめでとうございます。そしてこれから、次の100周年を目指して、さらに豊かな教会共同体となりますように。また準備してくださった皆さん、素晴らしいお祝いでした。感謝。

以下、当日のお話の内容と少し離れますが、説教の原稿です。

葛西教会が誕生して50年が過ぎました。

1969年の松江教会献堂にはじまり、その後1985年に葛西教会の献堂を経て現在に至るまで、宣教と司牧に献身的に取り組んでこられた聖アウグスチノ修道会のみなさまに、心から感謝するとともに、お喜びを申し上げます。また、この50年の間、宣教師たちとともに教会共同体を育て上げてきた葛西教会の信徒の方々に、心から感謝申し上げます。

今日お集まりの皆さんの中には、50年前、どのような思いを胸に抱きながら、新しい教会の誕生に立ち会ったのか、まだはっきりと記憶しておられる方も多くおられると思います。また34年前の葛西教会の献堂をはっきりと記憶しておられる方も、大勢おられることと思います。あっという間の50年、また34年であっただろうと思いますし、同時にその間には、語り尽くせぬほどの多くの出来事があったことだと思います。

「あなた方は神と富とに仕えることはできない」と先ほど朗読された福音の終わりに記されていました。自らが仕える主人として、神を選択するのか富を選択するのかをイエスは迫っています。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」の中で、現代社会が直面する課題の一つとして経済の格差を上げ、「排他性と格差のある経済」は「「人を殺します」とまで指摘されます(53)。

その上で、経済の優位性を最優先する現代社会には、「倫理の拒否と神の否定が潜んでいる」と指摘されています。

わたしたちがイエスの福音に習って生き、その喜びを告げ知らせようとしているこの日本の社会は、いったい何を優先させているのでしょうか。教皇が指摘されているように、もしこの社会にも「倫理の拒否と神の否定が潜んでいる」のであれば、教会共同体は、神に至る道を選択するようにと告げしらせる努力をしなければなりません。教会に与えられた福音宣教の使命です。

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わたしたちは、教会というのは単に聖堂という建物のことだけを指しているのではないことを良く知っています。第二バチカン公会議は教会憲章は冒頭で、教会とは何かを教えてこう記しています。

教会は、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具」です(教会憲章一)。
ですからわたしたちは、この地域社会にあって「神との親密な交わりと全人類の一致のしるし」となるために存在する「神の民」であって、この「神の民」は、「神との親密な交わりと全人類の一致」をもたらす道具でなくてはなりません。

教会はその存在を通じて、「神との親密な交わりと全人類の一致」に生きるとはどういう生き方を選択するのかを示していかなくてはなりません。わたしたちはそれを、自らの言葉と行いで成し遂げます。社会に対して共同体として、神との親密な交わりに生きるとは、人間が生きる上でいったいどのような価値観を優先するべきなのかを明確に示さなければなりません。教会共同体は、わたしたちは「神と富とに仕えることはできない」ということを、明確に証しする存在でなければなりません。

神を選ぶことなく、神から離れた社会は、人間の存在の根本である生命に対する戦いを挑んでいます。
それは例えば、相模原市の津久井やまゆり園での障害者に対する殺傷事件です。

犯行に及んだ元職員の青年の、「重度の障がい者は生きていても仕方がない。安楽死させるべきだ」などという主張に賛同する人も少なくありません。すなわち、わたしたちの社会には、役に立たない命は生かしておく必要はないと判断する価値観が存在していることを、この事件は証明して見せました。

さらには、この数年、少子化が叫ばれているにもかかわらず、せっかく与えられた命を生きている幼子が、愛情の源であるべき親や保護者の手で虐待され、命を暴力的に奪われてしまう事件も相次いでいます。

もっと言えば、1998年をはじまりとして、わたしたちの社会では毎年2万人から3万人を超える方々が、何らかの理由で自ら命を絶つところまで追い詰められてきました。

また社会全体の高齢化が進む中で、高齢者の方々が、孤独のうちに人生を終えるという事例もしばしば耳にいたします。誰にも助けてもらえない。誰からも関心を持ってもらえない。孤立のうちに、いのちの危機へと追い詰められていく人たちも少なくありません。

孤独のうちに希望を失っているのは高齢者ばかりではなく、例えば非正規雇用などの厳しさの中で、不安定な生活を送る若者にも増えています。加えて、海外から来日し、不安定な雇用環境の中で、困難に直面している人たちにも、出会うことが増えてきました。

わたしたちが生きている現実の世界は、残念ながら、神から離れる道を選択し続けています。

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教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」において、教会は「出向いていく教会」でなければならないと言います。出向いていく教会は、「自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」教会です。

日本の教会はいま、とりわけ地方の教会において、少子高齢化の影響を大きく受けて、どちらかと言えば規模の縮小期に入っています。そういうときに私たちはどうしても、いまあるものを守ることを優先して、後ろ向きの積極性を発揮してしまいがちです。積極性は前向きに発揮しましょう。 

教皇フランシスコは、かつてブエノスアイレスの教会で司祭や信徒に対して語った言葉を、使徒的勧告の中で繰り返しておられます。

「私は出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さ故に病んだ教会より好きです。中心であろうと心配ばかりしている教会、強迫観念や手順に縛られ、閉じたまま死んでしまう教会は望みません」

教会創立50年という節目に、わたしたちの教会共同体のあり方を今一度見つめ直してみましょう。わたしたち一人ひとりの、福音を生きようとする姿勢を見直してっみましょう。
わたしたちは神との親密な交わりと一致のしるしであり、道具となっているでしょうか。
わたしたちは社会において、神の道を指し示しているでしょうか。
わたしたちは後ろ向きではなくて、前向きの挑戦を続ける積極性を持っているであるでしょうか。
わたしたちは失敗を恐れずに、挑戦し続ける教会でしょうか。
わたしたちは困難に直面し、いのちの危機にさらされている多くの方々に、寄り添いともに歩もうとする共同体でしょうか。

勇気を持って福音を告げしらせる共同体と成長していくことができるように、次の50年を見据えながら、聖霊の導きに教会共同体をゆだねましょう。

 

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2019年9月21日 (土)

秋田の聖母の日2019@聖体奉仕会

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今年で5回目となりますので、そろそろ恒例と呼んでもいいものだと思いますが、秋田の聖体奉仕会を会場に、秋田の聖母の日の祈りの集いが、9月14日と15日に開催され、300人近い方々が、全国は言うに及ばず世界各地から参加してくださいました。

聖体奉仕会は、新潟教区認可の奉献生活者の会ですが、会員が祈りの生活を営む場であり、また聖母の御像に関する奇跡的な出来事があった場であります。新潟教区は、わたしの前々任者である伊藤庄治郎司教が、1984年4月22日に発表された司牧書簡を引き継いでおり、その書簡によって奇跡的な出来事を認め巡礼が許されています。

わたしは今回は、東京教区のカテキスタの認定式があった関係で、少し遅れて秋田に入りましたので、15日日曜日のミサを教区管理者として司式させていただきました。特別な機会ですので、主日ではありますが、悲しみの聖母の記念日のミサを捧げました。

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同日のミサにはポーランドからの巡礼団の司祭や、ベトナムからの司祭も加わり、世界各地から訪れてくださった皆さんと、祈りをともにすることができました。

できれば来年の秋田の聖母の日が行われる頃には、新潟の新しい司教が誕生していてほしいとは思いますが、同時に、一度マリア様に捕らえられると離してもらえなくなるので、わたし自身は来年以降も、少なくとも一日だけでも参加させていただこうと思います。

より多くの方がこの聖なる祈りの場を訪れ、聖母の取り次ぎを祈りながら、回心の道を歩まれますように。

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以下、9月15日のミサの説教の原稿です。

苦しみはいったい何のためにあるのか。

わたしたちが生きている現実には、ありとあらゆる困難が存在しており、様々な意味で苦しみを生み出しています。また理不尽な出来事に翻弄されたり、大きな災害によって人知を遙かに超える苦しみや悲しみに見舞われることさえあります。この数年は、大切な賜物である人間の生命が、まるでもてあそばれているとでも言うような仕方で暴力的に奪い取られる理不尽な事件も続発しています。

理不尽な現実を目の当たりにするとき、どうしてもわたしたちは、「なぜ」という疑問を口にいたします。

2011年の4月に、子どもたちの質問に答えるテレビの企画で、教皇ベネディクト16世は、日本の少女からの質問を受けられました。
東北の大震災を体験した直後のことです。少女は、「なんで子どもも、こんなに悲しいことにならなくてはいけないのですか」と教皇に質問しました。

それに対してベネディクト16世は、「他の人たちが快適に暮らしている一方で、なぜ皆さんがこんなにたくさん苦しまなくてはならないのか? 私たちはこれに対する答えを持ちません」と、正直に応えられました。

その上で、「でも、イエスが皆さんのように無実でありながらも苦しんだこと、イエスにおいて示された本当の神様が、皆さんの側におられることを、私たちは知っています。・・・神様が皆さんのそばにおられるということ、これが皆さんの助けになることはまちがいありません。・・・今、大切なことは、『神様はわたしを愛しておられる』と知ることです」

教皇ヨハネパウロ2世は、1984年の贖い聖年に当たって発表された書簡「サルヴィフィチ・ドローリス」において、苦しみの意味を考察されています。

教皇は、「神は御ひとり子を、人間が悪から解放されるために世に与えられた」と指摘し、その中に、「苦しみについての決定的、絶対的な見地が」示されていると述べています。

御子は、神が愛される人間の救い、すなわち贖いのために、罪と死に打ち勝たなくてはならなかった。そのための戦いが、イエスの人間としての苦しみの生涯なのだというのです。

ベネディクト16世が日本の少女に言われたこと、「イエスが皆さんのように無実でありながらも苦しんだこと」の理由は、神が人間を愛しているからに他ならず、その愛のために、イエスは苦しみ抜かれ、ご自分を贖いの生け贄として十字架上で御父にささげられました。

聖母マリアの人生は、母として、イエスの苦しみの人生に寄り添う生涯でありました。
イエスとともに歩む時の始まりに当たって、シメオンは、「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と預言します。すなわち、神の愛を実現しようとするイエスには、悪に基づく様々な抵抗があり、罪と死に打ち勝つための苦しみに彩られた生涯が待ち構えているが、聖母もまた一緒に、その苦しみを体験し、「心を刺し貫かれる」というのです。

聖母マリアは、イエスとともに歩む時の終わりである、イエスの十字架上の苦しみにも寄り添いました。
教皇ヨハネパウロ2世は、先ほどの書簡の中で、「キリストの傍らの最も崇高な場所で、いつも聖母が、一生涯を通して、この特別な苦しみの福音を模範的にあかししながら生きてこられた」と述べています。

キリストの生涯は、苦しみが、人類の救いのための力を生み出すことを教えています。

教皇ベネディクト16世は、「希望による救い」のなかに、真の人間の価値をこう指摘されます。
「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼす(「希望による救い」39)」

苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値を持って生きるために不可欠な要素です。苦しみは、神がわたしたちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむわたしたちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。

聖母マリアは教会の模範であります。ですから教会は聖母と一致して、先に模範を示された聖母に倣い、キリストの苦しみにともに身をゆだねます。

聖母マリアは、一人ひとりの信仰者にとっても模範であります。「お言葉通りにこの身になりますように」と天使に応えた聖母は、すべてを神にゆだねる謙遜さの模範を示されました。わたしたちはその謙遜さに倣い、神の計画に身をゆだねる勇気を願いたいと思います。

聖母マリアは、わたしたち一人ひとりの霊的な母であります。真の希望を生み出すために苦しみを耐え忍ばれたイエスに、身も心も併せて歩みをともにされた聖母に倣い、わたしたちも、主イエスの苦しみにあずかり、真の希望への道を切り開いていきたいと思います。

教皇ヨハネパウロ2世は、苦しみについての考察を終えるにあたって、ただ漫然と苦しみに耐えていれば良いというわけはではないことも、指摘することを忘れてはいません。漫然と耐えているだけでは、この世における神の国の実現はあり得ないからです。そこで、教皇は、教会が「善きサマリア人」に倣って生きるようによびかけ、「我々お互いの関係は、苦しむ隣人の方に向かわなければならない」と指摘します。

その上で、教皇は「苦しみは、また、人間の人格の中で、愛を誘発するために存在している」とまで述べて、困難に直面する人たち、苦しみのうちにある人たちへ、徹底的に自己を与え尽くすことによって奉仕し、寄り添うことが必要であると説きます。苦しみの福音は、善きサマリア人としての生きたとを通じて、常に希望へと方向付けられるのです。

わたしたちは今日、イエスと苦しみの生涯をともに歩まれた聖母の悲しみを記念しています。聖母の悲しみは、ただ悲嘆に暮れる悲しみではなく、希望に向かって歩み出すための力を生み出す苦しみであります。困難に直面する人たちへと、わたしたちのまなざしを向ける苦しみであります。

聖母に倣って、社会の現実の中で、主イエスの耐え忍ばれた苦しみを心にとめ、主と歩みをともにしながら、希望を生み出すために力をいただき、手を差し伸べる存在であり続けましょう。 

 

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2019年9月18日 (水)

教皇フランシスコの訪日正式発表を受けて

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9月13日金曜日ローマ時間の朝9時に、教皇フランシスコの日本訪問と、その前に予定されているタイ訪問が、バチカンと、東京と、バンコクで、同時に発表されました。バチカンは、報道官の短いステートメント、日本は官房長官のちょっと長いステートメント、バンコクではタイ司教協議会主催で、なかなか大がかりな記者発表が行われました(これはビデオを見ることができます

タイは11月20日から23日、日本は11月23日から26日で、日本での訪問先は、東京、長崎、広島となっています。なお日本訪問のテーマは「すべてのいのちを守るため」とされています。これは教皇の回勅「ラウダート・シ」に記されている言葉からとられました。詳しくは、カトリック中央協議会の特設ホームページをご覧ください。東京ドームでのミサの申し込みは、9月20日から特設サイトで、またはすでにツアーを組んでいる旅行会社経由でお願いいたします。

38年ぶりのローマ教皇の日本訪問を、心から歓迎し、喜びのうちに迎えたいと思います。教皇フランシスコは、現代社会を支配する様々な価値観の直中に生きながら、神の望まれる世界を実現する道とは異なっている道へと誘う価値観に対して、厳しく対峙する姿勢を示してこられました。

同時に、使徒の頭(かしら)の後継者として、イエスの福音宣教命令をより積極的に果たしていく姿勢を自ら示されることで、世界の教会共同体にキリスト者として生きる道を明確に示しておられます。とりわけキリストのいつくしみ深い心に導かれ、社会の中にあって助けを必要としている人、困難に直面している人、排除・排斥されている人、希望を失っている人に、積極的に関わり、歩みをともにしながら、いのちを生きる希望を生み出そうとされてきました。

教会の中で待っているのではなく、助けを必要としている人のもとへ積極的に「出向いていく教会」を理想として掲げる教皇は、失敗や喪失を恐れて守りに入るのではなく、失敗を恐れずに積極的に行動するように呼びかけます。実際、教皇自身が、これまでの慣習にとらわれることなく、自らの言葉を行いで示してこられました。

近年は、「ラウダート・シ」を発表することで、皆に共通の家である地球を護ることは、神からの賜物であるいのちを護ることだとして、環境問題に関わり、全人的な人間発展(総合的人間開発)の視点から、発言を続けられています。

同時に、2013年の教皇選挙を前にして開催された枢機卿会での多数意見を受け、バチカン(聖座)の機構改革にも取り組んでこられ、その集大成とも言うべき文書の発表が、待たれているところです。教皇は、バチカンが、中央政府のように教会全体に命令を下すのではなく、教皇を補佐し、また世界の教会に奉仕する場となることを目指しておられます。

教皇フランシスコの日本訪問は、日本の教会に、福音に従って生きることの大切さを繰り返し教える教皇フランシスコの姿勢に学び、それに倣う機会を与えてくれるでしょう。社会の直中にある教会共同体が、より福音にふさわしい生きる姿勢を見いだす機会を与えてくれるでしょう。「働き手を送ってくれるように祈れ」と言われた主の言葉を思い起こし、福音宣教のために奉仕せよとの呼びかけに、多くの人が応える機会ともなるでしょう。いつくしみ深い主イエスに倣って生きる道を、わたしたちに示してくれるでしょう。

もちろん、何も準備をしなければ、ただスーパースターがやってきた一大イベントで終わってしまうでしょう。だから準備が大切です。幸い10月は福音宣教のための特別月間ですし、あらためて教皇フランシスコの書かれた文書を学び、その姿勢の模範に倣い、わたしたちの心を準備いたしましょう。もちろん、教皇様のために祈ることを忘れないようにいたしましょう。

なお、東京に滞在する11月25日と帰国の途につかれる11月26日に関して、様々なご提案やリクエストが東京教区にも寄せられています。教皇様の外国訪問は、バチカン(聖座)の主催行事であり、ミサの典礼の内容も含めて、バチカンの関係部署からの指示で執り行われます。日本の司教協議会や教区は、その指示を具体的に実行する役割ですので、日本側からバチカンに要求することはできません。したがって、残念ながら、寄せられている様々なリクエストにお応えすることは適わないであろうこと、ご理解ください。

また、主にミサの入場券のことで、教区本部やわたし宛にも様々なご注文をいただいていますが、これも東京教区の管轄ではなくて、司教協議会の管轄ですので、その点ご理解ください。

下の写真は、2013年5月17日、国際カリタスの理事会の時に、2ヶ月前に就任されたばかりの教皇様に、日本訪問をお願いしているわたしです。教皇様が住んでおられる、カサ・サンタ・マルタにて。

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教区カテキスタ認定・任命ミサ@東京カテドラル

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9月14日の土曜日、一年間にわたる養成講座を修了した26名の信徒の方が、東京大司教区のカテキスタとして認定され、さらに来春からの実際の活動へと任命・派遣されるミサが、東京カテドラルの地下聖堂を会場に行われました。地下聖堂にはスタッフとして協力してくださった信徒の方々、カテキスタとして認定される方々の友人や家族、そしてカテキスタの方々の所属教会の司祭など、多くの方が集まってくださいました。

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ミサの最中に、カテキスタとして認定された方々は、信仰宣言と決意の表明の後、ひとりひとりに認定書と任命書が手渡されました(写真は委員会の担当者である猪熊神父様が用意してくださった、認定書と任命書。個人の名前や、派遣先については画像を加工してあります)。

またミサに先立って、わたしが一時間ほど講話をさせていただき、その終わりには、講座の修了証もお渡ししました。カテキスタとして認定された方々は、今度は来春から、協力してくださる小教区に派遣され、そこで求道者の要理教育など信仰養成に具体的に関わることになります。

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初めての挑戦ですから、いろいろとあらためなくてはならないことが出てくるものと思います。教区の将来を考えるとき、司祭とともに信仰養成に関わってくださる方々の存在は不可欠だと思います。今回は26名もの方々が参加してくださいましたが、次期の講座には10名ほどの申し込みがあるそうです。毎年10名ほどの方が参加してくださると、長期的な視点から、小教区における信仰養成を考えていくことが可能になると期待しています。担当者である猪熊神父様には、一年間本当にご苦労様でした。感謝しています。これからもさらに充実させた講座を継続して行かれますように、また実際に現場で取り組むカテキスタのシステムがより良く運営されるように、猪熊神父様にはさらなるご尽力をお願いいたします。

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以下、今回のカテキスタ養成講座に至った考え方をまとめた、養成委員会のメンバーである高木賢一神父の一文を、教区ニュースから転載します。

『2013年の「信仰年」をきっかけに、東京教区では、再度、生涯養成委員会が立ち上がりました。  

その際、10年後の東京教区の在り方を見据えると、これからの教区では、様々な試みが求められるであろうことが見通されました。信徒たちが信徒を養成する必要性が生まれることは容易に想定されましたが、これを実現するための準備に費やすべき時間が、これから、どれ程かかるかと考えると、そのための具体的な対応は急務であるという理解に至り、生涯養成委員会において、具体的な準備を進めることになった次第です。  

そのような理解のもとに生まれた分科会の一つが、「ウェルカム・テーブルを考える会」です。  
当初、生涯養成委員会の中には、もう一つの分科会である「入門講座担当者養成講座」というグループがあり、その目指す内容は、「信徒が信徒を養成することができるようになるための準備」ということに、軸足が置かれていました。  

しかし、議論の回数を重ねるうちに、まず、「司祭の数が減っていく中で、一人の司祭が、複数の教会を担当し、主日ミサの司式に専念せざるを得ない状況で、司祭単独で、どこまで、新しく教会を訪れた人たちに関わることができるのだろうか? 自ずと限界が顕わになってくるのではなかろうか?」ということが、懸念されました。  

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次に、「これから司祭が不足して、一つの教会に一人の司祭が常駐できなくなった時が来ると、どうしても、特定の教会に通う求道者が、受洗準備として、要理教育を受けるために、『拠点教会』と呼ばれるような大きい教会に通わざるを得なくなる。しかし、その際、その求道者が、それまで通っていた教会ではなく、その『拠点教会』に属したいと希望するようになると、求道者を送り出した側の教会は、新しく教会を訪れた人たちを、自分たちの仲間として迎える機会が、ますます減っていってしまう。それこそ、『大きい教会は、ますます大きくなり、小さい教会は、ますます小さくなるばかり』という状態にならないだろうか?」ということが、同時に、懸念されるようになったのです。 そこで、

①新しく教会を訪れ、洗礼を希望するようになった求道者を迎えた教会が、その人を信仰生活に導くための機会を提供すること。
②同時に、その時、その人には、教会共同体の一員に加わっているという自覚を持ってもらえるような関わり方をすること。
③その上で、要理教育が行われる「拠点教会」に送り出すためには、どのような教会の在り方が考えられるか? という内容が話し合われることになりました。  

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このような経緯のもとに生まれたのが、「ウェルカム・テーブルを考える会」であり、私たちは、この分科会の名称を字義通りに解釈し、新しく教会を訪れた人を迎えるための「受け皿」を作れば、それで事足りる、とは思っていません。折に触れて、私たちの教会の体質改善も含めた提言をさせて頂きたいと思っております。  

新しく教会を訪れた人たちが、信仰生活へと歩みを続けていくための一連の流れの最初に「ウェルカム・テーブル」があり、その後、具体的な学びの場として、要理教育が提供される。その要理教育を担当することのできる信徒たちの養成をするのが、「入門講座担当者養成講座」であるということなのです。』

 

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2019年9月12日 (木)

マザーテレサの祝日@足立教会。そして堅信式@徳田教会

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9月5日はコルカタの聖テレサの記念日です。コルカタの聖テレサというよりも、マザーテレサの方が聞きなじみある名前ですし、コルカタよりもカルカッタの方が、これまた聞きなじみがあります。マザーテレサが亡くなられて22年。列聖されて3年です。東京で働かれる神の愛の宣教者会のシスターたちと、9月7日の土曜日に、修道院の近くにある足立教会で感謝ミサを捧げました。


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すべての人の命の尊厳を守るために尽くされたマザーテレサの偉業は、あらためてここで語るまでもありません。また世界中の厳しい社会環境の場で、困難に直面する人たちのため、社会から排除された人たちのため、命の危機に直面している人たちのために、ありとあらゆる困難を乗り越えて尽くそうとする神の愛の宣教者会のシスター方の活躍についても、あらためてわたしが語るまでもありません。シスター方の活動に、心から敬意を表したいと思います。また男子のブラザーたちも、山谷で活動を続けておられます。


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すべての人が自分で、マザーテレサや神の愛の宣教者会のシスター方と同じことができるわけではありませんが、その生きる姿勢や関わりから、私たち自身の生き方への指針を見いだしたいといつも思います。

ミサ後には、足立教会の一階をお借りして、参加した皆で昼食会となりました。

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わたし自身はマザーテレサには直接お会いしたことはありません。列福された翌年、2004年の春に、カリタスジャパンの援助プログラムの視察でカルカッタに出かけた際、修道院を訪問して、修道院聖堂に葬られたマザーテレサの墓の前でお祈りを捧げる機会がありました。

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カリタスジャパンの援助プログラム視察で、アジアやアフリカの様々な国へ出かけましたが、どこに行ってもあのブルーのラインが入った白いサリーの修道服に出会いました。これからも主イエスのいつくしみの福音の証し人として、活躍を続けられますように。

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翌、9月8日は、東京都内中野の徳田教会で堅信式がありました。徳田教会は、主任司祭が教区司祭の大倉神父様。同じく教区司祭で、信徒カテキスタ養成を担当している猪熊神父様が協力司祭です。

徳田教会はベタニア修道女会の本部に隣接し、さらに隣はかつての慈生会病院(現在は総合東京病院)です。

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今回は、8名の方が堅信の秘跡を受けられました。そのうちお二人は高円寺教会の方でした。先日の高円寺での堅信式の際には、体調を崩されておられたため、今回合流となりました。堅信を受けられた皆さん、おめでとうございます。

9月8日は、今年は主日と重なったため主日の典礼が優先されますが、聖母の誕生の祝日です。そしてその一週間後の9月15日は、これもまた今年は主日と重なりますが、悲しみの聖母の記念日。聖母マリアが主イエスとともに歩んだ旅路は、常識を越えた苦しみに直面する人生でした。シメオンに告げられたように、イエスの人生も様々な反対に直面する困難の人生ですが、聖母もまたその心が剣で刺し貫かれるほどの苦しみの人生でした。それはイエスの十字架での受難のときまで続きます。つまり聖母は、受難によって罪と死に打ち勝ち、救いの計画を遂行した主イエスに常に寄り添って苦しみをともにされました。

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言うまでもなく、現実社会における様々な困難を、そのままで良いと放置することは、ふさわしいことではないと思います。私たちは神の秩序の実現を、今生きているこの世界でも追い求めたいと思います。同時に、福音を生きようとするとき、目前に示される選択肢には、困難を伴う道と妥協のうちに安楽な道とが含まれていることでしょう。そのようなとき、困難に直面することを厭わなかった主御自身の姿と、「我になれかし」とその苦しみに身をゆだねることを厭わなかった聖母の姿を思い浮かべたいと思います。

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堅信式ミサ後には、信徒会館で、祝賀会が催され、わたしも歌をひとつふたつ披露させていただきました。

 

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2019年9月 2日 (月)

夏は過ぎゆきつつあります

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あっという間に8月は終わり、9月となってしまいました。その9月1日の日曜日、教皇様は新しい枢機卿の任命を発表され、13名の名前を昨日公表されました。そのうち10名が80歳未満で教皇選挙の投票権を持っています。親任式の枢機卿会は10月5日に開かれます。その13名のうちに、以前上智大学でも教えておられたイエズス会員で、ルクセンブルグのオロリッシュ大司教が含まれていました。おめでとうございます。これで、枢機卿団のなかに、前田枢機卿とともに、日本語を話す方がもうひとり増えました。

さて、手遅れになる前に、8月後半の出来事を一興に掲載します。

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8月18日の日曜日は、生まれ故郷である岩手県の宮古教会で主日ミサを捧げてきました。毎年少なくとも一度は、故郷の教会でミサを捧げさせていただいてます。わたしが通っていた教会の幼稚園の先生はまだまだご健在ですし、土曜の夜には同級生やそのあたりの年代の方々と夕食会もあり、旧交を温めました。

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8月22日と23日は、東北の復興支援を行っている仙台教区サポート会議が、今回は南相馬の原町教会で開催されました。22日には福島第一原発の周辺地域を訪れ、東電の廃炉作業に資料館も訪れて、これからの工程について学び、帰還困難区域がまだまだ残る被災地を訪ねました。

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23日には、福島県内で支援活動に取り組んでおられる方々からお話を伺い、その後、いつものような定例会議でこれからについてを話し合いました。福島の地で復興に取り組まれる方々と、各地で避難生活を続ける方々、また廃炉作業に取り組む多くの方々と、様々な命を生きる現実を受け止め、歩みをともにする決意を新たにしました。震災と事故によってもたらされた地域社会の分断は、簡単には修復できない溝を生み出しているように感じました。その修復のお手伝いが少しでもできればと思います。

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8月24日は、日本カテキスタ会の恒例の信仰養成講座で、お話をさせていただきました。日本カテキスタ会は、神言会の故ゲマインダー神父が創設したもので、今年で50年。わたしにとっても大先輩が関わったことですし、わたしの神言会の小神学校進学にも関連しているので、特別な思いがあります。講演は、これからの日本の教会について、お話しさせていただきました。12月には同じ内容で、長崎でも話をするように依頼を受けています。

またこの日の夜には、青山学院大学で、母校である名古屋の南山中学高校の同窓会の依頼で、教皇フランシスコについてお話しする機会もいただきました。

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8月29日から31日は、東京教区の3名の神学生と、2名の養成担当者、そして司教総代理とわたしの7名で、那須の聖ヨセフ山の家を会場に、神学生合宿を行いました。初日は日光まで足を伸ばし、夜にはわたしの講話。二日目は神学生面談の後に、会津の大内宿まで足を伸ばし、その日の夜は養成担当者による講話。朝早くの祈りとミサにはじまって、夜遅くの講話まで、みっちりと詰まったスケジュール。お世話くださったベタニアのシスター方に感謝。

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わたしは最終日一足早く新幹線で帰京し、上智大学へ。今般横浜で開催されたアフリカ開発会議TICADの関連で、外務省やイタリア政府も加わり、立正佼成会と聖エジディオ共同体と上智大学の共催で開催された、「アフリカの新たなビジョン2019」国際会議に参加して、ご挨拶。午後の「白熱教室」では、パネリストのひとりにも加わりました。NGOの専門家の方々の専門性と、会場に詰めかけた立正佼成会の方々の熱気に圧倒されて、あまりまともなコメントができなかったのが悔やまれます。

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そして9月1日は、カトリック教育学会で講演と閉会ミサを頼まれていたので、名古屋の母校、南山大学へ。全国から50名ほどの方々が参加。生命の尊厳について、司教団のメッセージ「いのちへのまなざし」と、わたしのアフリカの体験に基づいて、講演させていただきました。南山大学の教室で話をしたのは、司教になる前に非常勤で教えていた時以来ですので、15年ぶりでした。南山大学は、新しい教室も増え、様変わりしていました。閉会ミサは、わたしが中学一年から大学院までを過ごした、南山大学の隣にある神言神学院の聖堂で。これまた懐かしくミサを捧げさせていただきました。これで8月は終わりました。

というわけで、9月の主な予定です。

  • 9月3日 日本聖書協会会議 (午前中、銀座)
  • 9月5日 常任司教委員会他 (終日、潮見)
  • 9月6日 日本聖書協会理事会 (午前中、聖書協会)
  • 9月7日 コルカタの聖テレサ記念日ミサ (10時半 足立教会)
  • 9月8日 徳田教会堅信式ミサ (10時)
  • 9月9日 教区顧問会他 (終日)
  • 9月14日 教区カテキスタ養成講座修了式 (関口)、秋田巡礼 (聖体奉仕会)
  • 9月15日~17日 秋田巡礼 (聖体奉仕会など)
  • 9月20日 臨時司教会議 (終日、潮見)
  • 9月21日 ネットワークミーティング・ミサ (12時半、千葉、鎌取)
  • 9月22日 葛西教会50周年ミサ (11時)
  • 9月24日 ロゴス点字図書館会議 (午後潮見)
  • 9月25日 新潟教区顧問会
  • 9月26日 WCRP(宗教者世界平和会議日本委員会)理事会 (終日、京都)
  • 9月28日 カトリック聴覚障害者の会全国大会ミサ (13時から、船橋)
  • 9月29日 青梅教会堅信式ミサ (11時)、聖グレゴリオの家40周年ミサ (16時半)
  • 9月30日 司祭月例会 (10時半、関口)、教区会議 (午後、関口)

ところで、このところ香港では非常に不安定な状態が続き、警察と反政府デモとの激しい対立や暴力的鎮圧、また北京政府の介入の恐れなどが報道されているのはご存じの通りです。香港には、わたしも知人や友人が大勢いますから、メールで様々な情報が伝わってきています。非常に心配です。香港教区は、わたしの長年の友人であったミカエル楊司教が今年の1月に病気で亡くなられて以来、司教座空位が続いており、前教区長の湯枢機卿が管理者に任命されています。湯枢機卿は、香港の方々と、香港政府と、北京政府の間の緊張関係の中で、なんとか事態を平和裏に終結させようと、日々仲介の努力をされています。香港のために、祈り続けたいですし、これ以上の混乱がないように、関係者が自制心を持って行動されるように聖霊の照らしを祈っています。

心苦しいのは、近隣の国で起こるこういった事態に対して、そもそも他の国の司教協議会やそれぞれの司教は、現地からの要請がない限り、他の国の政治当局などに対して批判したり呼びかけをしたりすることが許されていないため、今にいたるまで何も言えないことです。加えて中国に関しては、本土に信教の自由を完全には保障されていない兄弟姉妹がいる中で、彼らを困難な状況に陥らせるような外からの発言は、賢明ではありませんから、慎まなくてはなりません。

そうなのですが、しかし今の状況を目の当たりにし、友人たちからの叫びを受け取っているなかで、ただ黙っていることはできません。北京政府は、香港の人々に現在保障されている様々な権利や自由をあからさまに侵害したり、様々な手法を持って制限したり、また暴力的に弾圧することなく、平和裏に共存する道を選ぶように賢明な判断をされることをこころから望みます。自由と民主主義を尊重する世界の多くの国々が、北京政府と香港政府の行動を見つめていることを、リーダーたちが心にとめられことを、真摯に期待します。そして賜物である生命を尊重するキリスト者は、北京政府と香港政府の賢明な判断と行動を求めます。

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2019年8月21日 (水)

教皇フランシスコ 7

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残念なことに、今日に至るまでも教皇様の訪日に関する公式な発表はありません。最終的にはバチカンと日本という二つの国家の外交交渉ごとですので、司教団としてもただただ発表されるのを待つしかありません。公式発表がまだなので、詳しい日程や肝心のミサの参加について発表ができず、様々な憶測が飛んでいるようです。申し訳ありません。

この数年の慣例を見る限り、だいたいどこの国の訪問でも三ヶ月ほど前にならないと、バチカンからの公式発表はありません。ちなみに三十八年前の来日の際の準備の大変さについては、当時広報を担当した水浦征男神父様の書かれた「教皇訪日物語」(聖母文庫)に詳しく、私もすでに何度も読み返しました。これを読まれると、現時点での状況を推し量ることが可能です。ぜひご一読を。いずれにしろ、公式発表がありましたら、即座に中央協議会のホームページなどで、そのほかの詳しいことは公表される予定ですので、今しばらくご辛抱ください。

というわけで、教皇様を迎える準備のために、もう少し教皇フランシスコの言葉から学んでみましょう。

信仰はいわば個人の内心の問題ですから、信じるのか信じないのか、何を信じるのか信じないのかは、それぞれの個々人がその内心において自己決断する事柄であって、決して外部からコントロールされて良いものではありません。その意味で、信仰は非常に個人的な性格を持っています。

それでは何でも好き勝手に自分の好みで信じて良いのかというと、そういうわけでもありません。たとえばキリストを信じると公に宣言する者が、とんでもない異端説に取り込まれ主張するのであれば、教会は同じ信仰に生きるものとして、正しい道を示して導こうとします。それは、私たちの信仰は極めて共同体的な性格を持っているからです。

そもそも聖書を通じて、旧約時代の神による民の選びもそうですし、新約時代にあってイエスが弟子たちの共同体を通じて福音を告げたこと、また弟子たちの共同体に聖霊が降臨することで教会が始まったことなどをみれば、私たちの信仰は共同体の存在を前提として成り立つ信仰であることがわかります。

私たちの信仰は、極めて個人的であると同時に、極めて共同体的でもあります。

信仰における共同体的性格を目に見える形で反映しているのが、私たちが通い祈りを捧げる教会、つまり小教区の存在です。

教皇フランシスコは、『出向いていく教会』を強調しておられました。ヨハネパウロ二世の言葉を引いて、教皇フランシスコは『福音の喜び』でこう指摘します。

「教会の刷新はすべて宣教を目的とすべきです。教会的な内向性というものに陥らないために」(27)

ただし教皇フランシスコは確かに教会の刷新を求めてはいるものの、しかしそれは、伝統的な小教区という共同体をぶちこわして、それぞれが自由に、そしてばらばらに活動すれば良いのだということを目指すのではないということを、教皇は『福音の喜び』で次のように指摘しています。

「小教区は時代後れの構造ではありません。非常に柔軟性があるからこそ、司牧者や共同体が持つ開放性や宣教における創造性が求める、多様な形態を受け止めることができます。・・・小教区は地域社会における教会の現存であり、御言葉に耳を傾ける場であり、キリスト者としての生活の成長の場であり、対話、宣教、愛徳、礼拝、祭儀の場なのです。」(28)

教皇フランシスコが、これまでの伝統的な小教区のあり方から脱皮した教会の新たな姿を模索しようとしていることは確実です。しかしそれは小教区というシステムの否定ではなく、創造性と柔軟性を持って、新たな形での「地域社会における教会の現存」となる存在を生み出すことです。

そこで、教皇ベネディクト十六世が、『神は愛』の中で示した、教会の本質的要素の指摘が重要です。教皇ベネディクト十六世は、こう指摘されていました。

「教会の本質はその三つの務めによって表されます。すなわち、神の言葉を告げ知らせることとあかし、秘跡を祝うこと、そして愛の奉仕を行うことです。これらの三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことができないものです」(神は愛25)

福音宣教と、典礼と、愛の奉仕が絶妙に併存している共同体。教皇フランシスコはそれを「御言葉に耳を傾ける場であり、キリスト者としての生活の成長の場であり、対話、宣教、愛徳、礼拝、祭儀の場」と位置づけます。

もちろん皆が同じことをできるはずはなく、皆が同じことをする必要もありません。それぞれの与えられた賜物に応じて、果たすことができる役割は異なっているでしょう。でも、例えば、一人で祈るときにも、共同体の一部として祈っていることを意識し、ミサに与るときも、共同体の一部として与っているのだという意識を持つことは大切だと思います。共同体を中心に据えているのはとりわけ典礼において顕著ですが、愛の奉仕にしても、自分の優しさの故ではなく、共同体の愛の奉仕の一部として行っているという意識が大切なのではないかと、私は思っています。

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2019年8月16日 (金)

聖母被昇天祭@東京カテドラル

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8月15日は様々な思いが去来する日です。470年前に聖フランシスコ・ザビエルが日本に初めて福音をもたらした日であり、ザビエルが日本を聖母に奉献した日でもあります。

74年前には、日本が降伏を受け入れ、戦争が終結することが明らかになった日でもあります。ですから、8月15日は過去の歴史を振り返り、戦争という手段を国家間の争いごとの解決のために選択はしないという決意を新たにする日です。日本の教会は、8月6日の広島の原爆の日からはじまり、9日の長崎の原爆の日とともに、15日までの10日間を平和旬間として、過去に学び、今の生命に生き、将来の平和を祈り続ける『時』としてきました。

わたし自身とっては、3世紀のローマの殉教者である聖タルチシオの記念日でもあります。(現在は聖母被昇天祭の関係で、8月12日に移りましたが、たぶん多くのタルチシオを霊名にいただいている人は、いまでも8月15日に祝っていると思います)

そして、教会にとっては、聖母被昇天祭であります。

『聖母の被昇天の祝日は、1950年に「無原罪の聖母が地上の生涯の終わりにからだも魂もろとも天にあげられた」と教皇ピオ12世によって定義されたように、マリアが栄光につつまれて天国へ上げられたことを祝います。(女子パウロ会Laudateから)』

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東京カテドラル聖マリア大聖堂では、午前10時のミサに続いて、夕方6時からもミサが行われ、夕方のミサは私が司式いたしました。当初の予定では、カテドラル構内で一番歴史の長いルルドの前で祈りを捧げ、そこから大聖堂までロウソク行列をする予定でした。残念ながら、台風の影響で雨が降り、ロウソク行列は取りやめになってしまいました。昨年も強い風が吹いたため、この日の外での行事は中止でしたが、来年の好天に期待しましょう。

ミサは同じ聖マリア大聖堂で祈りを捧げている、カトリック関口教会(小教区)と東京韓人教会(属人小教区)の合同で行われ、ミサ後にはカトリックセンターホールで、納涼会も行われました。参加してくださった多くの方々に感謝します。

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以下、昨晩のミサの説教の原稿です。

「ともに手をとり合って、友情と団結のある未来をつくろうではありませんか。窮乏の中にある兄弟姉妹に手をさし伸べ、空腹に苦しむ者に食物を与え、家のない者に宿を与え、踏みにじられた者を自由にし、不正の支配するところに正義をもたらし、武器の支配するところには平和をもたらそうではありませんか。」

38年前の2月25日、教皇ヨハネパウロ二世は、広島での平和メッセージのなかで、特に若者に対して呼びかけて、そのように述べられました。

第二次世界大戦が終結したものの、ベトナム戦争をはじめアフリカや世界各地での紛争や内戦は頻発し、さらにはイデオロギーの相違から来る東西の対立が深刻となり、全面的な核戦争の可能性も否定できなかった時代に、教皇は「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」と力強く宣言して広島の平和メッセージを始められました。

戦争は、自然発生的に生まれてくるものではなく、人間の意図によって引き起こされるものだからこそ、人間は生命の破壊を避けるために自ら行動することができるのだし、そうしなければならないと、教皇は広島から世界に向かって呼びかけられました。

今わたしたちが生きている38年後の現実は、平和を確立できたのでしょうか。

世界は「ともに手をとり合って、友情と団結のある未来を」実現してはいません。地域紛争は各地で絶えることがなく、自らと異質な存在を排除しようとする動きは消え去るどころか、勢いを増しています。

「窮乏の中にある兄弟姉妹に手をさし伸べ、空腹に苦しむ者に食物を与え、家のない者に宿を与え、踏みにじられた者を自由にし、不正の支配するところに正義をもたらし、武器の支配するところには平和をもたらそうではありませんか」という教皇の呼びかけは、格差が拡大し、教皇フランシスコの言われる「廃棄の文化」と排除が進み、その存在すら無視される人々をさえ世界各地で生み出しています。38年経っても、平和は実現されていません。

かつての戦争で生命を奪われた多くの方々、敵味方に分かれた双方の軍隊にいた人たち、一般の市民、戦場になった地で巻き込まれてしまった多くの方々。理不尽な形でその尊厳を奪われ、暴力的に生命を失った多くの方々の生命への責任から、私たちは逃れることはできません。「戦争は人間のしわざ」だからです。

過去の歴史を振り返り、その生命に対する責任を思う時、私たちの選択肢は、同じ過ちを繰り返さないという決意を新たにする道でしかあり得ないと思います。

あらためて、戦争で亡くなられた数多くの方々の永遠の安息を祈りたいと思います。その上で、国家間の対立を解決する手段は武力の行使ではなく、対話による信頼醸成にしかないことを、世界の政治指導者たちが心に留めてくれるように、神様の導きを祈りたいと思います。対立や排除ではなく、対話と協力の道を選び取る勇気と英知が与えられるよう、国家の指導者たちに聖霊の照らしがありますように。

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本日のルカの福音には、聖母讃歌(マグニフィカト)が記されていました。聖母マリアは、全身全霊をもって神を褒め称える理由は、へりくだるものに目をとめられる主のあわれみにあるのだと宣言されています。

すなわち、神の偉大さは、人間の常識が重要だと判断している当たり前の価値観とは異なっている神ご自身の価値観に基づいて、自らが創造されたすべてのいのちが、一つの例外もなく大切なのだと言うことを、常に具体的行動で示されるところにあるのだと、聖母は自らの選びに照らし合わせて宣言します。

まさしく教皇フランシスコが、神のいつくしみを強調し、誰ひとりとして排除されてよい人はおらず、誰ひとりとしてその存在を無視されてよい人はいないと、常々強調されていることに、聖母の讃歌はつながっております。

勝ち組、負け組などという言葉がもてはやされ、他者を押しのけてさえも、自分の利益や立場を確保することがよいことだとでも言わんばかりの社会に対して、人間の尊厳は神から与えられたいのちを生きていること、その事実にあるのだと言うことを明確に示されています。

自分の力に頼るのではなく、創造主である神の存在の前に謙遜にたたずむときに初めて、神のいつくしみはわたしたちに働きかけることができます。自分が、自分がと、自らの力に頼って生きているときには、神のいつくしみは、あたかもバリアに跳ね返されるようにして、わたしたちに働くことはできません。聖母マリアの選びは、「お言葉通りに、この身になりますように」という、天使ガブリエルへのへりくだりの言葉によって、初めて実現しました。

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教皇パウロ六世は、ベトナム戦争が激化し、東西の対立が鮮明になっていた1969年の聖母月10月に、平和のためにロザリオを祈るようにと呼びかける使徒的勧告を発表され、そこでこう述べておられます。

「『平和の君』、平和のしるしのもとにお生まれになったかた、『平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる』と全世界に向けて宣言された方の母となったのは、ナザレの慎ましいおとめです。福音書はわたしたちに、マリアは人々の必要に敏感な方であると教えています。・・・それなら、わたしたちが心から祈っただけでも、マリアが尊い宝である平和のために仲介しないことなど、どうしてあり得るでしょうか。(レクレンス・メンシス・オクトーベル)」

今日、聖母被昇天を祝っているわたしたちは、同時に世界の平和のためにも祈りを捧げます。それならばこそ、平和の君である主イエスの母であるマリア様に、平和を求めて取り次ぎを祈らないわけにはいきません。聖母讃歌の中で、マリア様ご自身が神の望まれる世界の姿を示唆されたように、その世界が、すなわち神の平和が達成されている世界が実現するように、聖母の取り次ぎを祈りましょう。

パウロ六世は、ロザリオの祈りの重要さを説いたこの文書の続きにこう記します。

「マリアは非常に簡単に『葡萄酒がなくなりました』と知らせ、キリストは大変寛大にこたえました。それならば『平和がなくなりました』と告げるマリアに、キリストが同じ寛大さをお示しにならないことがあるでしょうか」

わたしたちも聖母の取り次ぎに信頼しながら、ひたすら神の平和の実現のために祈り、自らの言葉で神の平和を語り、そして『お言葉通りにこの身になりますように』と応えた聖母に謙遜さを学びながら、神の国の実現のために行動してまいりましょう。

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