2017年1月21日 (土)

カリタスアジア中期計画発表@バンコク

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この数日、大雪になって寒さの厳しい新潟から、日中は気温が30度を超えるタイのバンコクへ、カリタスアジアの会議のために四日ほど出かけてきました。この季節の日本から熱帯地域への移動は、着るものをどうするかも含めて、荷造りが結構面倒です。

私が現在二期目の責任者を務めているカリタスアジアでは、昨年6月の地域総会で決議して以来、中期計画(戦略計画=Strategic Plan)の策定に取り組んできました。

カリタスアジアではこれまでにも同様の計画を策定してきましたが、その作業は一部の人だけが参加する委員会などで行われてきたため、メンバー全員が自分自身の計画だという意識を持つことが出来ていませんでした。(いわゆる計画のOwnership=当事者意識を持つことです)

そこで今回はなるべくカリタスアジアの多くの人が参加して策定できるようにと、アジアの四つの地域別の研修会を開催するなどして、できる限り広く意見を吸い上げて策定にあたりました。私も昨年は、そのうちの二つ、中央アジア地域の研修でキルギスに、また南アジアの研修でネパールに出かけ、研修会に参加して、様々な意見に接することが出来ました。また各地域社会におけるカリタスにとっての様々な課題も目の当たりにすることが出来ました。

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2017年から2020年までのカリタスアジアの中期計画は、1月19日にバンコクで開催された地域委員会(理事会)で承認され、そのお披露目が、1月20日にバンコクのホテルで行われました。

お披露目と言うよりも、なるべく多くの関係者に集まってもらって、策定されたばかりの中期計画について意見やアイディアをいただき、それに基づいて今度は3月の地域委員会までに活動計画を策定し、この中期計画と活動計画を6月に開催される地域総会に提出するというタイムスケジュールです。

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20日の集まりには、アジアの24のカリタスメンバーのうち13のカリタスから代表が参加し、それに国際カリタスの事務局や欧米のパートナーとなるカリタスの代表など、全部で33名が参加し、小グループでの話し合いを含めて丸一日かけての意見交換を行いました。(参加したのは、バングラデシュ、シンガポール、インド、インドネシア、ネパール、マカオ、ミャンマー、パキスタン、スリランカ、キルギス、タジキスタン、台湾、ベトナム。アジア以外では、国際カリタス、ベルギー、ドイツ、スペイン、米国)

カリタスアジアという存在は、アジアの各国にあるメンバーカリタスの活動を調整したり、協力関係構築に取り組んだり、全体のために研修を行ったり、複数国で取り組むプログラムのための資金調達をしたりすることであり、カリタスアジア自体が活動団体として何かのプログラムを直接行うわけではありません。

今回の計画策定で、特にこれからの4年間、緊急災害への取り組みや備えを重点的に強化し、また、貧しい人を優先し、排除することなく包括的でありながら、文化の多様性と人間の尊厳、そして総合的人間開発の視点を尊重しながら、メンバーのネットワーク強化を率先し、また積極的に政策提言を行っていくことを中期的な目標として掲げました。

目標達成のために優先項目として次の6項目を掲げています。

  • 1:緊急災害への対応と災害リスク軽減(DRR)、
  • 2:安全な人の移動(移住移民)と反人身売買、
  • 3:環境正義と気候変動への対応、
  • 4:組織の強化と育成、
  • 5:霊的養成と宗教間対話、
  • 6:政策提言と広報。

中期計画(戦略計画)策定のために多大な時間を割いてくださった、バングラデシュのドクター・アロ・デロザリオ氏はじめ10名の方々、その中でも特に、各地での研修会を指導して下り、計画策定に深く関わったコンサルタントのフランク・デ・カイレス氏に感謝します。

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今週は18日からキリスト教一致祈祷週間中です。明日の日曜日は午後2時から、新潟市内のキリスト教諸派の一致祈祷の中心集会が行われます。会場はカトリック寺尾教会。私も参加します。多くの方の参加をお待ちいたしております。

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2017年1月15日 (日)

大雪の中、三条教会へ

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この冬一番の寒気が押しよせたこの週末、新潟市内でも大雪となりました。

新潟と言えば、即座に「雪国」とか「大雪」などと想像されることでしょうが、沿岸部にある新潟市中心部は、ほとんど雪が降らないのです。この数日の雪が、この冬初めて本格的に積もった雪となりました。

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とりわけ昨日の土曜日は大荒れ。あれよあれよという間に雪が積もり、新潟教会の敷地から車が出せなくなるのではと心配するほどでした。司教館の玄関先には大きなつららまで出現。大学入試の受験生の方々は、昨日は本当に大変なことだったでしょう。

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そして今日の日曜日。天気予報では雪でしたが、降雪はなく、無事に車で出発。朝も早かったので道路はほとんど凍結状態でした。新潟西インターチェンジから三条燕インターチェンジまで、北陸自動車道を利用。それなりに除雪がしてありますが、それでも雪が残り、すさまじい乗り心地。車は道中ずーっと、小刻みに揺れていました。普段なら30分もすれば走り抜ける30キロほどの距離を、一時間かけてゆっくりと。この短い距離の間で、凍結が原因と思われる単独事故が二カ所も。

三条市内の主な道路には融雪パイプがあるので、それなりに雪も溶けていましたので、無事教会に到着。主任司祭の石黒神父の出迎えを受けました。

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ミサは午前9時半からです。ミサ前には信徒の方が、教会玄関前を雪かきに。幸いに三条市周辺は、明るい太陽の光も差して、素晴らしい天気になりました。

今日のミサでは、おひとりの方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

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今日の第一の朗読、イザヤ書に、「あなたによって私の輝きは現れる」という言葉がありました。神の輝き、すなわち神の存在そのものは、神がご自分の僕とされた人々を通じて表されるということでしょう。ちょうどヨハネの福音で、洗礼者ヨハネは近づいてこられたイエスをみて、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と宣言しますが、同じように、神がご自分の僕とされた人々は、自分の存在を通じて、いったい神はどんな存在であるのかを他の人々が見てとれるような生き方をしたいものだと思います。そして神が僕とされた人々とは、それはイエスを信じて付き従おうとしているキリスト者すべてのことではないでしょうか。

わたしたちには、その存在を通じて、神は一体どのような方であるのかを現す責務が与えられているのだと思います。そしてその責務は、わたしたちの毎日の言葉と行いを通じて果たされていくのではないでしょうか。言葉を慎み、行いを常に振り返ることで、果たしてわたしたちの存在が、言葉と行いが、神の存在を現すものとなっているのか、はたまたそれを否定するものとなっているのか、振り返ることを心がけたいと思います。

ミサ後には、残ってくださった方々と一緒にお昼をいただき、新潟へ戻りました。三条はあれほど天気が良かったのですが、新潟市内はまだ雪模様でした。

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2017年1月11日 (水)

司牧訪問の予定(Update)@お知らせ

新潟教区内へのお知らせです。

先日お知らせした2017年の司牧訪問の予定ですが、それ以降いくつかの追加がありました。以下に一覧を掲載します。写真をクリックすると拡大します。

徐々にあいている日曜日が少なくなりつつあります。

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2017年1月 9日 (月)

降誕節が終わります@主の洗礼

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日本をはじめ多くの国では、1月6日の「主の公現」はその直後に日曜に祝われています。「主の公現」が固定されている場合、昨日の日曜日が「主の洗礼」でしたが、日本をはじめ多くの国ではその翌日となる今日の月曜日が「主の洗礼」の祝日となり、同時に降誕節の終わりでもあります。明日の火曜日は、「年間第一火曜日」で、典礼の「年間」は灰の水曜日まで続きます。

日本では今日が成人の日でもありました。20歳を迎えられた多くの皆さん、おめでとうございます。大人としてのこれからの人生に、神の豊かな祝福があるようにお祈り申し上げます。

さて主の洗礼の祝日の今年の朗読は、マタイ福音書でした。ヨルダン川で洗礼を授けていたヨハネのもとへイエスが、同じように洗礼を受けようとして訪ねてくる話です。(写真上は、昨年末のヨルダン川の洗礼所。中心が国境で、川の向こうはヨルダン)

もちろん洗礼者ヨハネにとっては、深く自覚する自らの存在意義は、そのイエスの到来を告げ道を整えることであったのです。ですから、自分がイエスに対して何かをするようなものではないという深い自覚があったことでしょう。当然のように、イエスのそのリクエストを断ろうとします。「先生、どう考えても常識的に、それは逆でしょう」という当然の反応です。

それに対してイエスの答えは「いまは止めないでほしい」と告げた後に、こう加えるのです。「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」

「正しいこと」って、いったいどういうことでしょうか。それは、神の目において義とされることです。イエスの公生活の始まりに告げられたこの言葉に、イエスの存在のすべてが、イエスが何者であるのかが明確に示されています。

すなわち、イエスの存在は、人間がこの世界で当たり前だと思うこと、常識だと思うことに、真正面から挑戦するのです。それは本当に「正しいこと」なのか、と。本当に「正しいこと」は、すなわち神の目において義であることであって、それは人間の常識に基づいて定められるのではなく、時に人間の常識とは正反対のこともあり得ると言うことを明確に示しています。神の目において義とされることが何であるのか、わたしたちには常に霊的な識別を続けることが求められていると感じます。当たり前のように人間的常識に従って物事を判断する前に、じっくりと祈りのうちに霊的な識別をすることは、わたしたちキリスト者にとって不可欠なことであると思います。そして時に霊的識別は、常識とは異なる結論を導き出すこともあるのです。(下の写真はエインカレムの洗礼者ヨハネ誕生の教会)

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さて昨年末12月に開催された司教総会のにおいて、日本の司教団は、いくつかのことを決議しました。2001年に当時の司教団が発表した「いのちへのまなざし」について、すでに15年以上も経過したことから、新しい状況に合わせて改定することが決まっていましたが、今回の総会で、増補新版の内容が承認され、近く出版されることになりました。

人間のいのちの問題は、現代社会にあってその始まりから終わりまで、様々な課題に直面しており、わたしたち神からいのちを賜物として与えられた人間にとって、最重要な課題です。その意味で、この出版には大きな意味があるものです。

これに加えて司教団は、2011年3月以降いまに至るまで継続している東日本大震災の復興支援活動を、震災発生10年にあたる2021年の3月末まで、全国の教会をあげて継続することも決議しました。すでに以前の司教総会で、2017年3月までの継続は決まっていましたが、今回はそれを、さらに2021年まで延長したものです。もちろんカリタスジャパンが、国内外の募金に基づき、世界のカリタスと協力しながら、活動の支援を行います。

教会による復興支援活動は岩手県と宮城県でも継続されていますが、特に福島県での支援活動にさらに取り組む必要性を皆が感じています。その一つのあかしとして、昨年末には南相馬市の原町地区で、これまで原町ベースとして活動を続けていたものを、カリタス南相馬として新たに出発させることになりました。主に東京教区が中心になるこの活動は、原町教会の敷地内に新しい拠点を建設したことで、さらに充実するでしょうし、目に見える形で、教会が復興支援に長期的に取り組む姿勢をあかししています。カリタス南相馬のFacebookページがありますので、検索してご覧ください。

東北の被災地はゆっくりではありますが、少しずつ復興に向けて歩んでいます。私も昨年末、宮古教会に待降節黙想会で出かけ、その後海岸沿いに山田や大槌を通りながら釜石に向かって、そこでもミサを捧げる機会に恵まれました。少なくとも、少しずつですが、前進していることを感じました。でも教会は、福島県内で復興支援や様々な形で避難されている方々の支援に取り組む中で、なかなか先が見通せない歩みの遅さを実感させられてきました。

そこには様々な要因が複雑に関わっているのは間違いがありませんから、何か一つが解決すれば、さっさとすべてがうまくいく、などというものではないことも十分理解しています。それでも、目に見える影響と目に見えない影響が複雑に交わる原発事故の被害には、すさまじいものを感じてきました。それは科学者や専門家が、数字を持って証明したからといって、即座に解決することの出来ない、心の問題です。目に見えにくい災害である原発事故は、それが目に見えないがために、すさまじいまでの「目に見えない」被害を巻き起こしていることを感じてきました。原子力発電所の事故というものは、単に数字だけで量ることの出来ない大きな被害を、多くの人に深く刻みつけるものだということを、実感させられてきました。それが、原発事故なのだと思います。

そのような福島の地で復興支援に携わってきた教会として、やはり昨年11月11日に発表した「原子力発電の撤廃を -福島原子力発電所事故から5年半後の日本カトリック教会からの提言-」というメッセージは、やはり事故から5年以上が経過したからこそ、あらためて発表せざるを得ないものであったと思います。(メッセージのリンク)

原子力発電に頼ることはすでに規定の路線として、当たり前であることが常識になりつつあるいま、それに抗うようなメッセージは常識外れと思われることでしょう。メッセージの中に次の一文があります。

「こうした状況を克服するため、人間は神の似姿として、共通善にかなった自然との正しいかかわりへと立ち戻らなければならないと、わたしたちは考えます。人間は本来、自分自身との関係、他者との関係、大地(自然環境)との関係、そして神との関係において調和があってこそ、平和で幸福に生きることができるのです」

これは教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」の考えにしたがったものです。将来の世代への責任だけでなく、神から創造されたものとしての限界をわきまえる存在として、神の目において何が正しいのか、霊的な識別を行ったと考えています。

このメッセージは、その前に出版された、専門家数名によって執筆された、「いまこそ原発の廃止を」という書籍を前提にして作成されていますので、できる限り、科学的知見に正しく準拠することを念頭に書かれました。(本の紹介リンク)。しかしメッセージの核心は、科学的にみてどうだからと言うことではなく、神の前でわたしたちはどうあるべきかという点に集約されています。信仰を前提としたメッセージでもあります。

また、復興支援の現場の体験に基づいた思いを、世界の他の国々の教会とも分かち合いたいという願いも、今回のメッセージに込められた思いでもあります。地震の被害に遭遇することの少ない欧米の国々では、温暖化対策の切り札として原子力発電を肯定的に考える方々が多くおられます。当然のことなのだと思います。教会指導者の多くも同じように考えておられます。そういった方々に、今後、日本の教会としての体験に基づいた考えを、積極的に伝えていく術を、現在模索中です。

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2017年1月 5日 (木)

年頭司牧書簡2017

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年頭司牧書簡を1月1日に発表しています。新潟教区の公式ホームページにも掲載されていますが、こちらにも全文を掲載します。なお英語版はこちらのリンクに掲載されています。Link for the English translation of my New Year Pastoral Letter 2017.

二〇一七年年頭司牧書簡 「キリストの力に生かされて」

「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(二コリント十二章九節)

新潟教区の皆様、主の降誕と新年のお慶びを申し上げます。

昨年七月二十六日早朝に、神奈川県相模原市の津久井やまゆり園で、衝撃的な事件が発生しました。ご存じの通り、知的障害と共に生きている十九名の方々を殺害し、さらには二十六名の方々に傷を負わせるという出来事です。わたしたちにはその詳細を報道でしか知るすべがありませんが、しかし断片的に耳に入る様々な情報に接するたびに、大きな疑問が心の中に響き渡ります。それは、人間の生命の価値を量る権利を持っているのは誰なのかという疑問です。

暴力的に生命を奪われた方々のことを思うと、時間を経た今でも心が痛みますし、目には見えないものの、心に大きな傷を抱えた人の数も多いことだろうと推察します。またこの施設に限らず、全国、いや全世界で、犯人の言動に大きな衝撃を受けた人たちがたくさんおられたことでしょう。

犯行に及んだ元職員の青年がとった行動それ自体よりも、彼の考え方がわたしたちに大きな衝撃を与えています。自らの行為を正当化するだけにとどまらず、「重度の障害者は生きていても仕方がない。そのために金を投じるのは無駄だ。安楽死させるほうが社会のためだ」などという意味合いのことを、真剣に主張していると報じられています。その生命を軽んじた考え方は、いったいどこから生まれてきたのでしょうか。加えて犯人の青年の主張に同調するような意見を表明する人が、特にインターネットの世界で少なからず存在していることも、わたしにとっては大きな衝撃でした。

今更あらためて言うまでもなく、わたしたちキリスト教の信仰に生きる者にとって、生命の価値を量る権利は、神にしかありません。わたしたち人間にではなく、その人間に生命を与えられた神、生命の創造主である神にしかありません。

どの生命が生存して良いのか、どの生命が生存する価値があるのか。そんなことを判断する権利を神はわたしたちに与えておられません。神がこの世界を造り、わたしたちに生命を賜物として与えてくださいました。しかも神は、自らの似姿としてわたしたちの生命を創造されたと創世記に記されています。人間の生命にはすべからく、神の似姿としての大切な価値があります。わたしたちはその神の似姿としての価値を、人間の尊厳と言います。神から与えられた人間の尊厳から、その価値を奪い去る権利は、わたしたちにはありません。

教皇フランシスコは回勅『ラウダート・シ』において、「相対主義の文化は、他人を利用し、自分以外の人々を単なる操作対象として扱うように人を駆り立て、・・・児童への性的虐待や、わたしたちの利害関心に添わなくなった高齢者の遺棄を引き起こします(123)」と指摘します。その原因は、教皇によれば、「わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱され(66)」たからなのです。わたしたちは、人間の力を誇るのではなく、素直に限界を認め、「大いに喜んで自分の弱さを誇」る存在でありたいと思います。神の前に謙遜であることによってはじめて、わたしたちの弱さを通じてキリストが働かれ、それによってわたしたちは生かされることになるからです。

ただ、こういった現実を批判的に見る際に、いまひとつの側面も忘れずにいたいと思います。それは神のあわれみといつくしみの及ぶ範囲です。

教皇フランシスコは、昨年十一月二十日に閉幕した「いつくしみの特別聖年」の大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」において、「教会には、神のいつくしみを告げ知らせる使命があります(12)」と呼びかけます。神のいつくしみはもちろん、虐げられている人、困難に直面する人、悲しみにある人に向けられているのですが、同時に、神の価値観とは対極にある、異なる価値観に生きる人たちにも同じように向けられています。なぜならば、わたしたちの神は排除する神ではなく、いつくしみによってすべての人を包み込むあわれみ深い神だからです。

したがって神のいつくしみを告げ知らせる教会は、異なる価値観に生きる人たちを単に批判し排除するのではなく、共同体の絆を通じて神のいつくしみによってその人たちをも包摂する存在とならなければなりません。わたしたちは排除する教会ではなく包み込む教会でありたいと思います。そのいつくしみに満ちた包容力の中で、ともにより良い道を模索できる教会でありたいと思います。

福者高山右近に学ぶ

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殉教者である高山右近の列福が教皇様によって昨年一月二十二日に裁可され、ご存じのようにその列福式が来る二月七日(火)正午から、大阪城ホールで執り行われることになりました。列福式は教皇代理であるアマート枢機卿(列聖省長官)によって司式されます。

いまから四百年ほど前のキリシタン迫害の時代、信仰をもまりぬく道を選び、大名としての地位を奪われ、その栄誉をすべて剥奪された上に、国外追放となってマニラの地で客死していった高山右近。すべてをなげうって信仰を守りぬいた生き方が、殉教者として認められました。

その場しのぎの価値判断、今さえ良ければ後はどうでも良いとでもいわんばかりの刹那的生き方が普通になり、善悪の絶対的な価値判断はあまり顧みられなくなる相対的で流動的な現代社会にわたしたちは生きています。それに対して、あくまでも守りぬくべき真理はどんな代償を払っても捨て去ることは出来ないのだという姿勢を貫いた高山右近は、単に信仰者としてだけではなく、人間の尊厳ある生き方を示す模範として、現代社会に対しても重要な意味をもっていると思います。

一六一五年にマニラで亡くなった当時から現地での顕彰がすでに始まり、キリスト者の模範として大きな尊敬を集めていたといわれます。それから四百年が経った現在、日本においてキリスト教を取り巻く環境は大きく変わり、当時のような迫害は存在していません。大きく変化した社会状況の中で、今、人間は一体何のために生きているのかという根本的な課題に、わたしたちはふさわしい回答をもっているでしょうか。高山右近の生涯は、常に自分の側からの判断ではなく、自分が常に向かい合って生きる神の立ち位置からの判断を優先させていった生涯であったと思います。そこには今さえ良ければなどという刹那的な判断はあり得ず、神が望まれる人の生きる道を常に模索する、神の前にへりくだった姿勢があったように思います。

小教区規約の制定と地区再編

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すでに各小教区には書簡をもって検討をお願いしているところですが、二〇一八年一月末を目途に、各小教区の規約を定めていただくようにお願いいたします。

各小教区にはおおむね、それぞれの事情や歴史に応じて運営のための組織があり、組織には何らかの規約が存在しています。もちろん規模の違いがありますので、その組織や規約の内容には様々な違いがあることも当然と理解しています。なかには非常に小規模の教会のため、特に成文化された規約なしに、長年の了解事項に基づいて運営されてきた小教区もあろうかと思います。

先般、司祭評議会や教区宣教司牧評議会の場で、小教区の規約の存在やその内容が話題となり、教区事務局から調査をさせていただきました。その結果、そこには様々な規約が存在していることが判明しましたが、その多くが、いわゆる「信徒会」または「信徒使徒職協議会」(以下、一般的に「信徒会」と記します)の規約であることも判明いたしました。

もちろんそれぞれの小教区に信徒の組織として「信徒会」が設けられていることに問題はありませんし、小教区の諸活動推進役として、「信徒会」の役割には重要なものがあると思います。

しかしながら同時に、小教区が、教区司教に任命された主任司祭とそこに集う信徒によって成り立つ共同体であることを考えたとき、「信徒会」だけを持って、小教区の意志を代表すると定めることが必ずしもふさわしいことだとは考えられません。

そこで、教区で作成しすでに配布したガイドラインとモデルとなる規約に基づいて、「小教区」そのものの規約の制定をお願いしているところです。もちろんこれまでの「信徒会」規約や、または「信徒会」そのものを廃止する必要もありませんし、逆にこの際、まったく新しくはじめられても構いません。ガイドラインに記された諸事項を勘案の上、その内容をそれぞれの小教区の現実に合わせるよう適応しながら、二〇一八年一月末までに成文化された規約の作成に、ご協力ください。

もとより小教区は主任司祭の判断だけで運営されるものではなく、当然、司祭には信徒の声をよく聞き、信徒との対話のうちにより良い道を選択することが求められています。今般の規約制定は、主任司祭に対しても、独断で物事を判断するのではなく、広く信徒の意見に耳を傾けて、一緒になって小教区を運営していくことを求めるものである点も付言いたします。

また現在、新潟県内の新潟、新発田、長岡の三地区の皆さんには、二〇一七年九月末を目途に、地区再編成について意見を伺っています。自治体の合併などがあり、地区割りにも影響があると考えたからです。三地区の意見を集約した上で、ふさわしい地区割りについて判断したいと思います。
 
おわりに

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教区唯一の神学生である岡秀太さんは、神学院で一年目を過ごしています。どうぞお祈りください。またそれに続いて、司祭の道、または修道者の道を志す方があらわれることを、心から祈っています。教区の皆様には、これまでと同様、召命のためにお祈りをお願いします。

今年も四旬節の第一主日に、新潟教会において、この復活祭に洗礼を受ける予定の方々を対象にした合同洗礼志願式を執り行います。今年は三月五日の午前九時半からとなります。新潟近隣だけでなくそのほかの地区からの参加も、可能であれば、お待ちしております。

奇数年は、秋田地区と山形地区の小教区訪問の年です。御復活祭以降から二〇一八年の二月頃までの間にできる限り多くの小教区を訪問できればと思います。わたしの方で日時を指定することはしてきませんでしたので、ご希望の日程については早めに小教区で話し合い、教区事務局にご相談くださいますようにお願いいたします

それでは新しい年の初めにあたり、新潟教区の皆様に、この一年、いつくしみと愛そのものである神の豊かな導きと護りがあるように、祝福を祈ります。

二〇一七年一月一日
カトリック新潟教区 司教 タルチシオ菊地功 

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2017年1月 1日 (日)

あけましておめでとうございます

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みなさま、新年あけましておめでとうございます。

2017年がみなさまにとって素晴らしい平和な年となりますように、お祈りいたします。新しい年にあっても、昨年同様、みなさまのお祈りをお願い申し上げます。

さて年が明ける深夜零時、新潟教会では一年の一番最初のミサが捧げられました。毎年わたしが司式しています。毎年ある程度の方々が参加してくださっていますが、今年は小雨の降る中、40名を超える方がミサに参加し、2017年の上に神様の祝福と護りがあるように祈りを共にしました。

毎年、大晦日の深夜には、司教ミサが新潟教会であります。駐車場も十分にありますから、来年はみなさま是非ご参加ください。

元日は、深夜ミサ以外にも、午前11時からミサがありました。こちらは主任のラウル神父司式。ミサ後にカトリックセンターで、新年の挨拶の会がありました。たくさんの方に参加していただき感謝します。新潟のあたりは小雨模様が続いていますが、お昼頃には日も差す、穏やかな元日でした。(なお、上の写真は、新潟教会のある少年が描いてくれた、私の絵を転用しました)

以下、新年最初のミサの説教の原稿を掲載します。

世界平和の日(神の母聖マリア)
2017年1月1日

新年明けましておめでとうございます。

 「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」
 主イエスの降誕を祝う教会は、その出来事から一週間目にあたる今日を、神の母聖マリアの祝日と定めています。

 天使ガブリエルによるお告げの出来事に始まって、ベトレヘムへの旅路、そして宿すら見つからない中での出産。天使たちがほめたたえる中で、新しい生命の誕生を祝うために真っ先に駆けつけた貧しい羊飼いたち。聖書の記述は、さらりとしたものですが、実際にはどんな風であったのか、想像するまでもなく、マリアにとっては大きな混乱の極みであったことでしょう。

 人類の救い主の母となることを告げられたそのときから、また神の御言葉を胎内に宿したそのときから、さらに神のひとり子の母となったそのときから、マリアの心は様々に乱れ悩んだことだと思います。しかしルカ福音は、マリアがその出来事に踊らされ悩み、恐れることはなく、すべてを心に納めて、その出来事によって神が望まれることは何なのかを思い巡らし続けていたと伝えます。

 教皇フランシスコは使徒的勧告「福音の喜び」において、教会の社会に関する教えに基づいて正義と平和を構築するにあたっての四つの原理を提示されています。
 一つ目は「時は空間に勝る」、二つ目が「一致は対立に勝る」、三つ目が「現実は理念に勝る」、そして四つ目が「全体は部分に勝る」。そういう四つの原理です。
 聖母マリアが神のひとり子の誕生という一連の出来事に遭遇したときにとった態度は、まさしく「時は空間に勝る」という原則にしたがったものであったと私は思います。

 わたしたちが生きている空間は、いまの一瞬によって成り立っており、その積み重ねが時の流れとなります。多くの場合、わたしたちは時の流れを見通すことが出来ないために、いまの一瞬の出来事に捕らわれて、興奮し、踊らされ、判断を急ぎ、行動しようとします。特にその瞬間に起こっている出来事が非日常的であればあるほど興奮は高まり、より早く結論を導き出そうと急ぐのです。そうした場合、時間が経過して落ち着いてから振り返って見ると、なぜそのような性急な判断をくだしてしまったのかと反省することもしばしばあり得ます。

 そういった人間の性急さを求める心に対して、教皇は「時」を重視するように諭します。「時」は、時間の流れの積み重ねとしての時、つまりゆっくりと時間をかけて吟味することでもあり、同時に聖書が語る「時」の意味、すなわち神が望まれる秩序に応じて何かが成し遂げられるその時も意味しています。

 聖母マリアが、人類にとってまさしく最高のサプライズである救い主の母となるという出来事に遭遇したときに選択した道は、困惑と恐れの中で取り乱すことではなく、まさしく「時は空間に勝る」という原理に基づく生き方、すなわち時間をかけて神の「時」を待ち続ける姿勢でした。

 聖母マリアはその意味で、わたしたちへの生き方の模範であり、同時に正義と平和を構築する原理の一つにしたがっているのですから、神の望まれる平和を実現される生き方の模範でもあります。

 教会は、新年の第一日目を、世界平和の日とも定めています。2017年1月1日の世界平和の日にあたって、教皇フランシスコはメッセージを発表されています。このメッセージは教皇パウロ6世が出された最初のメッセージから数えて50回目となる記念すべきメッセージです。

 教皇フランシスコはこの記念すべき50回目の平和メッセージのテーマに、「非暴力、平和を実現するための政治体制」を選ばれました。
 これまでも歴史の中で宗教者から何度も繰り返されてきた「非暴力」への呼びかけは、現実主義者たちの前には夢物語にしか感じられないのかもしれません。徹底的な非暴力では、ただ自分たちが敗れ去るばかりで何も変える力はないというのが、現実主義者の声なのかもしれません。

 しかしそういった批判をすべて踏まえた上で教皇フランシスコは、あえて「非暴力」の重要性を問いかけています。それはまさしく、即座の解決や起こっている出来事への対応に右往左往して性急な判断を繰り返す世界に対して、「時は空間に勝る」ことを、あらためて強調するために他なりません。

 教皇は、「人と人とのかかわり、社会における関係、さらには国際的な関係において、愛と非暴力に基づく交わりが行われますように。暴力の犠牲者が報復という誘惑に耐えるとき、その人は非暴力に基づく平和構築のもっとも確かな担い手になります」と呼びかけます。
 その上で、「今、イエスの真の弟子であることは、非暴力というイエスの提案を受け入れることでもあります」と述べられます。それどころか、教皇ベネディクト16世の言葉を引用しながら、こう主張されています。「キリスト信者にとって非暴力は単なる戦術的な行動ではなく、人格のあり方だということが分かります。それは神の愛とその力を確信する人の態度です」

 キリスト者は、何かを勝ち得るために非暴力という戦術をとるのではなく、キリスト者として生きる限り当然の生きる姿勢として、非暴力に生きなければならない。その意味で、積極的な非暴力は、キリスト者の生き方そのものであると、教皇は指摘されています。

 さて、非暴力を主張するとき、わたしたちは社会の中に吹き荒れる暴力の嵐に敏感にならざるを得ません。わたしたち一人ひとりに神から与えられた賜物である「いのち」の尊厳を考えるとき、わたしたちはその尊厳を打ち砕こうとする吹き荒れる暴力の嵐を、世界の至る所で目の当たりにしています。人間の仕業である戦争や、さまざまな武力紛争、頻発するテロ事件、社会における暴力行為、弱い立場の人への迫害、家庭内における暴力、生命の価値の軽視、理由のない生命への攻撃。あまりにも多くの暴力的行為が、この世界を支配しています。

 こういった生命への攻撃に対してわたしたちは、それは神の望みに反しているのだと毅然と告げなければなりません。暴力はこの世界に起こる様々な問題への解決策ではないことを、毅然として告げなくてはなりません。

 今わたしたちは、例えばテロの脅威にさらされて、いつ何時どこで何が起こるのかわからないという不安に包まれた社会で生きているのかもしれません。または、少子高齢化の激しく進む中で、困難な未来が待ち受けているのではないだろうかという、将来に対する見通しがつかない漠然とした不安の中で生きているのかもしれません。誰かがそこからか襲ってくるという、根拠の希薄な不安の中で生きているのかもしれません。

 不安に包み込まれると私たちは、当然のように安心を求めようとします。しかしどうあがいても明るい希望を見いだすことが出来ない現実の中で、どうやって安心を得るのか。一番簡単な方法は、遠く先まで見通すことをあきらめて、見える世界を狭めて、自分の周りしか見ないことかもしれません。自分の周りの小さな範囲のことであれば、何とか見通しがつき、安心することが出来る。だから、不安に包まれるほどに人は、自分の身を守ろうとするがあまり、利己的な生き方を選択してしまうのではないでしょうか。
 あらためて教皇フランシスコの示す「時は空間に勝る」という原則を、心に留めて、新しい年を生きていきたいと思います。

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2016年12月29日 (木)

2017年の司牧訪問予定@新潟教区

まもなく年が改まりますと、1月1日付でわたしの年頭司牧書簡が小教区でも配布されることになります。ホームページでも読んでいただけるよう、1月1日以降に掲載の予定です。

その中でも触れていますが、2017年は奇数年ですので、新潟教区内のわたしの司牧訪問は、秋田地区と山形地区の小教区の年になります。すでにいくつかの教会からは問い合わせをいただいております。以下に、現時点で決まっている主日の訪問の一覧を画像で掲載します。またその末尾には、主日以外ですでに決まっている、そのほかの教区関連行事もいくつか掲載してあります。それ以外にも、もちろん毎年行われる宣教司牧評議会などもあります。(画像はクリックすると拡大します)

ご参照の上、秋田地区と山形地区の小教区にあっては、主任司祭をはじめ皆様でご相談くださり、お早めに教区事務局長までお問い合わせくださいますようにお願いいたします。なお掲載してある期間は、2017年の3月5日(日)から2018年の3月4日(日)までです。

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2016年12月28日 (水)

糸魚川へ

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糸魚川へ出かけてきました。クリスマス直前の先日12月22日の午前10時頃に出火し、その後翌日まで30時間以上にわたって燃え、120棟の全焼を含めて140以上の家屋に被害の出た、糸魚川大火の現場です。(煙突は被災した加賀の井酒造のあったあたり)

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糸魚川の中心市街地は海岸と平行に走っている北陸新幹線とえちごトキめき鉄道がほぼ東西に走り、それによって南北に分けられています。駅前広場から北の海側は商店街です。今回の大火の被災地はこの海側の地域。(上の写真、中央右手のアーチは海と平行に走る国道8号線沿いの施設。そのすぐ先は日本海)

糸魚川には教会と幼稚園があります。教会とカトリック天使幼稚園は、鉄道を挟んで南側の山側にあり、今回の大火の影響は受けずにすんでいます。ただ、幼稚園の職員がお一人家を焼失し、また園児の中にも被災した家族が数軒おられるとうかがいました。

岡神学生と一緒に、朝8時前に新潟の司教館を車で出て、北陸自動車道をひた走り、10時頃に糸魚川教会に到着。新潟市から糸魚川市までは、だいたい180キロ近い距離です。

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園庭に車をおいて、園長先生をはじめ職員の方に案内されて、被災した地域に徒歩で移動。教会と幼稚園のすぐ裏にある糸魚川小学校の前を過ぎると、すぐに新幹線の高架と在来線の踏切があります。それを渡ると目の前はもうすぐに火災の現場です。出火元となったあたりから海に向かって町が焼け落ちていました。細い路地ですが、道路を挟んで向かい側には火の手が及んでおらず無傷のまま。火事当日の風の強さがうかがわれます。(上の写真は、火事が始まったあたり。道を挟んで左側には被害なし)

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コンクリートで焼け残った第四銀行と北越銀行は、それぞれ一階だけを使い営業を再開。町中は各所で、瓦礫の撤去に向けた準備や、電気などの復旧作業が行われていました。(上の写真の中央のコンクリートの建物が第四銀行糸魚川支店)

被災された幼稚園の職員の方の家にも足を運びました。庭の松の木だけが、ぽつんと残されていました。

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確かに東日本大震災のような大きな災害と比較をすれば、今回の大火は地域も限定されていますし、すでに避難所も閉鎖されています。多くの方が一時的には避難する場所を確保しているとのことです。しかし、この年の瀬に、すべてを失った心の痛手は大きいですし、これからの復興再建にも心を砕かなくてはなりません。糸魚川市も昨日から被災された方々への説明会を始めたようですが、町が立ち直るには時間と資金が必要なのは明白です。

新潟教区としては(教区へのお知らせはこちらを参照)、いまの時点で直接被災された方にお手伝いが出来ないとしても、今後いろいろな形でお手伝いが出来るだろうと考えていますが、基本的に糸魚川教会を中心に考えていきたいと思います。糸魚川教会の方々と相談の上、出来ることを見いだしていきたいと思います。

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2016年12月25日 (日)

主の降誕、日中のミサ@新潟教会

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主の降誕の祭日の今日、午前9時半から新潟教会でミサをささげ、ミサの後にはカトリックセンターの二階ホールで、クリスマスのお祝いが開かれました。

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昨晩の8時のミサは聖堂が一杯でした。深夜ミサにも30人を超える人が参加したそうです(ラウル師司式)。今日の日中のミサも、聖堂がほぼ一杯にあるくらいの大勢の方が参加されました。今年は比較的暖かな冬になっていますし、新潟市内はまだ本格的な雪が降ってはいません。それでも今日は雨模様の肌寒いクリスマスでした。

ミサ後の祝賀会にはテーブルが一杯になるほどの多くの方が参加してくださり、英語ミサグループや青年たちの歌の披露もあって、和やかな時間を過ごすことが出来ました。

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なお12月31日の深夜、年が明けて1月1日の零時にも新年一番最初のミサが、新潟教会で行われます。わたしの司教司式ミサです。引き続いて同日、1月1日午前11時から、同じく新潟教会で新年のミサが行われます(ラウル師司式)。新しい年を、教会で迎えられてはいかがでしょう。

以下、本日のミサの説教の原稿です。

主の降誕(日中)ミサ
2016年12月25日

この数ヶ月の間、カリタスアジアやカリタスジャパンでは、戦略計画の策定という作業を続けています。

戦略計画というと何か軍事用語みたいで響きが悪いのですが、元々の英語の単語を日本語に訳そうとするとこうなってしまうので仕方がないのですが、要は、過去の振り返りに基づいてよりふさわしい将来への道筋を明らかにする作業です。戦略計画を策定した後に、それに基づいて中期的な活動計画を定めていきます。それによって、過去の失敗を繰り返さずに、さらにより良い活動が出来るようにするというものです。ビジネスの世界では普通に行われているようでもありますが、NGOなどの世界でも広く取り入れられてきました。

その作業の中で、一番最初にしなければならないのが、SWOT分析。それは計画を策定する組織における「S(強み)、W(弱み)、O(機会)、T(脅威)」を見つけ出し、そこから、組織の目的を効率よく達成するためには何が欠けているのか、より目的に近づくための優先事項は何なのかを明確にしていこうとする作業です。

教会も、御言葉を一人でも多くの人に告げ知らせることを使命として与えられた組織体であります。ですからそこには、同じように、「S(強み)、W(弱み)、O(機会)、T(脅威)」が存在し、それを分析することで、より良くその使命を果たすことが出来るようになるのではないかと思いました。

いまわたしたちが生きているこの地域での教会の福音宣教の現実を考えるとき、わたしたちにとっての「強み」、「弱み」、「機会」そして「脅威」は何でしょうか。主の降誕を祝うこの日にあたり、その出来事に思いをはせながら、思いつくことを掲げてみたいと思います。

先ほど朗読されたヨハネの福音に、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と記されていました。わたしたちが告げ知らせるよう使命を受けている神の御言葉は、人間を照らす光であり、そこにこそ命があるのです。わたしたちは、その命が、神の望まれるあり方でより良く生きられるようにと、この世界の中で神の言葉を告げ知らせていかなくてはならないのです。そういう使命が、教会には与えられています。

そして、教会にはというとき、誰かの組織ではなく、それは、イエス・キリストを信じるすべての人、すなわちわたしたち一人ひとりのことを指しているのです。わたしたち一人ひとりの使命であります。

さて、「強み」から見てみましょう。わたしたちには、かけがえのない「強み」があります。それはすべての創り主であり生命の与え主である神ご自身が、人間に対する愛のあふれとして、人となり、その罪を担い、死と復活を通して自ら示された、神の愛の力の絶対的な強さそのものであります。わたしたちには、自信をもって告げるべきメッセージがあります。自信をもって倣うべき、人生の生き方の最高の模範があります。

その夜、聖母マリアには神の言葉である御子が人として宿られている。ですからこの聖なる家族は、神ご自身を運ぶ家族であります。新しい生命の誕生を待ち望む人間の愛が、その家族を満たしています。人間の愛を通じて、神の絶対的な愛を多くの人に運んでいこう、もたらそうとする聖なる家族は、わたしたち信仰者にとって最大の強みは何であるのかを教えています。何も恐れるものがない、神の愛のあふれである御子イエスの存在そのものであります。

では、「弱み」は何でしょう。聖なる家族は、ナザレからベトレヘムまで長い旅を続けてきました。その夜、宿を求めてベトレヘムの町をさまよった聖なる家族を、多くの人々は拒絶します。神の愛そのものである言葉は、人として誕生したその瞬間から、多くの人に拒絶される存在だったのです。

わたしたちの住む日本において、キリスト者は徹底的に少数派です。そのために、わたしたちが信仰において当たり前だと思っていることは、日本社会全体の常識とはかけ離れているのかもしれません。あまりにも小さな集まりであるがために、勇気をもって福音をあかしすることを躊躇している現実が、わたしたちの弱みかもしれません。その夜の聖なる家族のように、わたしたちは、誰かに受け入れてもらえる場を求めて、闇の中をさまよっているのかもしれません。

「機会」とは何でしょう。聖家族は最終的に、彼らを受け入れてくれる人々に出会います。それは立派な宿屋ではなかったものの、少なくとも幼子を守るに十分な飼い葉桶であり、また誕生を祝うために集まった町の多くの人々なのではなく、野宿する羊飼いたちでありました。その出会いによって、場所を提供してくれた人たちに、そして羊飼いたちに、その人々の内に神を迎え入れる機会が与えられました。

そうすると、わたしたちの社会の様々な動きの中で示される、神の愛に基づいた奉仕の可能性は、わたしたちにとって大きな「機会」ではないでしょうか。

いま多くの人が迎え入れられることなく、拒絶されています。教皇様の繰り返されるシリアでの和平への呼びかけと、難民受け入れの呼びかけにもかかわらず、未だに和平は実現せず、難民の人たちへの受け入れは困難を極めています。それははるかヨーロッパだけでの問題ではなく、教皇様がしばしば指摘されるように、全世界で、「無関心と排除」の態度として拡がっています。日本も例外ではありません。

漠然としたテロなどへの恐怖感をはじめ、治安維持への不安感は、何となくわたしたちを疑心暗鬼の暗闇に引きずり込み、「排除」する姿勢へと導きます。目に見えるところで、分かっている範囲で、わたしたちは安心をしたいのです。異質なものを、普通と異なる存在を、社会は、いやわたしたち教会は、排除しようとしていないでしょうか。教皇の呼びかけるように、すべてを受け入れるいつくしみの共同体であるでしょうか。排除しないまでも、そういった異なる存在に目をつむる、「無関心」な共同体になっていないでしょうか。主ご自身を迎え入れる「機会」は、常にわたしたちの目の前にあるのです。もしかしたらわたしたちは、宿を求めてたたずむ聖なる家族の面前で、冷たく扉を閉めているのかもしれません。

最後に「脅威」。主の降誕にあって最大の脅威は、その存在を否定しようとするヘロデの存在であったかもしれません。神の愛の充満である生命、神の御言葉そのものである幼子への攻撃です。

あらためて繰り返すまでもなく、いま日本を含め世界の至る所で、生命は危機にさらされています。守られるべき生命と存在を無視される生命との格差が広がっています。まず第一に考えられるべきは生命の尊厳であるにもかかわらず、そうではない価値観が優先されています。これほどの「脅威」はありません。どのようなレベルにおいても、どのような形であっても、人間の生命は、神の似姿である限り尊厳があり、守られなくてはなりません。

主の降誕にあたり、あらためてわたしたちが、御言葉を告げる使命を勇気を持って生きることが出来るように、祈りましょう。

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2016年12月24日 (土)

主の降誕、おめでとうございます。

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主イエスの降誕祭にあたり、皆様にお祝いを申し上げます。

誕生した神のひとり子は、暗闇の内に不安を抱えて暮らす多くの人々への希望の光です。キリストを信じるわたしたちは、教会にあって、その生命と希望の光を輝かせる存在でありたいと思います。

クリスマスを目前にして、新潟県の糸魚川市では大きな火災が発生しました。年の瀬の寒さがつのる時期に、多くの方が家を失い、またこれまでのご自分の歴史の積み重ねを、家族を結びつける絆を失われました。被害を受けられた方々に、心からお見舞いを申し上げます。

糸魚川教会は糸魚川駅を挟んで火災の発生した地区とは反対側にあるため、被害を免れ、また今のところ信徒の方の被害もなかったと聞いております。しかし教会幼稚園の職員のかたに、被害があったという報告をいただいています。こういう災害にあたって、糸魚川の小さな教会に出来ることは限られているのでしょうが、今日と明日の降誕祭のミサの時に、何が出来るのか分かち合っていただければと思います。

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以下、本日の新潟教会における夜半のミサ(午後8時)の説教の原稿を掲載します。明日の日曜日は、主の降誕の日中のミサが、新潟教会では午前9時半から、司教司式で行われます。

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主の降誕(夜半)ミサ
2016年12月24日

お集まりの皆様、主の降誕おめでとうございます。

主イエスが誕生したその夜、主の天使が野宿して羊の番をしていた羊飼いたちにあらわれたと、先ほど朗読されたルカ福音は記しています。羊飼いに対して天使は、「民全体に与えられる大きな喜びを告げる。あなた方のために救い主が生まれる」と述べたあとに、すぐこう続けています。
「布にくるまって飼い葉桶のなかに寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである」
 

救い主の誕生を預言したイザヤ書も、同じようなことを告げています。
「あなたは深い喜びと、大きな楽しみをお与えになり」と告げた後で、「一人のみどりごがわたしたちのために生まれた。一人の男の子がわたしたちのために与えられた」と記しています。

ルカ福音もイザヤの預言も、人類にとって大きな喜びが与えられるが、その喜びを象徴するのは、新しく生まれた生命であると記しています。その大きな喜びは、たとえて言えば、長い間にわたり暗闇の中をさまよっていた人々が光を見いだし、大いなる希望を見いだした喜びです。また「死の陰の地に住むものの上に、光が輝いた」と記すことで、その大いなる希望が、死を打ち破る生命への希望であることを明確に示しています。

主の降誕のお祝いとは、すなわち、神が与えられる生命の内にある喜びと希望のお祝いであります。神ご自身が、わたしたちと同じ生命の内に人として生きられたことによって、生命のうちにある尊厳を明確にされたことをお祝いするのです。さらに言えば、イエスご自身がその生命を、他者の救いのためにすべてを捧げて生きられたように、わたしたち一人ひとりにとっても、与えられた生命の意味をあらためて考えるお祝いであります。人間が生きる意味を、あらためて考えるお祝いでもあります。

ルカの福音には、天使たちが羊飼いにあらわれた後、神を賛美してこう言ったと記されています。
「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」

この言葉には、与えられた生命を生きているわたしたちが、どのような道を歩むべきなのかが示されています。すなわちわたしたちは、天における神の完全なあり方に倣って、この地上では神の望みに適う生き方をしなくてはならない。それをパウロは第二の朗読のテトスへの手紙で、「不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように」と記します。

そして天使の言葉は、神の望みに適う生活をすることは、それすなわち「平和」なのだと宣言しています。

幾たびも教会の中で繰り返されてきたとおり、神の語られる「平和」とは、単に戦争がないこと、争いがないことだけを指し示す言葉ではありません。それは神が最初にこの世界を創造されたときの秩序が完全に回復されている状態です。神が望まれる世界が実現している状態です。

ですから主イエスの降誕の祝いは、わたしたちに生命の尊厳について、その意味について考えさせる祝いであるとともに、その生命の究極の目的、すなわち、平和の構築、神の望まれる秩序の回復、すなわち神の望まれる世界の実現についても考えさせるのです。

教皇フランシスコは、回勅「ラウダート・シ」でこう述べています。「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわりによって、人間の生が成り立っている」(66)。その上で、教皇はこう記します。「聖書によれば、いのちにかかわるこれらの三つのかかわりは、外面的にもわたしたちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪です。」(66)

この罪を引き起こしている原因を、教皇はこう記しています。「わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました。」(66)

この一年を振り返るとき、わたしたち人類は世界の各地において、神が望まれる世界の秩序とはまったく異なる秩序を生み出そうとしているのではないかと感じます。
それは平和の破壊であり、その先にある生命の危機です。
それは人間の謙遜さの欠如であり、他者とのかかわりの拒絶、排除と無関心です。

様々な出来事がこの一年間ありました。例えばシリアの内戦です。
教皇様はシリアでの内戦の激化とそれにともなう難民の流出という現実を目の当たりにして、しばしば国際社会に迅速な和平への対応をとるよう、アピールを続けてきました。さらには具体的に、例えば今年の4月16日にギリシアのレスボス島を訪問した際に、シリア難民の三家族12人を一緒にローマへ連れ帰ったりしてきました。

また7月のビデオメッセージで教皇は、次のように呼びかけました。
「・・・平和を説く国々の間には、武器を供給している国もあり、右手で人を慰めながら、左手で人を打つ人をどうして信用することができるだろうか。・・・この『いつくしみの特別聖年』に、無関心に打ち勝ち、シリアの平和を力強く唱えよう。(バチカンラジオの訳から)」
しかし現実はどうでしょう。対立する勢力の間で停戦が合意され、そしてそれが破棄され、という状況が繰り返されています。その間にも、例えば病院が爆撃されたり、多くの人々、とりわけ子どもたちが生命の危機にさらされ続けています。

わたしたちが生きる日本でも、生命の意味をあらためて考えさせる事件がありました。相模原市の知的障がい者の施設で、19名の障がいと共に生きている人たちを殺害するという事件がありました。 犯人の青年が「自分は正しいことをした。障がい者は生きている価値がない」とでも言わんばかりの言動をしたばかりか、それに賛同する人が少なからずいることが明らかになりました。

この生命をわたしたちに賜物として与えてくださった神は、この生命がどのように生きられることを望んでおられるのでしょうか。わたしたちは時の流れにただ身を任せるのではなく、いまいちど立ち止まり、「不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深」く、その意味を、人間が生きる意味を考えるときに来ているのではないでしょうか。
わたしたちが生きているこの世界は、生命を軽んじる、あまりにも多くの悪意と無関心と利己心に、満ちあふれています。

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