2019年11月11日 (月)

二人の大先輩司祭逝く@新潟教区

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既報の通り、新潟教区の二人の大先輩司祭が、相次いで亡くなられました。アシジのフランシスコ鎌田耕一郎師(91歳)は11月5日の午前中に、ロベルト三崎良次師(87歳)は翌日11月6日の未明に帰天されました。葬儀は11月8日金曜日の午前11時から、カトリック新潟教会で行われ、新潟教区の使徒座管理区長として司式してまいりました。

鎌田師は1928年秋田県生まれで、盛岡で学校に通っている当時に受洗されたとうかがったことがありました。1958年に司祭叙階、その後新潟県内の教会の主任を各地で務めるとともに、幼稚園の園長として活躍されました。また、私の前任である佐藤敬一司教様時代には、司教総代理を務めておられました。2016年に引退されて司教館の隣のビアンネ館に移られましたが、そのときまで新津教会の主任や幼稚園長を務められ、今年の8月くらいまでは、腰の痛みなどの持病はあったものの、お元気に過ごされておられました。

三崎師は1932年新潟県生まれで、1969年に司祭叙階。その後、県内各地の教会で主任を務め、やはり幼稚園の園長としても活躍されました。残念ながら体調不良に悩まされ、わたしが新潟に赴任した頃から、病気療養生活に入られ、その後回復されたものの、主任などの役職からは退かれ、新潟教会の協力司祭として長年勤めてくださいました。今年の7月には、司祭叙階金祝をお祝いしたばかりでした。

新潟教区は、今年すでに70歳の働き盛りの司祭を二人失っています。今回の大先輩お二人で4人です。教区司祭団は12名となってしまいました。

ぜひとも、新潟教区の司祭の召命のためにも、お祈りくださいますようにお願いします。

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以下、葬儀ミサの説教の原稿です。

「神のはからいは限りなく、生涯わたしはその中に生きる」

新潟教区の数少ない教区司祭団の中から、今年はすでに二人の働き盛りの司祭を失っています。そしてまた、この数日の間に、相次いでさらに二人のベテラン司祭が、神様のもとに召されてしまいました。

「神の計らいは限りなく、生涯わたしはその中に生きる」と歌う答唱句ではじまる典礼聖歌は、詩篇90編で、「あなたの目には千年も過ぎ去った一日のよう、夜回りのひとときに過ぎない。人の命は草のよう、あしたには花を開くが夕べにはしおれて枯れる」と歌います。

人知を遙かに超えた全能の神は、わたしたち人間の知恵を遙かに超えて、私たちのいのちを支配されている。だからわたしたちは、神の限りない愛による計らいに信頼し、それに身をゆだねていのちを全うしていこう。

そうわたしたちは信じて、神様にこの人生をゆだねようとしています。しかし、神様のお考えになることはわたしたちの理解を超えていて、この小さな教区から、一年のうちに司祭を4名も御許に召されるとは、神様はいったい何をお考えなのだろうかという思いがよぎります。

しかし、限りない計らいのうちに、神様は何かを計画されているに違いない。この日本海側の地にあって、神様はその福音が少しでも広まり、ご自分が創造されたすべてのいのちが救いに与るようにと配慮されているに違いない。「苦しみは、また、人間の人格の中で、愛を誘発するために存在している」と述べられたのは、教皇ヨハネパウロ2世でありました。

ですから、この大きな悲しみと喪失感の中にある新潟教区にも、何らかの計らいがあるに違いない。この悲しみと苦しみから、神は愛を生み出そうとしているに違いない。天に召された司祭たちの人生から、わたしたちが生きる道を学び、その働きを引き継いで、すべての人に神の愛の福音をのべ伝えるようにと、導いてくださるに違いない。そう信じています。

わたしたちにとって召命とは、司祭であれ信徒であれ、キリストに従うすべての者に与えられている神からの呼びかけですから、この出来事の中にも、わたしたち一人ひとりへの召命の道が示されているはずです。

その中でも司祭が忠実にその使命に生きる姿は、勇気を持って神からの呼びかけに応える姿として、すべてのキリスト者の模範であります。
司祭は叙階の秘跡によって、「最高永遠の祭司であるキリストにかたどられて、新約の真の祭司として、福音を宣教し信者を司牧し神の祭礼を執行するために聖別される」とカテキズムには記されています。

すなわち司祭には、三つの重要な役割があるとそこには記されています。一つ目は「福音を宣教すること」。二つ目が「信者を司牧すること」。そして三つ目が、「神の祭礼を執行する」ことです。

その三つの務めのすべては、すべてのキリスト者にとって生きる姿勢への模範を示すものでもあります。

鎌田神父様も、三崎神父様も、長い司祭としての人生の中で、小教区の主任司祭として多くの人と関わり、また幼稚園の園長として多くの幼子たちに関わり、福音を宣教し、教会共同体を作り上げ、宗教者として聖なる者であろうとしました。

晩年は、年齢と病気のため、お二人とも、ご自分たちが意図されたような活躍ができなかったかも知れません。しかし鎌田神父様にあっては、つい数年前まで小教区で主任として働き、幼稚園の園長を務められました。三崎神父様も、体調の制約がある中で、新潟教会の協力司祭として、懸命に尽くしてくださいました。

お二人の司祭としての長年の働きに敬意を表するとともに、わたしたちもその模範に倣って、それぞれに与えられた場で福音を宣教し、教会共同体を育て、聖なる者である努力を続けていきたいと思います。

イエスをキリストと信じる私たちは、イエスに結ばれることで、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠のいのちに生きる大きな希望を持ちながら、この人生を歩んでいます。

同時に、「私をお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人をひとりも失わないで、終わりの日に復活させることである」と言われたイエスの言葉への信頼のうちに、いつくしみ深い神が、その深い愛をもって、すべての人を永遠のいのちのうちに生きるよう招かれていることも信じています。

葬儀ミサで唱えられる叙唱には、「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています」と私たちの信仰における希望が記されています。

鎌田神父様と三崎神父様は、ともに、50年以上を司祭として、教会のために、すべての人のために、そして神のためにささげられました。今年の7月に三崎神父様の司祭叙階金祝を、鎌田神父様も交えてお祝いしたことを、つい昨日のように思い出します。

お二人は、ある意味での頑固さをもって、司祭として生きることにすべてをかけられた、司祭として生涯現役の人生を送られたと思います。
永遠のいのちへの希望は、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む」ことにあるのですから、お二人とも毎日のミサを最後まで捧げることは、かくことのできない人生の一部であり続けたと思います。

ともに同じ屋根の下で隠退生活を送っておられたお二人が、ほぼ同じ日に旅立たれたことは、不思議で仕方がありません。そこにはわたしたちが理解できない、神の限りない計らいがあることでしょう。

お二人の大先輩の司祭の人生の模範に励まされながら、わたしたちも神の深い計らいの中で、その導きに信頼して、司祭の模範に倣いながら、福音を告げしらせ、教会共同体を育て、聖なる者としての道を歩み続けてまいりましょう。

 

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2019年11月 6日 (水)

二つの修道誓願式・など

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10月には、新潟教会での堅信式、あきる野教会、大森教会、高輪教会などで堅信式を行いました。日記更新が滞っていたため、それぞれに日記で触れることができずに申し訳ありません。

そんな中、10月中の土曜日に、二つの女子修道会で初誓願式がありました。ひとつは10月5日のお告げのフランシスコ修道会、もう一つは10月26日の聖ヨハネ布教修道女会。前者は大田区久が原の同会修道院で、後者は聖ヨハネ会が運営に関わる桜町病院のある小金井教会聖堂で、それぞれの修道会でお一人ずつの方が初誓願を宣立され、さらに先輩の修道女の方々が、それぞれの会で修道誓願の銀祝、金祝、ダイアモンド祝を祝われました。

新たに誓願を宣立されたお二人、節目の年を祝われた先輩シスター方に、心からお祝いを申し上げます。

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修道誓願を新たに宣立する会員が誕生することは、一人修道会にとって仲間が増えたという喜びであるだけではなく、普遍教会全体にとって大きな喜びです。それは奉献生活が、その人個人の信仰生活のためだけではなく、教会にとって意味があることだからです。

修道者は一体誰のために誓願を宣立するのか。そもそも修道生活は誰のためなのか。修道者は自分のために修道生活を営むのではありません。自分がより信仰を深め立派な宗教者になるためでもなく、自分だけがより神に近くにあるためでもなく、結局のところ、そして至極当たり前のことですが、修道者は神の民全体のために修道生活を営んでいます。神の民全体で、教会の本質的つとめがまんべんなく果たされるように、その固有の役割を果たしているのです。

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教皇ヨハネパウロ二世の使徒的勧告「奉献生活」にこう記されています。

「奉献生活は、教会の使命の決定的な要素として教会のまさに中心に位置づけられます。奉献生活がこれまで教会にとって助けとなり支えとなってきただけでなく、神の民の現在と将来にとって貴重な欠かすことの出来ないたまものであるということです。」

そして奉献生活者の存在の重要性を、こう指摘します。

「他の人々がいのちと希望を持つことが出来るために、自分のいのちを費やすことが出来る人々も必要です。(104)」

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新しく修道者としての道を歩み始めた方々を見ながら、一人でも多くのキリスト者がそこから信仰における希望を見いだし、自らもその模範に倣おうと決意をされることを祈ります。東京教区の共同体にとって、新たに二人の奉献生活者が加わったことは、大きな喜びであり信仰における希望です。

10月19日には、昨年に引き続いて今年も、受刑者や出所者の支援活動を行っているマザーハウスの主催で、イグナチオ教会を会場に、「受刑者のためのミサ」が捧げられました。マザーハウスの五十嵐さんの話や、実際に刑務所などで教誨を行う司祭と一緒に捧げるミサで、多くの方が参加してくださいました。

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以下は、当日の説教の原稿です。説教の内容は、実はわたしがこのところどこに行っても繰り返しているテーマで、教皇様の訪日に備えるための内容です。

まもなく11月の23日に、教皇様が来日されます。

38年前にヨハネパウロ二世がはじめて来日されたときは、まだ50代後半の若々しい教皇でしたから、そのときと同じように、今年83になる教皇様が、朝から晩まで精力的に行事をこなすというわけには、今回は行きません。もっといろいろな方々に機会を設けて、直接教皇様に会っていただきたかったのですが、今回は最低限の行事だけとなりました。長崎や広島では、核兵器廃絶や平和に関するメッセージが世界に向けて発表されるでしょう。東京では、政府の行事として天皇陛下や首相などとお会いになりますが、教会の行事としては、東北の大震災の被災者を慰め、青年たちと出会い、そして東京ドームでミサを捧げられます。

教皇様が日本を訪れる一番の目的は何でしょうか。
今の段階では、どうしても長崎や広島でのメッセージに注目が集まり、それは教会だけではなく広く一般の方々や政府も、教皇様が核兵器に関する言葉を述べることを重要視しているように感じています。

しかしわたしは、教皇様の来日の目的は、それだけにとどまるものではないと思っています。訪日のテーマは「すべてのいのちを守るため」とされています。わたしはこのテーマにこそ、今回の教皇来日の一番の目的が記されいると感じています。

わたしたちにとって教皇様はもちろんこの世におけるキリストの代理者ですし、世界に10数億人の信徒を抱える巨大組織のトップではありますが、それ以上に重要な役割があります。教皇の地位は、あのガリラヤ湖畔で主イエス御自身が、一番弟子のペトロに天国の鍵を与えて、その首位権を宣言したことに基づいています。

ですから教皇様にとっては、この世界において、一番弟子の後継者としての役割を果たすこと、すなわち教会共同体という大きな群れの先頭に立って、主から与えられた使命を率先して果たしていくこと、またその姿を模範としてすべての人に示していくこと。それこそが、最も重要な一番弟子の使命なのではないかと思うのです。

主ご自身が残された命令の中で一番重要な命令は何か。主が十字架上の受難と死に打ち勝って復活され、御父の元へ戻られるとき弟子たちに対して命じた最後の命令であります。

すなわち「全世界に行って福音を宣べ伝えよ。すべての人に、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ」という福音宣教命令であります。
ペトロの後継者にとって一番大切な努めは、皆の先頭に立って、目に見える形で、この福音宣教命令を模範的に果たしていくことであります。

2013年3月に教皇フランシスコが選出されて以来、今日に至るまで、彼が率先して語り、行動してきた最優先事項は、まさしくこの福音宣教命令を率先して実行することであります。

教皇フランシスコは、選出後の初めての司牧訪問先に、地中海に浮かぶランペドゥーザ島を選ばれました。
ここはアフリカに一番近いヨーロッパです。難民が押し寄せていました。そこで教皇はミサを捧げ、世界中に向かって、「忘れられて良い人は一人もいない。排除されて良い人は一人もいない」という彼の福音に生きる姿勢を明確に示す説教をされました。

その説教の中で、世界中の人々が、自分の生活を守ることにばかり固執し、困難を抱える他の人々への思いやりを忘れてしまったと非難し、そういう姿は、むなしいシャボン玉の中に閉じこもっているようだと指摘しました。ここで教皇ははじめて、「無関心のグローバル化」という言葉を使いました。

教皇フランシスコのこの姿勢は、その後に発表された「福音の喜び」で、さらに明確になります。教皇は、教会のあるべき姿として、「出向いていく教会」であることを掲げ、安楽な生活を守ろうとするのではなく、常に挑戦し続ける姿勢を教会に求めました。失敗を恐れずに、常に挑戦を続ける教会です。しかもその挑戦は、困難に直面し、誰かの助けを必要としている人のところへ駆けつける挑戦です。

そして『福音の喜び』には、「イエスは弟子たちに、排他的な集団を作るようには言いませんでした」という言葉もあります。その上で教皇は、「教会は無償のあわれみの場でなければなりません。すべての人が受け入れられ、愛され、ゆるされ、福音に従うよい生活を送るよう励まされると感じられる場でなければならないのです」と指摘します。(114)

神は、この世界に誕生するすべてのいのちを愛しておられる。ひとつとして忘れられることなく、すべてのいのちが与えられた使命を十分に果たすことができる社会が実現されることを求めている。だから教会は、排除するのではなく、弱い立場にある人、世間から忘れられた人、誰からも顧みられない人、困難に直面する人、いのちの危機にある人の元へ、積極的に出向いていかなくてはならない。神の愛しみに満たされて、ともに共同体を作り上げていかなくてはならないと説かれるのです。

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若者のためのシノドスの後に発表された『キリストは生きている』という文書には、和解について述べた箇所があります。教皇はまず、「あなたの霊的成長は、何よりも、兄弟的で寛大で思いやりのある愛において示されます」と指摘します。(163)

その上で、虐殺事件を経験したルワンダ司教団の文書を引用して、次のように言います。
「相手との和解にはまず、その人には神の似姿としての輝きがあると認めることが必要です。・・・真の和解に至るためには、罪を犯した人とその罪や悪行を分けて受け止めることが欠かせません。」

教会は、神のいつくしみを具体的にあらわう存在として、社会の中にあって和解の道を常に示す存在でありたいと思います。互いの人間の尊厳、神の似姿としての価値を認め合い、手を差し伸べあう共同体でありたいと思います。

ですからわたしたちは、自らの過去を顧みながら許しを求めている人に善なる道が示されるように、祈りたいと思います。同時に犯罪の被害に遭われた方々には、心と体のいやしがあるように、いつくしみ深い主のみ手が差し伸べられるよう祈りたいと思います。犯罪の加害者の、また被害者の御家族の方々の生きる希望のために、祈りたいと思います。そして、すべてのいのちが神の望まれる道を歩むことができるように、受刑者の方々に、また犯罪の被害者の方々に支援の手を差し伸べるすべての人のために、心から祈りたいと思います。

福音のメッセージをその言葉と行いで、はっきりと日本のすべての人に示すために、来られる教皇様の模範に倣って、わたしたちも勇気を持って、福音を証しして生きていきましょう。

 

 

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訃報:新潟教区


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残念なお知らせです。カトリック新潟教区の司祭が、相次いでお二人亡くなられました。今年はすでに、5月と6月に、相次いで70歳の主任司祭お二人を病気のために失いました。山頭神父と川崎神父ですが、この二日間でさらにお二人です。すでに引退されていたとはいえ、大先輩の司祭をさらに二人相次いで失ってしまいました。

11月5日の朝、かねてより入院加療中であったアシジのウランシスコ鎌田耕一郎神父が、肺炎のため帰天されました。91歳でありました。

そして11月6日の朝、同じく入院加療中であったロベルト三崎良次神父が、帰天されました。87歳でありました。

鎌田神父様は現場の司牧に最後までこだわられた方で、幼稚園教育にも力を入れ、3年前に高齢で引退されるまで、幼稚園園長や主任司祭を務められました。

三崎神父様は10数年ほど前に体調を崩され、わたしが新潟に来てからは、新潟教会内に住まわれて、協力司祭としてミサの手伝いや勉強会などのために働いておられました。今年、司祭叙階金祝をお祝いしたばかりでした。

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新しい司教館が2014年に完成してからは、新潟教会と司教館の間にあるビアンネ館の一階が改装されて、引退した司祭の住居となっていますが、この数年は鎌田神父も三崎神父も一緒にそこに住まわれて、司教館で食事も一緒にしておられました。

大先輩の司祭を相次いで失い、言葉もありません。お二人のこれまでの司祭としての働きに神様が豊かな報いを与え、永遠の安息のうちに憩わせてくださいますように。

お二人の通夜は11月7日(木)18時、葬儀は11月8日(金)11時、新潟教会で行われます。わたしは葬儀ミサを司式させていただく予定です。

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一番上の写真は、7月に三崎神父の金祝をお祝いしたときの司祭団の食事会でのお二人(向かって左が三崎神父、中央が鎌田神父。右端は、町田神父)。その次が、10年ほど前の鎌田神父のクリスマス会での定番の七面鳥係姿。そして最後が、三崎神父の金祝を祝って司祭団で捧げたミサの写真です。これで新潟教区司祭は12名となりました。

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2019年10月24日 (木)

お詫び

「司教の日記」をご愛読頂いているみなさま、感謝申し上げます。

さて、このところ日記の更新が滞っております。日常の東京教区と新潟教区での務めがある中で、それに加えて、ご案内の通り、教皇様がまもなく来日されるため、その最終準備が重なり、多忙を極めております。

そのため、当分の間、日記の更新のための時間をまとめてとることが難しく、どうしても更新の間隔が空いてしまいます。休止するわけではありませんので、諸事情ご賢察の上、これからもおつきあい頂けると幸いです。

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2019年10月 4日 (金)

教皇訪日にむけて

9月13日には、教皇フランシスコのタイと日本公式訪問が発表となり、さらに10月2日には、プログラムの主な内容もバチカンから発表されました。

東京では、11月25日月曜日に、(まだすべての時間が確定して発表されていませんが)、教会の行事としては、東北の被災者の方々との集まり、青年との集い、そして午後4時からの東京ドームでのミサが予定されています。被災者の方々とは麹町にある一般ホールで、また青年との集いは関口の東京カテドラルで行われます。

それ以外に、政府行事としては、天皇陛下や首相との会談などが予定されています。

教皇訪日に関する情報は、中央協議会の特設ページに掲載されていますので、このリンクから是非そちらをご覧ください。

東京教区のホームページにもすでに掲載しましたが、教皇訪日にあたってのビデオメッセージを作成しましたので、ご覧いただければと思います。メッセージは英語ですが、日本語の字幕をつけてあります。

 

今回の訪日では、とりわけ長崎や広島での核廃絶のメッセージに注目が集まっています。もちろん核兵器の廃絶は教皇様にとっても、また教会全体にとっても重要な課題であり、国際社会の場でも聖座はしばしばこの点を力説してきたところです。したがって、原子爆弾の被害を受けた長崎と広島の被爆地で、核兵器廃絶や平和を訴えられることは、国際社会に対して大きなインパクトを与えることでしょう。

同時に教皇様は、普遍教会の最高の牧者として、また使徒の頭ペトロの後継者として、私たち日本の教会を訪れることで、教会に与えられた福音宣教の使命を率先して果たされる模範を示されることでしょう。その意味で、日本の社会にある人間の「いのち」に関わる問題に、積極的に発言されることでしょう。

もちろん教皇様の立場は国家元首でもありますから、日本の内政に干渉するような直接的な発言は慎まれることと思いますが、倫理道徳的側面から、その始まりから終わりまで例外なく護られなくてはならない人間のいのちの尊厳、少子高齢化社会にあっての孤立や孤独の問題、貧困や格差、生きる希望の創出、真の幸福を見いだす道などについて、準備されたいくつかの行事におけるスピーチで触れられることが予想されます。

また教皇様は、しばしば難民の方々や移住者の方々の人生について、踏み込んだ発言を続けてこられましたから、そういった課題についても、何らかの形で触れられることが予想されます。

聖霊の導きのうちに、時のしるしを読み解きながら、神に至る道を示そうとされる牧者の言葉に、謙遜に耳を傾けたいと思います。

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2019年9月30日 (月)

青梅教会で堅信式、そして福音宣教の特別月間へ

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9月29日の日曜日、午前11時から、青梅教会で堅信式を行いました。11名の方々が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

ちょうど福音はラザロと金持ちの有名な話でありました。物語で登場する金持ちの、この世でばかりか、この世を離れてさえも、自分のことだけを考えて、他者を自分に奉仕させようとする態度。しかも自分に奉仕する者を自分のところへ呼びつけるような生きる姿勢が、イエスによって厳しく非難されています。

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ちょうど教皇様の訪日にあたり、教皇様の述べられてきたことを振り返る「とき」が与えられています。すると教皇フランシスコが、常々強調されているのは、まさしくこの金持ちの生きる姿勢とは真逆な姿勢です。教皇は、「出向いていく教会」を語られます。安住の地に留まるのではなく、困難を抱えている人、いのちの危機にある人のところへ、積極的に出向いていく教会を語られます。

また教皇フランシスコは、だれ一人排除されて良い人はいない、だれ一人忘れられて良い人はいないと強調することで、自分の殻に閉じこもって、自分中心の世界の中で、空虚な反映の夢をむさぼることのないようにと語られます。まさしく、このたとえ話の、金持ちとは対極にある生き方こそが、今の教会には求められていると語ります。

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堅信の秘跡を受けられた方々には、聖霊の助力を得ながら、また聖霊の賜物に満たされながら、勇気を持って出向いていくこれからの教会を作り上げるために力を貸していただければと思います。失敗を恐れずに、常に前向きで挑戦し続ける教会でありたいと思います。

もちろん、すべての人が皆おなじタレントを与えられているわけではないのですから、皆が同じことをする必要はありません。自らに与えられているタレントは何か。そのタレントに忠実に生きるためには何をすべきなのか。聖霊に助けによって、それぞれの道を見いだすことができますように。

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さて、10月が始まります。10月はロザリオの月ですから、聖母マリアの取り次ぎにいつも以上に信頼しながら、聖母を通してイエスへと至る道を歩み続けたいと思います。主イエスとともに受難の生涯を歩まれた母の取りなしを、イエスが聞き入れないはずがないと、私たちは信じています。

また今年の10月は、福音宣教のための特別月間です。東京教区では、そのためのパンフレットを用意して、各小教区に配布したところです。パンフレットのPDF版が教区ホームページのこのリンクに掲載されていますから、ご自分でダウンロードして印刷していただくことも可能です。

教皇様を迎える前に、あらためて福音を宣べ伝える使命をどのように果たすことができるのか、この一月考えてみたいと思います。

以下、10月の主な予定ですが、今月は、教皇訪日準備のために、週日の予定が大きく変更になる可能性があるため、主に週末の予定中心に掲載します。週日に関して、ご用の際には、教区本部の司教秘書であるディンド神父にお尋ねください。

10月5日(土) お告げのフランシスコ会誓願式 (11時)

10月6日(日) 新潟教会堅信式 (9時半)

10月7日(月) 東京教区司祭評議会 (10時半)

10月19日(土) 受刑者のミサ (14時 麹町教会)

10月20日(日) あきる野教会堅信式 (11時)

10月20日(日) 世界宣教の日晩の祈り・聖体礼拝 (17時 カテドラル)

10月21日(月)~23日(水) 東京教会管区司祭研修会 (札幌)

10月26日(土) 聖ヨハネ会誓願式 (14時)

10月27日(日) 大森教会ミサ (9時半)

10月27日(日) 高輪教会、宣教協力体合同堅信式 (14時半)

10月29日・30日 カリタスジャパン全国担当者会議 (新潟)

 

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2019年9月27日 (金)

ネットワークミーティングと葛西教会50周年

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9月21日の土曜日、お昼過ぎから、千葉の鎌取にある聖母マリア幼稚園を会場にして、全国から150名近い青年たちが集まり、ネットワークミーティングが二日間の日程ではじまりました。

開会式のミサを依頼されたので、東京教区を中心に様々な教区から駆けつけた青年司牧担当の司祭とともに、野外でのミサを捧げました。またこの千葉の地にあっては、先日の台風の被害を受けて、復興に取り組んでおられる方々が大勢おられますし、この幼稚園の周囲でも樹木が大きな被害を受けている様子を目の当たりにしましたので、ミサの中では被害を受けられた方々のために、皆でお祈りをいたしました。

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ネットワークミーティングとは、なにか。

中心になっているのは、カトリック青年連絡協議会です。ホームページがあります。そこに次のように記されています。

「1998年にカトリック中央協議会の青少年委員会が解散するにあたり、全国のカトリックの青年の動きを支えるものを何か残したいということで、カトリック青年連絡協議会の発足の準備が始まりました。従来の青少年委員会の反省から、司祭・修道者と青年が一緒に話し合い考えていくことができるような形の会を目指し、何度も話し合いを進めてきました。

その結果、青年や青年にかかわって活動している人たちが自由に話し合い、交流ができる場「ネットワークミーティング」と、会を責任を持って支えていく場「カトリック青年連絡協議会」とを分けるということが提案されました。

そして、2001年9月、第1回ネットワークミーティングが東京にて開催されました。」

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全国各地で、年に二回ほどネットワークミーティングが開催されています。もちろんこの集まりだけが、日本の教会のすべての青年を網羅しているわけではなくて、それ以外の共同体や運動体も教会にはいくつも存在しています(伝統的には例えばJOCとか、または新しいカリスマによって集まった運動体とか)。また、わたし自身もそうだったのですが、こういった集まりで見知らぬ人と出会うのが苦手で、という人だっていることでしょう。一つの形式にとらわれずに、様々なスタイルで青年たちが教会につながってくれていることを期待すると同時に、教皇様が言われるように、青年は未来の教会の担い手なのではなくて、今の教会を作り上げている力なのですから、その力をまさしく「今」発揮していけるような教会共同体でありたいと思います。

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そして今回37回目となったネットワークミーティングのテーマは、なんと召命。「灯して照明!応えて召命!」でありました。

もちろん召命は、司祭や修道者だけのことではなく、キリスト者としての召命全般のことを指しています。今回の集まりでの出会いによって、それぞれの青年たちが、自らに固有の召命に目覚め、司祭や修道者を含めて、それぞれの呼ばれている道を力強く歩み始めてくれることを、こころから願っています。

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そして翌9月22日の日曜日は、都内の江戸川区にある葛西教会の創立50周年ミサでした。

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葛西教会は、聖アウグスチノ会に司牧が委託されている教会です。現在の主任司祭は、フィリピン出身のアウグスチノ会員ジェス神父。日本の責任者である柴田神父様をはじめ、大勢の司祭が参加してくださいました。またこの教会出身の二人を含め、司牧を手伝ってくださる女子修道会の方がたを含めた奉献生活者も、大勢参加。これからも司祭や修道者の召命が、豊かに与えられるように祈ります。(上の写真、右がジェス神父、左が柴田神父)

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葛西教会の皆さん、50周年おめでとうございます。そしてこれから、次の100周年を目指して、さらに豊かな教会共同体となりますように。また準備してくださった皆さん、素晴らしいお祝いでした。感謝。

以下、当日のお話の内容と少し離れますが、説教の原稿です。

葛西教会が誕生して50年が過ぎました。

1969年の松江教会献堂にはじまり、その後1985年に葛西教会の献堂を経て現在に至るまで、宣教と司牧に献身的に取り組んでこられた聖アウグスチノ修道会のみなさまに、心から感謝するとともに、お喜びを申し上げます。また、この50年の間、宣教師たちとともに教会共同体を育て上げてきた葛西教会の信徒の方々に、心から感謝申し上げます。

今日お集まりの皆さんの中には、50年前、どのような思いを胸に抱きながら、新しい教会の誕生に立ち会ったのか、まだはっきりと記憶しておられる方も多くおられると思います。また34年前の葛西教会の献堂をはっきりと記憶しておられる方も、大勢おられることと思います。あっという間の50年、また34年であっただろうと思いますし、同時にその間には、語り尽くせぬほどの多くの出来事があったことだと思います。

「あなた方は神と富とに仕えることはできない」と先ほど朗読された福音の終わりに記されていました。自らが仕える主人として、神を選択するのか富を選択するのかをイエスは迫っています。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」の中で、現代社会が直面する課題の一つとして経済の格差を上げ、「排他性と格差のある経済」は「「人を殺します」とまで指摘されます(53)。

その上で、経済の優位性を最優先する現代社会には、「倫理の拒否と神の否定が潜んでいる」と指摘されています。

わたしたちがイエスの福音に習って生き、その喜びを告げ知らせようとしているこの日本の社会は、いったい何を優先させているのでしょうか。教皇が指摘されているように、もしこの社会にも「倫理の拒否と神の否定が潜んでいる」のであれば、教会共同体は、神に至る道を選択するようにと告げしらせる努力をしなければなりません。教会に与えられた福音宣教の使命です。

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わたしたちは、教会というのは単に聖堂という建物のことだけを指しているのではないことを良く知っています。第二バチカン公会議は教会憲章は冒頭で、教会とは何かを教えてこう記しています。

教会は、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具」です(教会憲章一)。
ですからわたしたちは、この地域社会にあって「神との親密な交わりと全人類の一致のしるし」となるために存在する「神の民」であって、この「神の民」は、「神との親密な交わりと全人類の一致」をもたらす道具でなくてはなりません。

教会はその存在を通じて、「神との親密な交わりと全人類の一致」に生きるとはどういう生き方を選択するのかを示していかなくてはなりません。わたしたちはそれを、自らの言葉と行いで成し遂げます。社会に対して共同体として、神との親密な交わりに生きるとは、人間が生きる上でいったいどのような価値観を優先するべきなのかを明確に示さなければなりません。教会共同体は、わたしたちは「神と富とに仕えることはできない」ということを、明確に証しする存在でなければなりません。

神を選ぶことなく、神から離れた社会は、人間の存在の根本である生命に対する戦いを挑んでいます。
それは例えば、相模原市の津久井やまゆり園での障害者に対する殺傷事件です。

犯行に及んだ元職員の青年の、「重度の障がい者は生きていても仕方がない。安楽死させるべきだ」などという主張に賛同する人も少なくありません。すなわち、わたしたちの社会には、役に立たない命は生かしておく必要はないと判断する価値観が存在していることを、この事件は証明して見せました。

さらには、この数年、少子化が叫ばれているにもかかわらず、せっかく与えられた命を生きている幼子が、愛情の源であるべき親や保護者の手で虐待され、命を暴力的に奪われてしまう事件も相次いでいます。

もっと言えば、1998年をはじまりとして、わたしたちの社会では毎年2万人から3万人を超える方々が、何らかの理由で自ら命を絶つところまで追い詰められてきました。

また社会全体の高齢化が進む中で、高齢者の方々が、孤独のうちに人生を終えるという事例もしばしば耳にいたします。誰にも助けてもらえない。誰からも関心を持ってもらえない。孤立のうちに、いのちの危機へと追い詰められていく人たちも少なくありません。

孤独のうちに希望を失っているのは高齢者ばかりではなく、例えば非正規雇用などの厳しさの中で、不安定な生活を送る若者にも増えています。加えて、海外から来日し、不安定な雇用環境の中で、困難に直面している人たちにも、出会うことが増えてきました。

わたしたちが生きている現実の世界は、残念ながら、神から離れる道を選択し続けています。

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教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」において、教会は「出向いていく教会」でなければならないと言います。出向いていく教会は、「自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」教会です。

日本の教会はいま、とりわけ地方の教会において、少子高齢化の影響を大きく受けて、どちらかと言えば規模の縮小期に入っています。そういうときに私たちはどうしても、いまあるものを守ることを優先して、後ろ向きの積極性を発揮してしまいがちです。積極性は前向きに発揮しましょう。 

教皇フランシスコは、かつてブエノスアイレスの教会で司祭や信徒に対して語った言葉を、使徒的勧告の中で繰り返しておられます。

「私は出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さ故に病んだ教会より好きです。中心であろうと心配ばかりしている教会、強迫観念や手順に縛られ、閉じたまま死んでしまう教会は望みません」

教会創立50年という節目に、わたしたちの教会共同体のあり方を今一度見つめ直してみましょう。わたしたち一人ひとりの、福音を生きようとする姿勢を見直してっみましょう。
わたしたちは神との親密な交わりと一致のしるしであり、道具となっているでしょうか。
わたしたちは社会において、神の道を指し示しているでしょうか。
わたしたちは後ろ向きではなくて、前向きの挑戦を続ける積極性を持っているであるでしょうか。
わたしたちは失敗を恐れずに、挑戦し続ける教会でしょうか。
わたしたちは困難に直面し、いのちの危機にさらされている多くの方々に、寄り添いともに歩もうとする共同体でしょうか。

勇気を持って福音を告げしらせる共同体と成長していくことができるように、次の50年を見据えながら、聖霊の導きに教会共同体をゆだねましょう。

 

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2019年9月21日 (土)

秋田の聖母の日2019@聖体奉仕会

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今年で5回目となりますので、そろそろ恒例と呼んでもいいものだと思いますが、秋田の聖体奉仕会を会場に、秋田の聖母の日の祈りの集いが、9月14日と15日に開催され、300人近い方々が、全国は言うに及ばず世界各地から参加してくださいました。

聖体奉仕会は、新潟教区認可の奉献生活者の会ですが、会員が祈りの生活を営む場であり、また聖母の御像に関する奇跡的な出来事があった場であります。新潟教区は、わたしの前々任者である伊藤庄治郎司教が、1984年4月22日に発表された司牧書簡を引き継いでおり、その書簡によって奇跡的な出来事を認め巡礼が許されています。

わたしは今回は、東京教区のカテキスタの認定式があった関係で、少し遅れて秋田に入りましたので、15日日曜日のミサを教区管理者として司式させていただきました。特別な機会ですので、主日ではありますが、悲しみの聖母の記念日のミサを捧げました。

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同日のミサにはポーランドからの巡礼団の司祭や、ベトナムからの司祭も加わり、世界各地から訪れてくださった皆さんと、祈りをともにすることができました。

できれば来年の秋田の聖母の日が行われる頃には、新潟の新しい司教が誕生していてほしいとは思いますが、同時に、一度マリア様に捕らえられると離してもらえなくなるので、わたし自身は来年以降も、少なくとも一日だけでも参加させていただこうと思います。

より多くの方がこの聖なる祈りの場を訪れ、聖母の取り次ぎを祈りながら、回心の道を歩まれますように。

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以下、9月15日のミサの説教の原稿です。

苦しみはいったい何のためにあるのか。

わたしたちが生きている現実には、ありとあらゆる困難が存在しており、様々な意味で苦しみを生み出しています。また理不尽な出来事に翻弄されたり、大きな災害によって人知を遙かに超える苦しみや悲しみに見舞われることさえあります。この数年は、大切な賜物である人間の生命が、まるでもてあそばれているとでも言うような仕方で暴力的に奪い取られる理不尽な事件も続発しています。

理不尽な現実を目の当たりにするとき、どうしてもわたしたちは、「なぜ」という疑問を口にいたします。

2011年の4月に、子どもたちの質問に答えるテレビの企画で、教皇ベネディクト16世は、日本の少女からの質問を受けられました。
東北の大震災を体験した直後のことです。少女は、「なんで子どもも、こんなに悲しいことにならなくてはいけないのですか」と教皇に質問しました。

それに対してベネディクト16世は、「他の人たちが快適に暮らしている一方で、なぜ皆さんがこんなにたくさん苦しまなくてはならないのか? 私たちはこれに対する答えを持ちません」と、正直に応えられました。

その上で、「でも、イエスが皆さんのように無実でありながらも苦しんだこと、イエスにおいて示された本当の神様が、皆さんの側におられることを、私たちは知っています。・・・神様が皆さんのそばにおられるということ、これが皆さんの助けになることはまちがいありません。・・・今、大切なことは、『神様はわたしを愛しておられる』と知ることです」

教皇ヨハネパウロ2世は、1984年の贖い聖年に当たって発表された書簡「サルヴィフィチ・ドローリス」において、苦しみの意味を考察されています。

教皇は、「神は御ひとり子を、人間が悪から解放されるために世に与えられた」と指摘し、その中に、「苦しみについての決定的、絶対的な見地が」示されていると述べています。

御子は、神が愛される人間の救い、すなわち贖いのために、罪と死に打ち勝たなくてはならなかった。そのための戦いが、イエスの人間としての苦しみの生涯なのだというのです。

ベネディクト16世が日本の少女に言われたこと、「イエスが皆さんのように無実でありながらも苦しんだこと」の理由は、神が人間を愛しているからに他ならず、その愛のために、イエスは苦しみ抜かれ、ご自分を贖いの生け贄として十字架上で御父にささげられました。

聖母マリアの人生は、母として、イエスの苦しみの人生に寄り添う生涯でありました。
イエスとともに歩む時の始まりに当たって、シメオンは、「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と預言します。すなわち、神の愛を実現しようとするイエスには、悪に基づく様々な抵抗があり、罪と死に打ち勝つための苦しみに彩られた生涯が待ち構えているが、聖母もまた一緒に、その苦しみを体験し、「心を刺し貫かれる」というのです。

聖母マリアは、イエスとともに歩む時の終わりである、イエスの十字架上の苦しみにも寄り添いました。
教皇ヨハネパウロ2世は、先ほどの書簡の中で、「キリストの傍らの最も崇高な場所で、いつも聖母が、一生涯を通して、この特別な苦しみの福音を模範的にあかししながら生きてこられた」と述べています。

キリストの生涯は、苦しみが、人類の救いのための力を生み出すことを教えています。

教皇ベネディクト16世は、「希望による救い」のなかに、真の人間の価値をこう指摘されます。
「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼす(「希望による救い」39)」

苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値を持って生きるために不可欠な要素です。苦しみは、神がわたしたちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむわたしたちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。

聖母マリアは教会の模範であります。ですから教会は聖母と一致して、先に模範を示された聖母に倣い、キリストの苦しみにともに身をゆだねます。

聖母マリアは、一人ひとりの信仰者にとっても模範であります。「お言葉通りにこの身になりますように」と天使に応えた聖母は、すべてを神にゆだねる謙遜さの模範を示されました。わたしたちはその謙遜さに倣い、神の計画に身をゆだねる勇気を願いたいと思います。

聖母マリアは、わたしたち一人ひとりの霊的な母であります。真の希望を生み出すために苦しみを耐え忍ばれたイエスに、身も心も併せて歩みをともにされた聖母に倣い、わたしたちも、主イエスの苦しみにあずかり、真の希望への道を切り開いていきたいと思います。

教皇ヨハネパウロ2世は、苦しみについての考察を終えるにあたって、ただ漫然と苦しみに耐えていれば良いというわけはではないことも、指摘することを忘れてはいません。漫然と耐えているだけでは、この世における神の国の実現はあり得ないからです。そこで、教皇は、教会が「善きサマリア人」に倣って生きるようによびかけ、「我々お互いの関係は、苦しむ隣人の方に向かわなければならない」と指摘します。

その上で、教皇は「苦しみは、また、人間の人格の中で、愛を誘発するために存在している」とまで述べて、困難に直面する人たち、苦しみのうちにある人たちへ、徹底的に自己を与え尽くすことによって奉仕し、寄り添うことが必要であると説きます。苦しみの福音は、善きサマリア人としての生きたとを通じて、常に希望へと方向付けられるのです。

わたしたちは今日、イエスと苦しみの生涯をともに歩まれた聖母の悲しみを記念しています。聖母の悲しみは、ただ悲嘆に暮れる悲しみではなく、希望に向かって歩み出すための力を生み出す苦しみであります。困難に直面する人たちへと、わたしたちのまなざしを向ける苦しみであります。

聖母に倣って、社会の現実の中で、主イエスの耐え忍ばれた苦しみを心にとめ、主と歩みをともにしながら、希望を生み出すために力をいただき、手を差し伸べる存在であり続けましょう。 

 

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2019年9月18日 (水)

教皇フランシスコの訪日正式発表を受けて

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9月13日金曜日ローマ時間の朝9時に、教皇フランシスコの日本訪問と、その前に予定されているタイ訪問が、バチカンと、東京と、バンコクで、同時に発表されました。バチカンは、報道官の短いステートメント、日本は官房長官のちょっと長いステートメント、バンコクではタイ司教協議会主催で、なかなか大がかりな記者発表が行われました(これはビデオを見ることができます

タイは11月20日から23日、日本は11月23日から26日で、日本での訪問先は、東京、長崎、広島となっています。なお日本訪問のテーマは「すべてのいのちを守るため」とされています。これは教皇の回勅「ラウダート・シ」に記されている言葉からとられました。詳しくは、カトリック中央協議会の特設ホームページをご覧ください。東京ドームでのミサの申し込みは、9月20日から特設サイトで、またはすでにツアーを組んでいる旅行会社経由でお願いいたします。

38年ぶりのローマ教皇の日本訪問を、心から歓迎し、喜びのうちに迎えたいと思います。教皇フランシスコは、現代社会を支配する様々な価値観の直中に生きながら、神の望まれる世界を実現する道とは異なっている道へと誘う価値観に対して、厳しく対峙する姿勢を示してこられました。

同時に、使徒の頭(かしら)の後継者として、イエスの福音宣教命令をより積極的に果たしていく姿勢を自ら示されることで、世界の教会共同体にキリスト者として生きる道を明確に示しておられます。とりわけキリストのいつくしみ深い心に導かれ、社会の中にあって助けを必要としている人、困難に直面している人、排除・排斥されている人、希望を失っている人に、積極的に関わり、歩みをともにしながら、いのちを生きる希望を生み出そうとされてきました。

教会の中で待っているのではなく、助けを必要としている人のもとへ積極的に「出向いていく教会」を理想として掲げる教皇は、失敗や喪失を恐れて守りに入るのではなく、失敗を恐れずに積極的に行動するように呼びかけます。実際、教皇自身が、これまでの慣習にとらわれることなく、自らの言葉を行いで示してこられました。

近年は、「ラウダート・シ」を発表することで、皆に共通の家である地球を護ることは、神からの賜物であるいのちを護ることだとして、環境問題に関わり、全人的な人間発展(総合的人間開発)の視点から、発言を続けられています。

同時に、2013年の教皇選挙を前にして開催された枢機卿会での多数意見を受け、バチカン(聖座)の機構改革にも取り組んでこられ、その集大成とも言うべき文書の発表が、待たれているところです。教皇は、バチカンが、中央政府のように教会全体に命令を下すのではなく、教皇を補佐し、また世界の教会に奉仕する場となることを目指しておられます。

教皇フランシスコの日本訪問は、日本の教会に、福音に従って生きることの大切さを繰り返し教える教皇フランシスコの姿勢に学び、それに倣う機会を与えてくれるでしょう。社会の直中にある教会共同体が、より福音にふさわしい生きる姿勢を見いだす機会を与えてくれるでしょう。「働き手を送ってくれるように祈れ」と言われた主の言葉を思い起こし、福音宣教のために奉仕せよとの呼びかけに、多くの人が応える機会ともなるでしょう。いつくしみ深い主イエスに倣って生きる道を、わたしたちに示してくれるでしょう。

もちろん、何も準備をしなければ、ただスーパースターがやってきた一大イベントで終わってしまうでしょう。だから準備が大切です。幸い10月は福音宣教のための特別月間ですし、あらためて教皇フランシスコの書かれた文書を学び、その姿勢の模範に倣い、わたしたちの心を準備いたしましょう。もちろん、教皇様のために祈ることを忘れないようにいたしましょう。

なお、東京に滞在する11月25日と帰国の途につかれる11月26日に関して、様々なご提案やリクエストが東京教区にも寄せられています。教皇様の外国訪問は、バチカン(聖座)の主催行事であり、ミサの典礼の内容も含めて、バチカンの関係部署からの指示で執り行われます。日本の司教協議会や教区は、その指示を具体的に実行する役割ですので、日本側からバチカンに要求することはできません。したがって、残念ながら、寄せられている様々なリクエストにお応えすることは適わないであろうこと、ご理解ください。

また、主にミサの入場券のことで、教区本部やわたし宛にも様々なご注文をいただいていますが、これも東京教区の管轄ではなくて、司教協議会の管轄ですので、その点ご理解ください。

下の写真は、2013年5月17日、国際カリタスの理事会の時に、2ヶ月前に就任されたばかりの教皇様に、日本訪問をお願いしているわたしです。教皇様が住んでおられる、カサ・サンタ・マルタにて。

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教区カテキスタ認定・任命ミサ@東京カテドラル

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9月14日の土曜日、一年間にわたる養成講座を修了した26名の信徒の方が、東京大司教区のカテキスタとして認定され、さらに来春からの実際の活動へと任命・派遣されるミサが、東京カテドラルの地下聖堂を会場に行われました。地下聖堂にはスタッフとして協力してくださった信徒の方々、カテキスタとして認定される方々の友人や家族、そしてカテキスタの方々の所属教会の司祭など、多くの方が集まってくださいました。

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ミサの最中に、カテキスタとして認定された方々は、信仰宣言と決意の表明の後、ひとりひとりに認定書と任命書が手渡されました(写真は委員会の担当者である猪熊神父様が用意してくださった、認定書と任命書。個人の名前や、派遣先については画像を加工してあります)。

またミサに先立って、わたしが一時間ほど講話をさせていただき、その終わりには、講座の修了証もお渡ししました。カテキスタとして認定された方々は、今度は来春から、協力してくださる小教区に派遣され、そこで求道者の要理教育など信仰養成に具体的に関わることになります。

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初めての挑戦ですから、いろいろとあらためなくてはならないことが出てくるものと思います。教区の将来を考えるとき、司祭とともに信仰養成に関わってくださる方々の存在は不可欠だと思います。今回は26名もの方々が参加してくださいましたが、次期の講座には10名ほどの申し込みがあるそうです。毎年10名ほどの方が参加してくださると、長期的な視点から、小教区における信仰養成を考えていくことが可能になると期待しています。担当者である猪熊神父様には、一年間本当にご苦労様でした。感謝しています。これからもさらに充実させた講座を継続して行かれますように、また実際に現場で取り組むカテキスタのシステムがより良く運営されるように、猪熊神父様にはさらなるご尽力をお願いいたします。

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以下、今回のカテキスタ養成講座に至った考え方をまとめた、養成委員会のメンバーである高木賢一神父の一文を、教区ニュースから転載します。

『2013年の「信仰年」をきっかけに、東京教区では、再度、生涯養成委員会が立ち上がりました。  

その際、10年後の東京教区の在り方を見据えると、これからの教区では、様々な試みが求められるであろうことが見通されました。信徒たちが信徒を養成する必要性が生まれることは容易に想定されましたが、これを実現するための準備に費やすべき時間が、これから、どれ程かかるかと考えると、そのための具体的な対応は急務であるという理解に至り、生涯養成委員会において、具体的な準備を進めることになった次第です。  

そのような理解のもとに生まれた分科会の一つが、「ウェルカム・テーブルを考える会」です。  
当初、生涯養成委員会の中には、もう一つの分科会である「入門講座担当者養成講座」というグループがあり、その目指す内容は、「信徒が信徒を養成することができるようになるための準備」ということに、軸足が置かれていました。  

しかし、議論の回数を重ねるうちに、まず、「司祭の数が減っていく中で、一人の司祭が、複数の教会を担当し、主日ミサの司式に専念せざるを得ない状況で、司祭単独で、どこまで、新しく教会を訪れた人たちに関わることができるのだろうか? 自ずと限界が顕わになってくるのではなかろうか?」ということが、懸念されました。  

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次に、「これから司祭が不足して、一つの教会に一人の司祭が常駐できなくなった時が来ると、どうしても、特定の教会に通う求道者が、受洗準備として、要理教育を受けるために、『拠点教会』と呼ばれるような大きい教会に通わざるを得なくなる。しかし、その際、その求道者が、それまで通っていた教会ではなく、その『拠点教会』に属したいと希望するようになると、求道者を送り出した側の教会は、新しく教会を訪れた人たちを、自分たちの仲間として迎える機会が、ますます減っていってしまう。それこそ、『大きい教会は、ますます大きくなり、小さい教会は、ますます小さくなるばかり』という状態にならないだろうか?」ということが、同時に、懸念されるようになったのです。 そこで、

①新しく教会を訪れ、洗礼を希望するようになった求道者を迎えた教会が、その人を信仰生活に導くための機会を提供すること。
②同時に、その時、その人には、教会共同体の一員に加わっているという自覚を持ってもらえるような関わり方をすること。
③その上で、要理教育が行われる「拠点教会」に送り出すためには、どのような教会の在り方が考えられるか? という内容が話し合われることになりました。  

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このような経緯のもとに生まれたのが、「ウェルカム・テーブルを考える会」であり、私たちは、この分科会の名称を字義通りに解釈し、新しく教会を訪れた人を迎えるための「受け皿」を作れば、それで事足りる、とは思っていません。折に触れて、私たちの教会の体質改善も含めた提言をさせて頂きたいと思っております。  

新しく教会を訪れた人たちが、信仰生活へと歩みを続けていくための一連の流れの最初に「ウェルカム・テーブル」があり、その後、具体的な学びの場として、要理教育が提供される。その要理教育を担当することのできる信徒たちの養成をするのが、「入門講座担当者養成講座」であるということなのです。』

 

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