2019年3月11日 (月)

3月11日、あれから8年。

3111901

2011年3月11日に、東北の地を巨大地震と津波が襲ったあの日から、8年となりました。あらためて、亡くなられた方々の永遠の安息のために祈ります。

東京カテドラルでは、本日午後2時半から、追悼のミサが行われました。カリタス南相馬で支援活動に携わっているCTVC・カトリック東京ボランティアセンターが中心となって企画してくださいました。

3111904

2時半から現在の被災地の映像を見ながら音楽とともに黙想し、2時46分には黙祷。そしてミサが始まりました。ミサは私が司式し、南相馬で活動されている幸田名誉司教も共同司式に加わりました。ミサ後には幸田名誉司教から、現在の活動についてのお話もありました。

たくさんの方に参加頂き、祈りをともにしていただいたことに感謝いたします。

3111903

以下本日のミサの説教の原稿です。

東北地方一帯に巨大な地震の被害をもたらし、特に太平洋沿岸においては想像を超える津波を発生させた、東日本大震災。日本だけにとどまらず世界中に衝撃を与えた2011年3月11日のあの日から、今日でちょうど8年となりました。あらためてこの大災害で亡くなられた多くの方々と、この8年間の復興の過程で亡くなられた方々の永遠の安息を祈りたいと思います。

8年という時間は、ある人にとってはゆっくりと進んできた時間であったと思いますし、ある人にとってはあっという間の8年だったのかも知れません。いずれであったとしても、あの巨大な災害の体験とその記憶から、またその体験から生まれたそれぞれの心のおもいから、新たな歴史を刻む一歩を始めるためには、短い時間であったと感じています。歴史に残る巨大災害は大きな爪痕を残し、そのときまで、その地にあって、普通の生活を営んでこられた方々の、その普通の生活を大きく変えてしまいました。以前そこにあった普通の生活を取り戻すためには、時間と、尋常ならざる心のエネルギーが必要だと感じます。

政府の復興庁の統計によれば、今年1月の段階で、いまだに5万人を超える方々が避難生活を送られているといいます。これほど多くの方が、8年という時間が過ぎても、まだ普通の生活を取り戻すことができないほどの負のエネルギーが発生したのだという事実を、私たちは心にとめなくてはなりません。

とりわけ、原子力発電所事故の影響が残る福島県内では、復興の歩みにはさらなる時間が必要だと、支援に関わる多くの方が指摘されています。

数日前のニュースでは、原発の廃炉作業の行き着く先が、普通の廃炉作業のような更地に戻すことなのかどうか、そのイメージさえ現段階では描けていないと報道されていました。人間が普通に把握できる時間の流れを遙かに超えるほどの影響を及ぼす事故であったことを、あらためて実感させられます。人間がその限界をわきまえることなく、能力を超えた事柄に手を出してしまったのではないかと考えさせられます。

3111905

今年の四旬節メッセージの中に、次のような教皇フランシスコの言葉があります。
「神との交わりが絶たれれば、園が荒れ野と化したように(創世記3・17-18参照)、人間と、そこで生きるよう人々が招かれている環境との間の調和的な関係も傷つけられます。罪は、人間に自分のことを被造物の神、絶対的な君主であるという考えを抱かせ、たとえ他者や被造物を傷つけても、創造主のみ旨のためではなく自分の利益のために被造物を利用するよう人間を仕向けます」

自然災害がきっかけになった事態であるとはいえ、私たちが「創造主のみ旨のためではなく自分の利益のために被造物を利用」しようとしたことは否めず、神との交わりを絶ってしまった人間の傲慢さが私たちうちにないか、過去を振り返るようにと求められていると感じます。

福島に関連しては、公式の統計には表れない避難者の方々も全国に多数おられると推測されます。そういった方々を含め、普通の生活がある日突然奪われてしまい、人生の道筋が予想もしなかった困難な道のりとなってしまった多くの方が、多数おられることを忘れないでいたいと思います。困難に直面する多くの方々が、忘れ去られることのないように、教会はその全国的なつながりを生かしながら、地道な支援を続けていきたいと思います。

私たちの信仰は、絶望の淵から必ずや新しい希望が生み出されることを教えています。最高の指導者であったイエスが十字架で殺されていったという出来事を体験し、絶望の淵にあった弟子達に、イエスはご自身の復活の栄光を示して、その絶望の暗やみから新しい生命への希望が生まれることを示されました。私たちの信仰の基本です。

キリストにおけるこの希望を、社会の直中で告げしらせる責務を教会は担っています。様々な困難を抱え、その理不尽さにうちひしがれている方々に、希望の光へと続く道を示す責務を教会は担っています。私たちが告げるべき福音は、まさしくすべての人にとっての「喜びのたより」でなければなりません。具体的な喜びの光でなければなりません。

残念ながら、このところ、カトリック教会は世界的にみて、大きな批判を受ける対象となってしまっています。本当は、希望の光を掲げるはずであるのに、弱い立場にある人を虐げ苦痛を与えてきた事実が、大きな批判を受けています。加えてそういった行為が、模範となるべき聖職者によってなされてきたことに、私をはじめとした聖職者は心から許しを願い、反省をしなければ成らないと思います。

自らまいた種ではありますが、教会の存在を大きく傷つけてしまったことを猛省しながら、教会が本来行うべき業をあらためて自覚し、その業に真摯に打ち込んでいくことが、いま重要だと思っています。

だからこそ、私たちの国を襲ったこの大災害に直面し、不安と悲しみの淵に追いやられた多くの被災者の方々と歩みを共にしながら、教会は希望のともしびを掲げ続けたいと思います。喜びのたよりを告げしらせたいと思います。自らの言葉と行いで、福音を証ししていきたいと思います。そうしなければ、キリスト者と呼ばれる資格はありません。

私たちを愛してくださった神が、自らを犠牲にして新しい生命への希望を与えてくださったのですから、その希望の光を多くの方に分かち合うのは私たちの責務です。とりわけ、困難に直面する多くの方に、光から遠ざけられている多くの人に、出かけていってその光を届けようとするのは、私たちの使命です。

あの大震災から8年目となる本日、あらためてキリスト者としての私たちの使命を自覚し、いのちの主の希望の光を高く掲げ、困難な道を歩み続ける方々と、歩みをともにし続ける決意を新たにいたしましょう。

|

2019年3月 6日 (水)

灰の水曜日@東京カテドラル

Ashw1902
3月6日は、灰の水曜日です。四旬節がはじまりました。40日間を通じて信仰の原点を振り返り、キリスト者のあり方をより深く追求し、ふさわしい準備の上で、御復活祭を迎えたいと思います。

Ashw1906
今日の午前10時の東京カテドラル聖マリア大聖堂のミサは、私が司式し、折から東日本大震災復興支援のチャリティーコンサートのグループにイタリアから同行しておられるフランチェスコ・モンテリージ枢機卿も、一緒に司式に参加してくださいました。

モンテリージ枢機卿は、以前は駐韓国教皇大使なども務められた外交官で、その後バチカンで働き、サンパオロ大聖堂の主席司祭を務めておられました。御年84歳で引退されておられますが、ますますもってお元気で、このチャリティーコンサートには最初から賛同しておられ、以前にも来日されています。

Ashw1904

以下、本日のミサの説教の原稿です。

わたしたちが信仰者として生きるとは、いったいどういうことなのか。教会は今、この大きな問いかけに直面しています。残念ながらその主な原因は、わたしたち聖職者の行いにあります。

米国やラテンアメリカ、ヨーロッパ諸国をはじめとして、その数年間、聖職者による未成年への性的虐待の問題が次々とあかされて、さらにはこの小さな教会である日本でも、同様の問題があることが明らかになっています。今、その問題を避けて教会を語ることはできません。

2月21日から24日まで、「教会における未成年者の保護」をテーマに、世界中の司教協議会会長が呼び集められ、バチカンで会議が行われました。その閉幕に当たりささげられたミサで教皇様は、「人々の魂を救いに導くために神から選ばれ、自らを奉献した者が、自分の人間的弱さや病的なものに打ち負かされ、無垢な子どもたちさえ犠牲にしてしまう、この虐待問題に、わたしたちは悪の手を見ることができる」と指摘されました。

その上で、「人々の正当な怒りの中に、教会は、不正直な奉献者に裏切られた神の怒りを見ている」と厳しく指摘し、この問題に真摯に取り組んでいく姿勢を強調されました。

本来教会は、社会における道徳的権威として、また倫理的信頼性に足る存在として、宗教の枠組みを超えて道しるべとなるべき存在です。それが、指導者であるはずの聖職者によるこのような問題を起こす体質であったことを真摯に反省し、虐待を受けた被害者の方々に誠実に関わっていかなければならないと、痛感しています。

パウロはコリントの教会への手紙の中で、「わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」と述べています。さらには、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」とも述べています。

四旬節は、まさしくこの点を自らに問いかけ、神の前で誠実な僕であるのかどうかを振り返るときでもあります。果たしてわたしたちは、それぞれに与えられた神からの恵みを十分に生かして、キリストの使者としての務めを果たしているのかどうか。

Ashw1903

振り返るときに、心にとめておかなくてはならないことがあります。それは本日の第1朗読に記されていた、言葉です。預言者ヨエルは、「衣を裂くのではなく、おまえたちの心を引き裂け」と、主である神の言葉を伝えます。

わたしたちは、人間ですから、それぞれが心の中に承認欲求のような感情を抱えています。誰かに認められたい。それ相当に評価されたい。また、自らの望みを実現したいという、自己実現への欲求もあります。当たり前のことです。

信仰者として生きていくときに、わたしたちは本来、「キリストの使者としての務め」に重心を置いていかなければならないはずなのですが、どうしてもわたしたちの弱さは、承認欲求や自己実現へとその重心を引きずり込もうといたします。その生き方をイエスは、「偽善者たち」と指摘します。偽善者とは、すなわち自分の欲求に重心を置いて生きている人、自分中心に世界を回そうとする人であります。

自分の欲求に重心を置くときに、結局わたしたちは、教皇の言われる「悪の手」に身をゆだねてしまう可能性があるのです。本来「キリストの使者」として果たすべき、社会の現実にあって神のいつくしみを言葉と行いであかしし、その光を輝かせるという大切な働きを忘れ去り、周りの人々の心にまなざしを向けることなく、欲望の赴くままに道を踏み外してしまいます。

ヨエルの預言は、わたしたちにこう語りかけています。
「あなたたちの神、主に立ち返れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、いつくしみに富み、くだした災いを悔いられるからだ」

何度も何度も失敗を繰り返し、道を踏み外し、自分中心に生きようとするわたしたちに、預言者は、何度も何度も、神のいつくしみに立ち返れ、立ち返れ、と呼びかけるのです。

私たち信仰者は、そして特に今の時、私たち聖職者は、この四旬節にその生き方をあらためて見直し、踏み外した道から、愛と希望の道へと立ち返る努力をしなければなりません。

Ashw1907

四旬節の始まりに当たり、教皇フランシスコは、ローマの教会への手紙8章19節を引用して、「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」と題したメッセージを発表されています。

その中で、教皇は「神の子として生きていなければ、わたしたちはたびたび隣人や他の被造物に対して――自分自身にさえ――破壊的な態度をとり、すべてを自分の意のままに利用できるという考えを、多かれ少なかれ抱いてしまいます。それにより、節度のない行いが横行し、人間の条件と自然を尊ぶことからくる制約を逸脱した生活様式が現れ、歯止めの利かない欲望に従うようになります」と、あらためて指摘されています。

その上で、「復活祭への歩みは、過越の神秘の恵みの豊かさを余すことなく享受するために、悔い改め、回心、ゆるしを通してキリスト者としての顔と心を取り戻すようわたしたちを招いています」と指摘され、すべての被造物の前でおごることなく、謙遜に生きるようにと呼びかけられます。

この説教の後、わたしたちは灰を額にいただきます。灰を受けることによって、人間という存在が神の前でいかに小さなものであるのか、神の偉大な力の前でどれほど謙遜に生きていかなくてはならないものなのか、心で感じていただければと思います。

神の前にあって自らの小ささを謙遜に自覚するとき、私たちは自分の幸せばかりを願う利己主義や、孤立願望や自分中心主義から、やっと解放されるのではないでしょうか。そのとき、はじめて、キリストの使者として生きる道を、少しずつ見いだしていけるのではないでしょうか。

神は忍耐を持って、私たちが与えられた務めを忠実に果たすことを待っておられます。キリストの使者として生きる覚悟を、この四旬節に新たにいたしましょう。

|

2019年3月 3日 (日)

教皇フランシスコ 3

教会は、聖霊によって守り導かれているのですから、わたしたちは安心して集っていることができるはずなのです。

しかし現実はそんなに簡単ではない。社会は少子高齢化だ。その直撃を受けて、教会も少子高齢化。戦後に相次いで建てられた聖堂は、そろそろ補修が必要だ。なかには建て替えも考えなくてはならないところもある。災害が相次ぎますから、耐震工事も不可欠だ。

教会共同体の運営に関わってくださる多くの方々は、本当に毎日、心配の種が尽きないことだと思います。そしてそのような配慮と取り組みは、この世界に現実の組織として存在する限り、不可欠であり重要です。感謝です。

でも同時に、教会は、様々な方向を向いていなくてはならないのも事実であり、常に与えられた使命を最優先に果たしていく努力も忘れることはできません。

Popefrancis1503


教皇フランシスコの、「福音の喜び」にある有名な言葉です。

「自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」(EG20)

物理的に今いる場所が快適かどうかと言うよりも、何も変化させずに今あるままでいることが、一番安心できる、という意味で、「快適な場所」です。

今の教会は、少なくともエネルギーに満ちあふれていると感じています。でもそのエネルギーが、ちょっと後ろ向きの積極性に使われすぎでしまっているのではないか。

前向きの積極性に使うエネルギーも大切です。様々な方向に向かって歩み出す、積極的なエネルギーも必要です。

そして忘れてはならないことは、私たちにはいの一番に考えなければならない使命があること。それはイエスの福音をなんとしてでも一人でも多くの人に伝えること。言葉と行いであかしをすること。そこへと踏み出す勇気が必要です。

教会共同体は、快適にそこに留まるためにエネルギーをため込むのではなく、ともに祈りミサにあずかることで、聖霊のエネルギーを頂き、それを充填し、勇気を持って外へと送り出すためにエネルギーを発生させる。そんな存在であったらばと思います。

教会が、福音をあかしするための、エネルギー発電所になりますように。

|

八王子教会で堅信式、そして新潟へ

Hachiouji1901
先週の日曜日、2月24日は、八王子教会を訪問し、10時からの主日ミサの中で、五名の方が堅信の秘跡を受けられました。

Hachiouji1906
堅信の秘跡を受けられた皆さん、おめでとうございます。ミサ後には、受堅者を囲んで、お隣の幼稚園ホールをおかりして、祝賀会もありました。

Hachiouji1903

八王子教会の主任は東京教区の辻神父様。助任が、4月の人事異動で秋津教会の主任へ転任することが決まっている野口神父様です。教区の神学生の小田君も、現在八王子教会に滞在中です。八王子教会には力強い侍者団がおられ、この日のミサは香炉もつかって大変荘厳な雰囲気でありました。

Hachiouji1904

八王子の町へ足を踏み入れたのは、たぶん40年ほどぶりかと思います。中学生の頃に一度、八王子教会を訪れたと記憶しています。その当時の教会周囲を記憶しているわけではないのですが、今回は、教会の周囲に高層マンションが建ち並び、また新しいマンションの工事も進んでるのを目の当たりにしました。なにか、教会がマンションの谷間にあるような、そんな町になっていました。

聖堂は一杯でしたし、聖歌もすばらしく、教会共同体全体にみなぎっている活発なエネルギーを感じさせられました。

さてそんな八王子教会訪問をおえ、先週は司祭の月例集会やカリタスジャパンの会議などを経て、金曜日の夜には新潟へ移動。

Niigatala0308

3月2日の土曜日は、この季節の新潟にしてはまずめずらしい快晴に恵まれたなか、新潟地区の信徒使徒職協議会総会が開催され、出席してきました。

第二バチカン公会議直後に、盛んに言われた信徒使徒職ですが、その頃から新潟教区には、各地区に信徒使徒職協議会が設置され、信徒が主導する様々な活動が行われてきました。

Niigatala0302_2
私が2004年に新潟に赴任してからは、教区全体の信徒と修道者、司祭の代表で様々な意見を交換する教区宣教司牧評議会を立ち上げましたが、これまでの経緯もあり、各地区での信徒使徒職協議会は、信徒をとりまとめる場として機能し続けています。

新潟地区は、新潟、佐渡、青山、寺尾、花園、鳥屋野、亀田、白根で構成されています。合併で新潟市になった新津は、以前の経緯もあり今の時点では隣の新発田地区に属しています。

Niigatala0303
これらの教会から、司祭団と信徒の代表が集まり、参加者は七〇名ほどでしたでしょうか。私が「あらためて福音宣教について考える」というテーマで一時間お話をさせて頂き、その後1時間でグループの分かち合い。皆で一緒にお弁当の昼食を頂いて、午後一時半から派遣ミサで終了となりました。

Niigatala0304
小さいけれども、コンスタントに活動を続けている教区です。この十年ほど、全体的な人口は減少していますが、成人洗礼の数はほぼ変わっていません。もちろん少子化の影響もあり、幼児洗礼は減っているのは事実ですが、まだまだ教会にはできることがたくさんあります。いま必要なのは、新しい牧者でしょう。司教の誕生を待っている教区です。

一日もはやく、教皇様が新潟のために新しい司教を任命してくださるように祈っていますし、皆様にもお祈りをお願いします。

Niigatala0307

よく、前任者である私が後継者を指名するとか、いろいろな噂があるようですが、残念ながら、前任者が後任選びに関わる余地はそれほどありません。

実際の新しい司教の任命は、その国を担当する教皇大使が中心になって候補者を選び、いろいろな人の意見を聴取しての調査をおこない、それに基づいて教皇庁の福音宣教省の枢機卿委員会議で選任が進められ、最終的に福音宣教省長官がこの委員会議の結果を教皇様のところに持って行き、教皇様が最終決定をされます。

時間がかかるのは、その最初の候補者選びと調査です。手続きが早く進み、ふさわしい司教が選任されるように、聖霊の導きをどうぞお祈りください。

|

2019年2月28日 (木)

御受難修道会の助祭叙階式@秋津教会

Gojyunanord1903

2月23日の午後1時半から、秋津教会で、御受難修道会の会員であるヨセフ稲葉善章さんの助祭叙階式が行われました。これまで聖アントニオ神学院で学ばれ、秋津教会で司牧実習もされておられたとのことで、現在は御受難修道会は東京に修道院が存在しないものの、秋津教会での式となりました。

Gojyunanord1906

当日は日本準管区長の山内十束神父をはじめ、御受難会の会員が大阪や福岡から駆けつけ、またその昔の青年時代に横浜の戸塚教会で出会ったという新潟教区の石黒神父、そして瀬田のフランシスコ会会員も参加。秋津教会主任の天本神父をはじめ近隣の教区司祭も加わり、10名を超える共同司式となりました。

Gojyunanord1902

秋津教会の聖堂は一杯でしたし、侍者団もたくさん参加され、これから助祭として近い将来の司祭叙階への準備を進める稲葉さんのために祈りました。秋津教会での叙階式は珍しかったようです。確かに司祭や助祭の叙階式、また修道者の誓願式は、なかなか参加する機会もないので、今回、秋津教会で行われたことは良かったと思います。こういう機会に、ご自分の司祭や修道者への召命に目覚めてくれる人が現れるように、期待を込めて祈ってます。

Gojyunanord1901

以下、当日の説教の原稿ですが、後半部分は、叙階式の儀式書からの引用です。

わたしたちの信仰は、一人で生きるものではなく、共同体の中で生きていく信仰です。旧約にあって神がイスラエルを民として救いに導いたように、また新約にあってはイエスが弟子たちを呼び集め共同体を築くことから始めたように、わたしたちの信仰は、共同体で生きる信仰です。

もちろんキリストに従うのかどうかは、個々人の決断であることは間違いありませんが、しかしその決断は共同体の中で育まれ豊かにされていきます。わたしたちの信仰は、共同体なしでは成り立たない信仰です。

実に福音を多くの人に告げしらせるためには、教会共同体が福音を証しする共同体となっていなくてはなりません。例えばこの教会を初めて訪れる人が、そこでの出会いから何を感じ取るのか。そもそも教会共同体がどのような雰囲気を醸し出しているのかは、福音宣教にとって重要なポイントです。日曜日の聖堂に満ちあふれている雰囲気こそは、その教会共同体のあり方の反映です。

現代社会において、真摯に福音宣教に取り組もうとするなら、それは何らかのテクニックを考えることではなく、教会共同体を成長させるところからはじまらなくてはなりません。言葉と行いによるあかし以上に力強い福音宣教はありません。それは一人のカリスマのある人物の出現に頼っているのではなく、教会共同体が全体として、社会の中における福音のあかしの発信源とならなくてはなりません。あの聖霊降臨の日、聖霊は聖母とともに集まった弟子たちの共同体の上に注がれ、その共同体の言葉によるあかしが、多くの人にとってキリストの福音のあかしとなりました。

その意味で、わたしたちの教会共同体が、そのような状態であるのかを振り返ることは大切です。少子高齢化が教会にも現実的な危機として感じられる昨今、わたしたちは今あるものの維持という多少後ろ向きな積極性に引きずられている嫌いがあります。その積極性を、前向きの積極性に変えていきたいのです。

教皇フランシスコは、福音の喜びの中で次のように指摘され、常に挑戦者であることを求められます。
「自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」(EG20)

その上で教皇は次のようにも指摘されます。
「教会は無償のあわれみの場でなければなりません。すべての人が受け入れられ、愛され、ゆるされ、福音に従う良い生活を送るよう励まされる感じられる場でなければならない」(EG114)

また本日の第一朗読にはパウロの言葉が次のように記されていました。
「へりくだりと優しさをもち、広い心で、愛によって互いに耐え忍び、平和という絆で結ばれて、霊のもたらす一致を大切に保つように」

はたしてわたしたちの教会共同体は、この社会の現実の中でどのような存在でしょうか。なにをあかししているのでしょうか。

前向きに積極的に出向いていく教会共同体でしょうか。あわれみといつくしみを感じることのできる共同体でしょうか。愛を感じ、励ましを受ける共同体でしょうか。互いにへりくだり、優しくある共同体でしょうか。互いに広い心と愛のうちに、耐え忍び合う共同体でしょうか。平和、すなわち神の望まれる秩序が実現し、祈りのうちに一致しているでしょうか。

教会共同体を強調することは、それぞれの個性を無視して、皆がおなじように同じことをするようにと内向きな圧力のかかる共同体となることではありません。共同体を前向きに育てるためには、それぞれが与えられたカリスマを理解し、それを生かし、共通の善のために行動することが不可欠です。いつくしみと寛容さにあふれた共同体こそが、個々のカリスマを豊かに生かす共同体となります。

そういう教会共同体を育てて行くに当たって、牧者である司祭の役割は重要ですし、それを助ける助祭の役割も重要です。(以下、儀式書から少し言葉を変えての引用)

Gojyunanord1905

ご列席の皆さん。稲葉善章さんは、まもなく助祭団に加えられます。助祭の奉仕の務めとは何でしょうか。

助祭は聖霊のたまものに強められ、神のことばと祭壇に奉仕し、愛のわざに励み、すべての人に仕えて、司教とその司祭団を助けます。祭壇に奉仕する者となって福音を告げ知らせ、ささげものを準備し、主の御からだと御血を信者に授けます。

さらに、助祭の奉仕職には、司教から命じられたことに従って、信者にも信者でない人にもよい勧めを与え、聖なる教えを伝え、祈りを司式し、洗礼を授け、結婚に立ち会って祝福を与え、死に臨む人にキリストの聖なる糧を授け、葬儀を司式することがあります。

助祭は、すべての務めを神の助けによって果たし、仕えられるためではなく仕えるために来られたキリストのまことの弟子であることを示してほしいと思います。

稲葉さん、あなたは自らすすんで助祭に叙階されることを希望しているのですから、かつて使徒たちによって愛のわざの奉仕者として選ばれた人々のように、人望があつく、聖霊と知恵に満たされた者でなければなりません。あなたは独身のまま奉仕職を果たそうとしています。独身生活は、牧者としての愛のしるしと励ましであり、また、世にあって豊かな実りをもたらす特別な源なのです。主キリストへのひたむきな愛に駆り立てられ、すべてをささげてこの生き方を貫く人々は、ほかのことにとらわれず、よりたやすくキリストに結ばれるでしょう。こうして、より自由に神と人々に仕えることに専念し、人々を神によって新たに生まれる者とするわざに、よりよく奉仕することができるのです。信仰に根ざし、これを土台にして、キリストの役務者、神の秘義を人々にもたらす者にふさわしく、神と人々の前で汚れのない者、非のうちどころのない者として自らを示してください。また、福音の告げる希望から目をそらさないでください。あなたは、福音を聞くだけではなく、福音に奉仕しなければならないのです。

清い心で、信仰の秘義を保ち、口でのべ伝える神のことばを行いで示してください。こうして聖霊によって生かされるキリストの民は、神のみ旨にかなう清いささげものとなり、あなたも終わりの日に主を迎えて、「忠実な良いしもべだ。よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」という主のことばを聞くことができるでしょう。

|

2019年2月27日 (水)

3月の予定

2月は、本当にあっという間に時間が過ぎ去る月だと感じます。まもなく3月ですので、主な予定を記します。

なお、すでに教区人事の公示に記載されているように、4月1日から教区本部の事務局次長が司教秘書として赴任します。神言修道会のエドガルド・ジュニア・サンティアゴ神父ですが、たぶんディンド神父と言えばご存じの方もおられるかと思います。4月1日以降は、私のスケジュール管理をはじめ司教へのさまざまな問い合わせなどに、まず最初に対応する窓口となっていただく予定です。

3月2日(土) 新潟地区信徒大会、講演とミサ (新潟)

3月3日(月) 責任役員会 (教区本部)、HIV/AIDSデスク会議 (15時半、潮見)

3月5日(火) バチカンより日本へ祈りのレクイエム、コンサート 

3月6日(水) 灰の水曜日ミサ (10時、関口教会)

3月7日(木) 常任司教委員会ほか (9時、潮見)

3月8日(金) ロゴス点字図書館 (午後、潮見)

3月10日(日) 一粒会総会 (関口)

3月11日(月) 司祭評議会、 東日本大震災8年追悼ミサ (14時半 カテドラル)

3月13日(水) 日本聖書協会会議 (10時半、日本聖書協会)

3月15日(金) ペトロの家会議 (14時半 教区本部)、経済問題評議会 (18時半 教区本部)

3月16日(土) アジア学院評議員会 (11時 都内)、 宣教司牧評議会 (14時半 教区本部)

3月17日(日) 「性虐待被害者のための祈りと償いの日」の集いとミサ (13時半、新潟教会)

3月18日(月) 新潟教区顧問会、司祭代表会議 (午後、新潟教区本部)

3月19日(火) 新潟司祭代表会議 (午前、新潟教区本部)、ロゴス点字図書館理事会 (14時半、潮見)

3月20日(水)~23日(土) カリタスアジア総会 (バンコク)

3月24日(日) 北町教会60周年ミサ (9時半)、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」晩の祈り (17時、カテドラル)

3月25日(月) 司祭月例会 (午前中、教区本部)、滞日外国人司牧関連会議 (13時半、教区本部)

3月26日(火)~29日(金) 国際カリタス理事会 (ウィーン)

3月31日(日) 茂原教会四旬節黙想会 (9時半講話、11時ミサ、茂原教会)

|

「聖書 聖書協会共同訳」発行記念の式典@銀座教会

Seisho1901

日本聖書協会が推進役となり事業が進められてきた、いわゆる「共同訳」の新しい聖書が完成したのは、ご存じの通りです。今回は推進役となった聖書協会の名前を取り、「聖書 聖書協会共同訳」と命名されています。昨年12月に発行されました。

その発行を記念して、記念の講演会と奉献式が、2月22日の金曜日の午後、銀座教会を会場に行われましたので、参加してまいりました。

日本聖書協会には、その理事会にカトリック教会からも理事を出しており、これまでは横浜教区の梅村司教様が務めてくださいましたが、今年から私が理事に入ることになりました。

今回の新しい翻訳事業は、すでに2003年頃から始められており、1987年に発行された「新共同訳」以来、31年ぶりの新しい翻訳の登場となります。プロテスタント諸教会の専門家とカトリックの専門家が協力し合って完成した、一大事業です。

その翻訳方針は、いくつかありますが、特に「日本の教会の標準訳聖書となること」を目指し、「礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語訳を目指」して、作業が続けられました。聖書学の専門家とともに、日本語の専門家や、現場での司牧者も、様々なレベルで加わり、共同作業で完成した翻訳です。

カトリック司教協議会は2010年2月の司教総会で、今回の翻訳事業をカトリックとプロテスタントとの共同事業として認めています。聖書協会の事業の経緯や翻訳への取り組みは、こちらのリンクをご覧ください。聖書協会ホームページ上のPDF文書へのリンクです。

長い年月にわたって、今回の翻訳事業のために献身された多くの専門家の方々、聖書協会の関係者のみなさま、本当にご苦労様でした。御献身に、心から感謝申し上げます。

「自分の人生の60代のすべてを、この翻訳事業のためにささげた」とお話しくださった専門委員の方もおられました。聖書翻訳という歴史に残る事業のために、力を尽くしてくださったみなさまに、感謝します。

Seisho1903

当日の講演会は、オランダで同じく共同訳の聖書翻訳に携わられたローレンス・デ・ヴリース教授による「神の言葉と、今を生きるわたしたち」と題したお話で、どうして聖書の翻訳をし続けていくのかと、翻訳をあらため続ける意義についてお話しくださいました。

銀座教会には一杯になるほどの関係者が集まり、講演会後には祈りの式を持って新しい翻訳を奉献。式では聖書協会理事長の大宮溥先生が説教され、カトリックを代表して私が、そして聖公会を代表して総主事の矢萩新一司祭が祝辞を述べました。

Seisho1902

奉献式後には、会場を近くのホテルに移し、さらにたくさんの諸教会関係者が参加し祝賀会。ここではカトリックを代表して、梅村司教が祝辞を述べられました。

聖書研究や個人での使用については、どうぞ積極的にご利用ください。公式の典礼における朗読などでの利用に関しては、司教団として検討をさらに深めているところです。

|

2019年2月24日 (日)

世界病者の日ミサ@東京カテドラル、2月11日

Scout1901

2月11日はルルドの聖母の御出現の記念日ですが、同時に世界病者の日とも定められています。この日東京のカテドラルでは、二つのミサが捧げられました。午前中は、ボーイスカウトなど、スカウト運動の創始者であるロバート・ベーデン=パウエル卿の誕生を祝って、東京のカトリックスカウトによって行われたB-P祭ミサ。

Scout1902_2

ロバート・ベーデン=パウエル卿の誕生日が1857年2月22日であることから、その日に近い日を選んで行われています。カテドラルの聖堂一杯に、各地から700名を超えるスカウトが集まり、ミサの終わりには宗教章の授与も行われました。

Byoshanohi1901

そして午後1時半からは、世界病者の日のミサ。こちらも多くの方が参加し、祈りをともにしました。また教皇大使もミサに参加してくださいました。ミサの後には茶話会もありましたが、たくさんの方が一度に集まるので、皆さんとお話しできませんでしたし、顔出しをするようにと呼ばれていた会合にも行くことができず失礼しました。

以下、世界病者の日のミサ説教の原稿です。

完全完璧な人間など、この世には存在しません。もちろんわたしたちの信仰は、完全完璧な存在は神のみであり、人間をその似姿として創造されたにすぎないのですから、もとより完全完璧であるはずがありません。

にもかかわらず、多くの場合わたしたちは、思い違いをしてしまいます。心身の健康を保ち、医者とは無縁の生活をしているとつい、自分は誰からも助けなど必要のない存在であると勘違いをしてしまうのです。

その間違いの行き着くところは、神の存在など無視して、まるで人間がすべてをコントロールしているかのように錯覚し、この世の森羅万象は、人間の知恵と知識でなんとでもできるのだという思い違いであります。

人間が完璧ですべてをおさめているという思い違いは、身勝手な価値判断を生み出してしまいます。この人間社会の役に立っているから価値がある。社会に貢献しない存在には価値がない。

そうやって、本来完全完璧ではない人間が思い違いをし、人の価値を定めようとするとき、行き着く先は、人間の存在の根源である命でさえも、人間がその存在を判断できるという、究極の思い違いであります。

Byoshanohi1902


教皇様は今年の第27回世界病者の日にあたり、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言うマタイ福音の言葉をテーマとしたメッセージを発表されています。

2月11日と言う日は、1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた日でもあります。聖母はご自分を、無原罪の聖母であると示され、聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り湧き出した水は、その後、60を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かにわき出しています。

教皇聖ヨハネパウロ2世が、1993年に、この日を世界病者の日と定められました。
今年は、インドのカルカッタで、世界病者の日の行事が行われることから、教皇様のメッセージも、コルカタの聖テレサの活動を取り上げ、教会の愛の業の本質である無償での奉仕の尊さについて触れておられます。

メッセージの中で、教皇様は次のように述べられています。
「人はだれもが貧しく、助けを求めており、必要なものに事欠いています。生まれたときには、両親に世話してもらわなければ生きていけません。それと同様に、人生のあらゆる段階や局面で、わたしたちは皆、他者を必要とし、助けを求めずにはいられません。また、ある人や物の前で自分の無力さを実感するという限界から逃れることもできません。こうしたことは、わたしたちが「被造物」であることを表す特徴でもあります。この事実を率直に認めることにより、わたしたちは謙虚さを保ち、生きるうえで欠かせない徳である連帯を、勇気をもって実践するよう促されます。」

教会が病者のために祈るのは、もちろん第一義的には、イエスご自身がそうされたように、具体的に奇跡的な病気の治癒があるようにと願ってのことですが、同時にもっと広い意味をそこに見いだしているからです。

私たちは、様々な意味で病者であります。教皇様がメッセージで言われるように、何らかのかたちで「必要なものに事欠いて」おり、誰かの助けがなければ生きていけません。ジャングルの中に裸で放り出されて生き延びる人間はまずいないように、わたしたちは社会という共同体の中で守られ助けられて、命をつないでいます。

冒頭で触れたように、そもそも完全で完璧な人間は存在しません。たとえば障害者という言葉に対峙するかのように、健常者などという言葉を使ってしまいますが、よくよく考えるまでもなく、わたしたちは大なり小なり困難さを抱えて生きているのであり、また齢を重ねれば当然にその困難さはまし加わります。肉体的な困難さではなく、心に困難を抱えている人も多くおられるでしょう。

皆同じように、なにがしかの困難を抱えて生きているからこそ、その程度に応じて、私たちは助け合わなければならないのです。支え合って生きていかなくてはならないのです。

創世記の冒頭の天地創造の物語における神の言葉です。
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

私たちのいのちは、互いに助け合うためにと創造されているのです。
わたしたちすべてが、誰かの助けを必要とする弱い存在であるからこそ、教会とは、なにがしかの困難を抱えて生きている人が、互いに支え合って生きていく場であります。主イエスの癒やしの手は、私たちすべてに向けられています。私たちは教会にこのようにしてともに集うとき、その主イエスの癒やしの手に、ともに抱かれて、安らぎを得るのです。わたしたちの存在そのものを愛し、大切に思ってくださる神の、いやしの手に包まれて希望の光を見いだすのです。

ですから今日の世界病者の日は、特定の疾患のうちにある人たちへの回復だけを対象にした、特別な人の特別な日ではなく、私たちすべてを包み込む神の癒やしの手に、ともに包み込まれる日でもあります。主の癒やしの手に包み込まれながら、互いの困難さに思いやりの心を馳せ、その程度に応じながら、具体的に支え合って生きていくことができるように、決意を新たにする日でもあります。

Byoshanohi1903

人間が完璧だなどと高ぶり、人間の存在の価値を定めようとするわたしたちの思い上がりをただす日でもあります。わたしたちは皆、神の前で不完全であり、互いに誰かに助けられて初めて、より良い生き方の道を選び取ることができるのです。

「教会は無償のあわれみの場でなければなりません」と教皇様は呼びかけられます。ルルドの泉で神のいやしの泉へとベルナデッタを招いた聖母マリアが、わたしたちが私利私欲ではなく、謙遜のうちに互いに助け合い、心のいやしを得られる道へと導いてくださいますように。

|

2019年2月16日 (土)

藤岡師、國枝師、納骨式@府中墓地

Fujiokakunieda1907b

今日の土曜日午前11時から、府中墓地において、二人の教区司祭の納骨式を執り行い、多くの方に参列していただきました。幸い、暖かな日差しに恵まれた穏やかな土曜日となりました。

お二人の教区司祭は、パドアのアントニオ藤岡和滋神父とペトロ國枝夏夫神父。藤岡師は昨年の11月21日に、國枝師はその5日後の11月26日に亡くなられました。藤岡師が87歳、國枝師が86歳。(上の写真、向かって左が國枝師、右が藤岡師)

ほぼ同じ時間の流れの中で、二人は司祭職を果たしてこられました。興味深いことに、お二人とも8月のお生まれでした。藤岡師は1931年8月8日、國枝師は1932年8月5日。

Fujiokakunieda1901

同じ時間を歩んできたお二人でしたが、その司祭としての人生は、同じ内容ではありませんでした。私にとってはお二人の現役時代のことは、伝聞でしか知らないのですが、その司祭人生は全く異なっていたようです。

藤岡師は、最後の最後までミサをささげることに全力を尽くした司祭でした。病気が進んで、立つことがままならなくなっても、ミサにだけは出てこようと努力なさっていました。亡くなる三日前の日曜日にも、関口教会のミサを司式されようと努力をしておられましたが、残念ながら体力がそれを許しませんでした。藤岡師の司祭としての人生は、小教区での司牧活動に全力を挙げた人生でありました。

國枝師のそれは、学生の指導司祭や様々な活動に身を投じ、どちらかというと小教区司牧とは異なる道を歩まれたようです。

しかしいずれの人生も、ローマの教会への手紙でパウロが語るように、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません」を具体的に生きた人生であったと思います。それはまさしく「司祭」を生きた人生であったと思います。

Fujiokakunieda1904

すなわち「司祭」として生きることは、いわゆる職業としての司祭を務めることなのではなく、司祭を生きることそのものであります。「これとこれの、定められた業務を果たせば司祭がつとまる」のではなく、その生涯をかけて、最後の瞬間まで司祭を生きるのだと思います。その司祭を生きる人生は、自分のためではなく、主のために、さらにはすべての人のために、生き、死んでいく人生です。

生涯を司祭として生き抜き、いのちへの道を歩み続けた二人の司祭の、永遠の安息をお祈りください。

|

2019年2月11日 (月)

新庄教会で雪の聖母祭@山形県

Shinjo1908

この週末、2月9日と10日は、山形県の新庄市で過ごしました。山形県は、秋田県や新潟県と一緒に新潟教区を構成しています。わたしはまだ、新潟教区の教区管理者を兼任していますから、この訪問は新潟教区での務めです。

新庄市の少し南にある舟形町に、カトリック新庄教会があります。雪の聖母にささげられた教会は、毎年この時期に、大雪の中で雪の聖母祭を行ってきました。私としては、この教会の成り立ちに個人的な思いがあるので、なんとかして一緒に時間を過ごしたいと考えておりました。

Shinjo1909

この教会は、できあがって来年が10年です。共同体はもっと前からありました。この地域で結婚して、住民として、妻として、母として生きている、フィリピン出身の信徒の方々が共同体の大半です。彼らの思いが結集して、できあがった教会です。9年前に、廃園となった一般の私立幼稚園の土地建物を買い取って改築し、教会としました。10月に献堂式をしたとき、共同体には90人近いフィリピン出身の信徒と、3名の日本人信徒が登録されていました。

新庄教会を担当しているのは、山形教会の主任司祭でもある千原神父様。新幹線に乗って山形駅に着くと、思ったほど雪がありません。千原神父様の車に乗って、国道13号線を北上し、新庄に近づくと道路の両端には山のような雪が。新庄教会は、例年のように雪に埋まっていました。

Shinjo1902

周囲は田んぼや公共施設のため、いくら騒いでも苦情が出ることのないので、夜の食事会が大好きなこの共同体にとっては絶好のロケーションですが、何せ雪が半端ない。毎年の除雪費用が数十万円に及ぶのが、共同体の頭痛の種です。かといって除雪しなければ、建物は大変なことになります。昨年はまれに見る大雪で、除雪だけで数十万円が吹き飛び、赤字決算でした。

さて、夕方に教会に集まってきた20数名の信徒の方と一緒に、聖堂でロザリオの祈りを捧げ、千原神父様が聖母像をもち、皆はロウソクを手に、外へ出ました。

Shinjo1905

教会の裏庭には、雪の中に祠がほられ、ロウソクがともされています。そして中心部には祭壇が作られ、皆で行列をして裏庭を回り、最後に聖母像が安置されました。さすがに寒いので、長時間は無理ですが、それでも皆で祈りを捧げ、聖歌を歌い、私も聖水をもって祝福をしました。

Shinjo1906

祈りの後は皆で夕食会。楽しいひとときを過ごすことができました。

Shinjo1907

翌日曜日は、午前10時半からミサ。普段は山形教会のミサが終わってからのため、新庄は午後のミサですが、この日曜は、午後に東京へ戻らなくてはならない私のために、皆が10時半に集まってくれました。山形や秋田県からも、信徒の方がやってきて、聖堂は一杯でした。

最初に触れたように、まもなく献堂10年です。10年前に、自分たちの教会を作ろうと燃えた人たちも10歳年をとりました。まだまだ燃えている人も少なくありませんが、10年はそれなりの時間です。今度は次の10年を見据えて、この教会をどのようにさらに自分たちの教会として育てていくことができるのかが、これからの課題です。

ミサ後、皆で持ち寄りの昼食会。2月に誕生日を迎える一人ひとりのために、名前が入ったケーキまで用意されていて、喜びにあふれたひとときを一緒に過ごしました。

もし山形県を訪れる機会があれば、どうぞ一度ご訪問ください。新庄の少し南、舟形町です。

|

«教皇フランシスコ 2