2018年1月15日 (月)

『「真の喜び」に出会った人々』刊行

Book1801
先日、東京での着座式に合わせて、オリエンス宗教研究所から本を出していただきました。

タイトルは、『「真の喜び」に出会った人々』で、B6版144ページ、税別で1,200円です。一冊お買い求めいただけたら幸いです。

この本は,先に,オリエンス宗教研究所から毎月発行されている『福音宣教』誌に連載された記事をまとめたものです。11回の連載で、わたしが直接知っている方々を中心に、福音の喜びに触発されて信仰の証しに生きている方々を紹介する内容です。

ほとんどの方が,ガーナでの宣教活動や,カリタスジャパンの仕事を通じて出会った人たちです。わたしの人生の歩む方向に,大きな影響を与えた人もいます。新潟教区の米沢の53福者殉教者や,福者オルカル・ロメロ大司教のような歴史上の人物もいますが、すべて何らかの形で,わたし自身とつながっている人たちです。

連載当時は、年に11本ですから、毎月締切り間近になると,苦しんでいたことを思い出します。想像では書けないので、存命の場合はご本人にメールを出したり、関係者にメールを出したり。かなり余裕を持ってメールを出しているのですが、なかなか返事がなくて気をもんだり、さらには返事がない場合に備えて,記事にはならなかった複数名の方に予備のインタビューをしておいたりと、編集部からの企画でしたので、間に合わせるのに苦労したことを覚えています。

本の表紙は、ガーナで働いていた30年前、一緒に苦労したカテキスタのデュマス氏と,一緒にいつも訪問していた病弱なダニエル氏のツーショット写真から、編集部が作成してくれました。二人の話も、もちろん本の中に記されています。

このデュマス氏の息子さんは,当時小学生で,わたしの教会の侍者をしていましたが、いまでは神言会の神父になって,日本管区で働いています。またこの本に登場するガーナのクモジ司教と、コンゴのチバンボ神父は、先日の東京での着座式に参加してくれました。

いろんな人がいて,いろんな状況の中で,いろんな生き方で,福音を証ししている。お互いに出会ったことのない人たち、生きている時間も異なる人たちは、それでも一致しているのです。福音に真摯に生きようとする姿勢において、多様性の中で一致している、神の民の一員です。

|

2018年1月14日 (日)

少しずつ、前進、漸進

Grottotyo1801
この数日、新潟は大雪で、普段はそれほど雪が積もらない新潟市内でも、あまりの積雪に車が埋まったりして、新潟教区本部も臨時休業となったと、連絡をいただきました。普段あまり降雪がない分、新潟市内は,実は大雪には備えが手薄だったりして、こんなにどかんと降ると大変なことになります。一晩中、電車に留まることになった方々は,本当に大変だったと思います。東京でも何度もニュースで流れました。

とは言いながら、わたしは東京にいるわけで、大雪の新潟では全く考えられないほどの薄着で過ごしております。もちろん東京もそれなりに寒いことは寒いのですが、今朝、日曜の朝など、ジャケット一つでカテドラル構内を歩いていられるほどの暖かさ。考えられません。

で、朝からカテドラル構内を歩いていたのは、福島野菜畑の柳沼さんが、野菜などの販売に来られていたので、ご挨拶に。新潟でも,いくつかの教会で,福島野菜畑の活動に協力をしていますが、東京の関口教会では,月に二回ほど,定期的な販売があると聞きました。

Yasaibatake1801
柳沼さんによれば、教会の方々もそうですが、これまで何度も来ているので,顔なじみになった地元の方が常連さんのように購入してくださるそうで、そのため早朝からテントで開店しておられました。二本松から車で3時間ほどかけて来られます。大変な努力をしながら、福島の野菜を販売し続けることで、多くの方が福島を忘れずその現実に直接目を向けてくださるようになればと,心から願います。これからもできるだけ,柳沼さんたちの活動を応援していきたいと思います。

東京教区に着座して,ほぼ一ヶ月です。よくアメリカの大統領なんかが就任すると,ハネムーンの100日とか言われます。その間は,多少の試行錯誤は許されるが、100日を超えたら結果を出すことが求められるという意味でしょう。そうなると、100日は、聖週間が始まる3月25日の週ですね。うーん。努力します。

でも少しずつですが、前進、いや漸進しております。

昨日、1月13日の土曜日には,初めての宣教司牧評議会を開催しました。宣教司牧評議会は,新潟教区にもありますが,教区によってその活動内容が異なっています。東京の宣教司牧評議会は、それぞれの宣教協力体からの代表の信徒の方で主に構成され、司祭評議会の代表も加わると伺いました。もっとも司祭評議会はまだ開催されていませんので、今回は司祭の代表は不在。それでも、司教が福音宣教の方向性を定めるために、各現場の現状からの報告や提言が活発になされる、教区司教を支えてくれる組織であると、今回の初めての宣教司牧評議会で感じました。なるべく多くの声をお聞きしたいというのがわたしの願いですので、これからも様々な課題について、信徒の方々の声を届けていただければと思います。

新潟教区では,宣教司牧評議会は一年に一度しか開催できませんでしたが、東京教区では,隔月で,年に6回の開催。回数の多さに,さすが大都会と驚きましたが、ありがたいことです。

Cathedral1801
どのくらいの頻度で,カテドラルでのミサを行うのか,何かまだ模索中ですが、すでに決まっている東京カテドラル関口教会での次回のわたし司式のミサは、灰の水曜日、2月14日午前10時の予定です。なるべく頻繁に、機会を見て、カテドラルでのミサも捧げたいと思います。

なお新潟教区では、また小教区には改めて教区本部からご案内しますが、四旬節第一主日の共同洗礼志願式を,今年もわたしの司式で,新潟教会で行います。今年は、2月18日(日)の午前9時半です。

|

2018年1月 9日 (火)

東京教区新年の集いミサ@カテドラル

昨日1月8日は、カテドラルの関口教会で、午後2時から、教区の新年の集いのミサが行われました。ミサはわたしが司式し、30名を超える司祭が共同司式してくださいました。聖堂も、教区内各地の小教区共同体の方々が大勢駆けつけてくださり、設置してある座席はいっぱいでした。(あれで、実際は何名くらい座れるのでしょう。そのうち調べてみます)

またミサの後にはケルンホールを会場に茶話会が開催され、教区内の多くの方からご挨拶をいただきました。おいでくださった方々に感謝します。また準備してくださった宣教司牧評議会の皆さんにも感謝申し上げます。

以下昨日のミサの説教の原稿です。

大司教として着座をし、東京教区の牧者としての務めを任されて、まだ一月もたっていません。ですからわたしにとって、新しく始まったばかりのこの一年は、東京教区の全体像をしっかりと理解する一年になろうかと思います。できる限り多くの方にお話を伺う一年としたいと考えています。

とはいえ、東京教区の教区共同体はその間も眠っているわけではなく、生きているキリストの体として歩み続けております。年の初めに当たり、教区共同体全体として、どこを向いて歩みを進めようとしているのか、その方向性だけでもお話ししようと思います。

ご存じのようにわたしの司教職のモットーは、「多様性における一致」であります。一般的に考えて、多くの人が集まって生きている社会には、必然的に多様性が存在しています。一人一人が異なる人間であるから当然であります。ですから、人が多く集まるところには、必然的に何かしらの多様性があります。

私たちの信仰は、旧約の時代から新約の時代に至るまで、わたしと神との関係を基礎にしつつも、常にその個人的な神との関係は共同体の中で生き、はぐくまれ、実践される信仰であります。まさしく、神の民という言葉が表しているとおり、私たちの信仰は共同体と切り離せない関係にあります。

多くの人が集まったこの信仰共同体を一致させるのは、皆が同じように行動するといったたぐいの外面的な同一性ではなく、同じキリストに結びあわされて生かされているという意味での同一性であります。

わたしが、「多様性における一致」というモットーに掲げている一致は、一見それぞれがばらばらに生きてはいるのだけれども、それぞれが唯一のキリストにしっかりと結びあわされて生かされ、共同体全体としては神に向かって歩んでいる、そのような一致であります。

ですから問題は、教区共同体の皆が、しっかりと同じキリストに結びあわされて生かされているのかどうかであります。わたしたちは、自分が出会ったことのないキリストに結ばれることはありません。教皇ベネディクト16世がしばしば強調されていたことですが、私たちの信仰にはキリストとの個人的な出会いが不可欠です。キリストとの出会いは、「個人的な出会い」と言いながらも、それは決してわたし個人のためだけなのではなく、皆が同じキリストに結ばれるようにと、共同体全体のために不可欠なことであります。

教区共同体全体が多様性の中に一致することができるように、まず第一に、一人一人が個人的にキリストと出会うことができるように、祈りと学びを深めていきたいと思います。

その意味でも、今生きている神の御言葉に、しっかりとつながっていることは重要です。聖書に親しみ、同時にミサの時に朗読される聖書に記された神の言葉を、是非とも大切にしていただきたいと思います。それは昔記された格言集なのではなく、告げられたときに今生きている神の言葉であります。ミサの聖書をよりよく朗読し、また神の求められていることを知るようにと耳を傾けることは大切であります。

「わたしの口から出る言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と預言者イザヤに語らせた神の思いが、今実現するように、私たちは神の言葉を通じて示される神の使命を知り、その実現に寄与する生き方を見いだしたいと思います。

教会は、誰かが経営をしているお店にお客さんがやってくるようなそういう存在ではなく、その共同体に属するすべての人によって成り立つ存在です。それは教区共同体も、小教区共同体も同じことであります。信徒、司祭、修道者が、それぞれ共同体の中で役割を果たし、責任を分担していくことで、一つの体は成立いたします。その意味で、継続した信仰養成は重要であり、そのためのリーダーには、信徒の方々にも積極的に関わっていただきたいとわたしは思います。できる限り多くの方の協力を得られる道を、これから模索したいと考えています。

日本の司教団は、昨年、「いのちへのまなざし」のメッセージの増補新版を発表いたしました。私たちが生きているこの社会には、国家間の関係に始まり、身近な地域の関係まで含めて、様々な不安要素が存在し、私たちはある意味、先行きの明確ではない暗闇の中を手探りで進んでいるような漠然とした危機感の中で、何かしらの不安を抱えて生きております。そのような現実の中で、人間のいのちは、様々なレベルでの危機に直面しております。現実の紛争やテロの中で失われていく多くのいのち。国境を越えて移動する中で危機に直面するいのち。そうかと思えば、私たちの国でも、障害と共に生きている方々を殺害することが、社会にとって有益なのだと主張し、実際にそれを実行する人物が現れ、加えてその行為を肯定する人たちの存在すらも浮かび上がりました。

神からの賜物であるいのちの価値を、人間が決めることができるのだという考えは、神を信じている私たちにとっては、人間の身勝手な思い上がり以外のなにものでもありません。

世界の様々な現実の中で、多くのいのちが危機にさらされている、その背景には、世界が暗闇に取り残されてしまった不安から生じる自己保身と、その結果としての自己中心、利己主義が横たわっております。異質な存在を排除し、自分たちの周囲のこと以外には無関心になって目をつぶる。そのような自分中心の世界の中で、神からの尊い賜物であるいのちは、様々なレベルの危機に直面しております。

マルコによる福音に記されている洗礼者ヨハネは、主イエスを評して「わたしより優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履き物のひもを解く値打ちもない」と述べています。その言葉は、主イエスが優れているのだという宣言である以上に、洗礼者ヨハネの自己理解がいかに謙遜であり、自己中心ではないのかということを明確にしています。

わたしたちは、この世界では人間ではなく神が中心なのだと主張したいのです。洗礼者ヨハネのように、わたしではなく神こそが中心なのだと主張したいのであります。しかしそう主張するためには、この現実のなかで多くの困難が伴います。ですから、皆さんの力が必要なのです。

教会に属する多くの方が、それぞれの生きておられる現場で、それぞれの方法で、この利己的な価値観にあらがう活動を続けておられます。是非とも教区内のそういう力を結集し、ばらばらに個々人がではなく、教会が全体として、この社会の中にあって暗闇に輝く希望の光となることを目指したいと思います。いのちの大切さを説き、私たちの人生には本当の希望があるのだと主張する。社会の中にあってそういう光り輝く教区共同体であってほしいと思います。失敗を恐れずに挑戦してみましょう。教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」に記された言葉を引用して終わります。

「私は出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さ故に病んだ教会より好きです」(EG49)

|

2018年1月 7日 (日)

東京教区修道女連盟@麹町教会

26653954_1559522837500562_315432294
昨日、1月6日の土曜日、東京教区修道女連盟の新年の集いが、麹町教会(イグナチオ教会)を会場に開催されました。300人を超える修道女の方々が、集まってくださいました。

いやあ、さすがに東京教区です。こんなにシスターがたくさん集まっているのは、あまり見たことがありません。

20180106_124916

実は、元々この集まりのために講演を頼まれていました。まだ新潟の司教であったときです。そのときの予定では、9時半からのミサを岡田大司教が司式され、その後の講話をわたしが担当することになっていたのですが、その後、わたしが東京の大司教に任命されたため、今回はミサからわたしがすべて担当。岡田大司教からは、シスター方のこれまで17年間の祈りと協力に感謝するメッセージが寄せられていました。

わたしとしては初めてイグナチオ教会でミサを司式いたしました。司教団の何かの行事で共同司式したことはありますが、自分でミサを捧げるのは初めて。大きな聖堂であることをあらためて実感しました。

26654736_1559522857500560_526987563
ミサ後は昼食を挟んで一時間の話を3回、都合3時間、カリタスジャパンの活動やガーナでの宣教活動を通じて学んだ、福音宣教とは何かについて、いろいろとお話しさせていただき、また国際カリタスが現在進めている難民と移住者のためのキャンペーンについて、説明もさせていただきました。日本ではカリタスジャパンと難民移住移動者委員会が共催で、「排除ゼロキャンペーン」として実施中です。詳しくはカリタスジャパンのホームページを

以下昨日の説教の原稿です。

先日東京の大司教に着座したばかりで、早速修道女連盟の皆さまとこのようにミサを捧げ、またお話をさせていただく機会を与えられたことに感謝申し上げます。

年頭ですから、この一年、2018年がどのような年になるのか、展望のようなことをお話しすればよいのか、などとも思いました。でもわたしは、政治や経済の評論家ではありませんから、世界の現実をざっくりと一刀両断にしてお話しできるだけの材料はありません。さりとて、牧者として任されることになった東京教区の今年の展望は、まだその全体像が把握できていないどころか、司祭評議会ですら開催しておらず、司教総代理をはじめとした様々な役職も今の段階では任命しておりませんので、もう少し時間をいただかないと、具体的なことはお話しできません。それでも、今の時代を肌で感じる中から、思うところをお話しさせていただきます。

ご存じのように、恒例の昨年の一文字の漢字は、「北」でありました。この漢字一字の選定にあたる日本漢字能力検定協会によれば、「北」を選んだのは、「2017年は、「北」朝鮮ミサイルの「北」海道沖落下や九州「北」部豪雨などの災害から、平和と安全の尊さを実感した年」であったからだといいます。

日本国内や近隣の地域との緊張関係にとどまらず、世界全体を見ても、「平和と安全」が脅かされていると感じる状況は、様々なレベルで存在しております。テロの脅威はなくならず、日本で報道されていないレベルで考えれば、各地で地域紛争は続き、加えて大国間の政治の緊張関係は、そのリーダーの存在とともに不測の事態すら招きかねない。その意味で、2018年は「平和と安全」をさらに希求しながらも、ある意味「混乱」のうちに過ごす一年となるのではないかと感じています。

混乱は、先行きが見通せない不安を生み出し、不安は希望を消し去ります。希望のない不安にいる人間は、疑心暗鬼を深めて参ります。疑心暗鬼を深めたとき人間は、少なくとも確実なものだけは守ろうといたします。確実なもの、それは自分自身の存在であります。すなわち、混乱の行き着く先は、自己保身であり、究極的には徹底した自己中心、利己主義であります。

そうであるにもかかわらず、人間は社会という共同体の中で生きていかなくてはなりません。共同体の構成員が自己保身を深めるとき、社会全体も自己保身的になってまいります。そのような社会にあっては、異質な存在は安定を損なう存在として、排除される傾向が強まります。

教皇フランシスコは、そういった社会の中心から排除される存在に、徹底的に目を向け手をさしのべようとする姿勢を明確にされてきました。

この1月1日の「世界平和の日」にあたって発表された教皇様の平和メッセージのテーマは、「移住者と難民、それは平和を探し求める人々」とされています。

ともすれば、移住者や難民は、社会の中の異質な存在として、安定と一致を乱すまさしく混乱の原因であるかのように見なされます。しかし教皇様はそれをあえて、「平和を探し求める人々」なのだといわれます。

教皇フランシスコは、メッセージの冒頭で、「平和を見いだすために」旅を続ける人々は、「いのちをかける覚悟で旅に出ます」と指摘され、その上で、「戦争と飢餓から逃れてきたすべての人々、差別や迫害、貧困、環境破壊のために祖国を去らざるをえないすべての人々を、いつくしみの精神をもって抱きしめましょう」と呼びかけます。

本日の福音は、主の洗礼の場面でありました。主イエスがヨルダン川で洗礼を受けられる前に、洗礼者ヨハネは「わたしは、かがんでその方の履き物のひもを解く値打ちもない」と述べています。その言葉は、主イエスが優れているのだという宣言である以上に、洗礼者ヨハネの自己理解がいかに謙遜であり、自己中心ではないのかということを明確にしています。

使徒ヨハネは、「御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません」と記して、私たちの求める真のいのちの源はどこにあるのかを明確に示します。

そしてこの二つの言葉は、私たちが生きている現実を支配する価値基準とは、かなり異なるものであります。

混乱の中で不安にさいなまれ希望を失い、異質な存在を排除して自己保身に走る社会は、自分にこそ世界の中心があるのだと主張します。命の源は自分が護っている好みにあるのだと主張します。そこではいつくしみですら、私が恵んでやるありがたいもの、わたしからのお恵みへと変質します。

そのような中で、私たちは、自分ではなく、いのちの源である神を信じようと主張します。世界はわたしを中心に回っているのではなく、わたしたちにいのちを与え生かしてくださる神を中心に回っているのだと主張します。神によって生かされているからこそ、その危機に直面している兄弟姉妹に手をさしのべなければならないと主張します。神からのいつくしみを受けて生かされているからこそ、そのいつくしみを分かち合わなくてはならないと、主張します。そしてそれは、結構努力を必要とする、しんどいことであります。

世界に新しい光を注いでくださった幼子イエスの誕生に励まされ、神のみ言葉を心に抱きながら、困難のうちにも希望を持って、いのちの与え主のいつくしみを、あかしして参りましょう。

|

2018年1月 1日 (月)

神の母聖マリア、深夜ミサの説教

1月1日は、神の母聖マリアの祝日であり、また世界平和の日でもあります。今年は、東京カテドラル関口教会で、新しい年の始まりと同時に、深夜ミサを捧げました。聖堂内は、深夜にもかかわらず、ベンチ部分はいっぱいになるくらい多くの方がミサに与り、一年の始まりを祈りのうちに過ごしました。

以下、深夜ミサの説教の原稿です。

お集まりの皆様、新年明けましておめでとうございます。

新年の第一日目、これから新しい一年という時間を刻み始めるに当たり、教会はこの日を「世界平和の日」と定めています。かつて1968年、ベトナム戦争の激化という時代を背景に、パウロ六世が定められた平和のための祈りの日であります。

同時に、主の降誕から八日目にあたる今日は、「神の母聖マリア」の祝日でもあります。
神の御言葉、平和の王である主イエスは、聖母マリアを通じて私たちと同じ人となられました。八日目に「イエス」と名付けられた幼子は、聖母マリアの愛情のうちに救い主としての道を歩まれ、神の望まれる道を具体的に私たちに示されました。

新しい年の初めにあたり、聖母が信仰のうちにイエスと歩みをともにされたように、わたしたちも主の示される道をともに歩む決意を新たにしたいと思います。

今日、世界の平和を考える時、私たちは日本近隣を含め世界各地で見られる緊張状態や、この十数年間に頻発しまた継続している様々な地域紛争、残忍なテロ事件のことを考えざるを得ません。それ以外にも、全く報道されることのない、ですから私たちが知らない対立や不幸な出来事が、世界各地には数多く存在していることを思うとき、その混乱に巻き込まれ恐れと悲しみの中にある多くの方々、とりわけ子どもたちのことを思わずにはいられません。この新しい年を、希望の見えない不安な状況の中で迎え、いのちの危機にすら直面している多くの人たちに、私たちの心を向けたいと思います。

この新しい年には、日本をはじめとして、この地域の各国の指導者たちが、さらには世界の国々の指導者たちが、対立と敵対ではなく、対話のうちに緊張を緩和する道を見いだし、さらには相互の信頼を回復する政策を率先してとられることを期待せずにはおられません。一人一人のいのちが等しく大切にされる世界の実現に、一歩でも近づくように祈ります。

さて激しくグローバル化する世界では、様々な理由から国境を越えて移動する多くの人たちがおります。観光旅行に始まって、留学やビジネスや学術研究や医療など、人が移動し続ける理由は数限りなくありますが、そこには自分が積極的には望まない理由で移動をせざるを得なくなる人たちも多く存在しています。

一人一人のいのちが、神の前で等しく大切であり、誰一人として忘れられてよい人も無視されてよい人もいないのだと強調され続ける教皇フランシスコは、特に、様々な理由から母国を離れて移住するしか道のなかった人たちの、それぞれの心の悲しみと苦しみに目を向けられます。

本日の「世界平和の日」にあたって発表された教皇様の平和メッセージのテーマは、「移住者と難民、それは平和を探し求める人々」とされています。

ともすれば、移住者や難民は、平和を乱す混乱の原因であるかのように見なされます。しかし教皇はそれをあえて、「平和を探し求める人々」なのだといわれます。

教皇フランシスコは、メッセージの冒頭で次のように指摘されます。
「世界中に2億5千万人以上いる移住者と、その内の2250万人の難民について再び話したいと思います。わたしの敬愛する前任者、ベネディクト十六世が断言しているように、彼らは『平和のうちに過ごすべき場所を求める、男性、女性、子ども、若者、高齢者です』。彼らの多くは平和を見いだすために、いのちをかける覚悟で旅に出ます。その旅は多くの場合、長く険しいものです。そして彼らは苦しみと疲れに見舞われ、目的地から彼らを遠ざけるために建てられた鉄条網や壁に直面します。」

その上で教皇は、聖ヨハネパウロ2世の言葉を引用してこう記します。
「もし、すべての人々が平和な世界という夢を分ち合い、また難民や移住者の貢献が正しく評価されるなら、人類はもっと世界的な家族となり、地球は本当の意味での共通の家となるでしょう」

教皇フランシスコのこうした呼びかけに応えて、教会の援助救援団体である国際カリタスでは、昨年9月から、難民や移民として困難な旅路に出ざるを得ない人たちと、その旅路を分かち合おうという趣旨のキャンペーンを始め、日本の教会では、カリタスジャパンと難民移住移動者委員会が共同で、「排除ゼロキャンペーン」と題して実施中であります。

私たちはニュースなどを耳にするとき、難民だとか移住者と、ひとくくりの集団として考えてしまいがちであります。しかしそこには一人一人の大切な存在があり、そこには一人一人のユニークな歴史と物語があります。一人一人の喜びと希望、苦悩と不安が存在します。

どうしても第二バチカン公会議の現代世界憲章の冒頭を思い起こしてしまいます。
「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」

教会は、困難に直面する一人一人に、思いをはせ、その心に寄り添いたいと願っています。

世界平和の日にあたり、困難に直面している多くの方々の心に思いをはせましょう。平和を実現する道を歩まれたイエスの旅路に、聖母マリアが信仰のうちに寄り添ったように、私たちも神が大切にされている一人一人の方々の旅路に寄り添うことを心がけましょう。聖母マリアのうちに満ちあふれる母の愛が、私たちの心にも満ちあふれるように、マリア様の取り次ぎを求めましょう。

この一年、いのちの与え主である神が、一人一人の存在を愛おしく思われるように、わたしたちも一人一人を大切にし、その心に寄り添って生きるように、とりわけ困難な状況のうちに生きておられる多くの人たちに寄り添うように、ともに心がけて参りましょう。

|

新年明けましておめでとうございます

新しい年、2018年が始まりました。

新年、明けましておめでとうございます。

先日東京カテドラルで行われた着座式では、本当に多くの方に参加していただき、励ましのお祈りとお祝いの言葉をいただきました。また、当日は様々なところで、多くの方のお祈りもいただきました。お一人お一人に御礼を申し上げたいのですが、なかなか適いませんので、このブログでもって、皆様に心から感謝申し上げます。

本来ですと御礼の言葉や、また新年のメッセージなどを用意すべきところです。申し訳ありません。何もできていません。年賀状すら用意することができませんでした。

というのも、実はまだ新潟からの引っ越しが完全には終わっておらず、また新潟教区での残務整理に加えて、新しい司教が決まるまでの新潟教区管理者の仕事もあるため、東京に落ち着いておりません。一段落するまで、今しばらく時間をいただきたく思います。

さて、年末最後の日には、都内でも雪がちらつきました。大晦日に初雪を観測したのは、130年ぶりだと、どこかで読みました。寒い一日でした。

厳しい寒さで始まるこの2018年は、私にとっては大きな挑戦の一年です。「教区共同体とともにどこへ向かうのか、そのためには何をしたらよいのか」。まずこの二つを、全く新しい環境の中で見極めていかなくてはなりません。そのためには、現在の教区共同体の現実と可能性を識別しなくてはなりません。

とはいいながら、教区共同体は生きています。教区共同体には、まさしく「多様性」そのものともいうべき、多様な教会の現実があり、その多様性は具体的な人として日々の信仰生活を生きておられます。ですから、完全に立ち止まり、いわばフリーズしてアイディアを練ることだけに集中することはできません。今まさしく動いている共同体を、動かし続けなくてはなりません。

これまで続けられてきたことは、ひとまずそのまま継続していただきたいですし、その動きの中で、課題や可能性を一緒に学ぶことができればと思います。私にとっては新しく知ることですし、また教区共同体を形成しているお一人お一人にとっては、これまでの過去を振り返り新たな道を見いだす機会ともなり得るかと思います。

そのような中にあっても、私にとっては明確なことを、二つだけ記しておきます。

まず第1に、教会共同体は、積極的に参加される人も、そうではない人も含め、すべての信徒・修道者・司祭はその一部です。それはご自分が好むと好まざるとに関わらず、洗礼を受けてキリスト者となっている限りにおいて、すでに教区共同体の一部として招かれているからです。ですから、皆さんすべての存在が、教区共同体には不可欠です。

そして第2に、教皇ベネディクト16世が、回勅「神は愛」に記された教会の本質的三つの務めを、教区共同体として具体化することが私の願いです。すなわち25番に次のように書かれています。

「教会の本質は三つの務めによって表されます。すなわち、神のことばを告げ知らせること(宣教ケーリュグマ)とあかし(マルチュリア)、秘跡を祝うこと(典礼レイトゥールギア)、そして愛の奉仕を行うこと(奉仕ディアコニア)です。これら三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことができないものです。」

福音宣教に励み、典礼を真摯に行い、愛の奉仕の務めに励む教会共同体。もちろん一人ですべてをすることができるはずがありません。だからこその多様性です。そしてそれら三つは、対立するものでも勝手なものでもなく、互いが互いの前提となり、切り離すことができないのです。だから、多様性における一致です。

教区共同体の中で、この三つの務めがバランスよく、そして互いを支え合いながら具体化されるとき、教会は社会の中で、福音を具体的に生きる「しるし」となるのではないでしょうか。

現代社会はめまぐるしく変化を続け、日本の社会構造もこれから大きな変化に直面しようとしています。社会が変わる中で、教会は変わらない福音を堅持しながらも、それを具体的に「あかし」する道は、常に時代の要請に応えて刷新し続けなければなりません。時代の流れに迎合するのではありません。そうではなく、神がこのすべての人に福音を伝えたいと願っている、その神の思いを、今の時代にどのように具体化するのかを、神の民は歴史の中で常に見極めてきたのです。それを私たちは、今も続けなくてはなりません。

新しい年が、すべての信仰者にとって、教区共同体において自らが果たすべき役割を見いだし、異なる考え、異なる生き方、異なる信仰の表現にあっても、同じキリストから離れることなく、互いに受け入れ合い、支え合っていく一年となりますように。

2018年1月1日

カトリック東京教区 大司教

カトリック新潟教区 教区管理者

タルチシオ 菊地功

|

2017年12月25日 (月)

主の降誕の祝日

今日もまた晴天に恵まれた東京でした。加えて乾燥してます。静電気も走ります。

今日、主の降誕の祝日は、午前10時からのミサを司式させていただきました。昨晩ほどではないものの、カテドラル関口教会聖堂は、ベンチがほぼすべて埋まり、周囲のパイプいすに座る人たちもいたので、いったい何人おられたのでしょう。

昨日の待降節団第4の主日に始まって、降誕の夜半のミサ、深夜ミサ、そして今日の朝のミサと、主任と助任司祭もフル回転でしたが、侍者の青年たちもフル回転。昨晩は深夜ミサの後に、信徒会館に泊まっていった強者も数名いたようでした。

本日、主の降誕の祝日、日中のミサの説教原稿です

「いかに美しいことか。山々を行き巡り、よい知らせを伝えるものの足は」

本日の聖書と典礼の表紙には、クリスマスには欠かせない馬小屋での誕生の絵画が掲載されています。ところが、その聖書と典礼のページをめくり本日の朗読を読んでみても、そこには馬小屋も、飼い葉桶も、マリアもヨセフも登場してきません。本日の福音には、ただ、「はじめに言があった」とだけ記されておりました。

日本語の訳は、「言葉」という普通の単語ではなく『言』と書いて『ことば』と読ませています。ギリシア語の『ロゴス』という単語を表現するために、いろいろ考えた結果だと思います。そこには単に私たちが普段口にしている言葉とは意味合いが異なる特別な意味があり、生きている神の言は、人格をもった神の思いそのものであり、それこそがイエスなのだと言うことを私たちに伝えるための、漢字の工夫であろうと思います。

イエスの存在そのもの。イエスが人として語る言葉。イエスの行い。それこそが神の思いを具体的に見えるものとした事実であり、その存在にこそ命があり、光があり、暗闇の中に輝く希望なのだと、ヨハネは私たちに伝えています。

イエスの誕生にこそ、また神の言の受肉にこそ、神の愛といつくしみとゆるしの深さがはっきりと表れています。自らが創造された人間のいのちを、神は徹底的に愛しぬかれていたから、忍耐に忍耐を重ねて、しばしば預言者を通じて、その歩む道をただそうとしてきた。しかし人間はなかなかそれに従わない。そこで神はすべてを終わらせることも出来たであろうに、そうではなく、自ら人となり直接にわたしたちへと語りかけ、わたしたちが歩むべき道を示し、そして最後には人間の罪をすべて背負って十字架につけられました。それは、あがないの生け贄としてその身を捧げ、それによってすべての人のために永遠の生命への道を開かれるためでありました。これこそが、私たちの信仰の中心であります。そしてその原点は、はじめからあった神の言が人となって誕生した事実にあります。

今日、イエスの誕生を祝ってここに集う私たちは、神のつきることのない愛といつくしみとゆるしの結果として、私たちに与えられた神の言にあらためて触れています。神の思いそのものである言に触れ、それに包まれる機会を与えられています。私たちがクリスマスに教会に集まって喜びの思いを抱くのは、単にイエスの誕生日を祝っているという喜びではなく、つきることのない神の愛といつくしみとゆるしに包み込まれて生かされているのだという事実を、この誕生の神秘のうちに改めて確認させられるからではないでしょうか。

福音は、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」と述べています。人となられた神の言を信じる私たちが、神の子となる資格を与えられるのであれば、それでは、神の愛といつくしみとゆるしに包み込まれ、神を信じるわたしたちは、どのように、何をもって、神に応えることで、神の子となっていくのでしょうか。

本日の第一の朗読に、「いかに美しいことか。山々を行き巡り、よい知らせを伝えるものの足は」というイザヤ預言者の言葉が記されていました。

わたしたちには、忘れることのできない使命が一つあります。あらためて言うまでもなく、それは福音宣教の使命です。素晴らしい恵みを受けて生かされているわたしたちは、それを自分のためだけに、自分のうちだけにとどめておくことは許されません。主ご自身が命じられたように、受けた恵みをわたしたちはすべての人たちに告げ知らせる使命を与えられていること、その事実を、イザヤの預言は今日、思い起こさせます。

経済や政治の状況が厳しい中で、また少子高齢化が激しく進んで社会全体に明確な希望の光が見えてこないようなときに、人はどうしても自分の人生の護りに入ってしまいます。皆が護りに入る、社会全体から、『愛といつくしみとゆるし』は徐々に姿を消し、厳しく他人を裁き、批判し、異質な存在を排除し、最終的には対立し攻撃することさえ良しとしてしまいかねません。

私たちはそういった社会に対して、裁きや批判ではなく、また排除や対立ではなく、互いに神から命を与えられ生かされているものだという謙遜な自覚の中で、互いに支え合い、受け入れあう慈しみ深さ、優しさを、見える姿で示していきたいと思います。それは声高に語る福音宣教ではなく、一人一人の、そして共同体としての、言葉と行いを通じた具体的なあかしによる福音宣教です。教会共同体は今、社会のただ中にあって、神の愛といつくしみとゆるしを具体的に示すしるしとなることが必要です。

孤独のうちにある人、助けの声さえ上げることのできない人、存在さえ忘れ去られた人、様々な理由で排除される人。その叫びは小さな声だけれど、暗闇に響き渡る主イエスご自身の声、神の言であります。そこに神がおられる。

神の言が人となられたことを祝う今日、私たちはあらためて神の思いそのものである言に生きることを、また神の言に生かされ、そして神の言を具体的に形で多くの人に伝えていく決意を新たにしたいと思います。私たちが生きているこの世界に、この現実に、神の言が、どうしても必要だと信じています。

|

2017年12月24日 (日)

主の降誕、クリスマスおめでとうございます

東京教区の皆様

新潟教区の皆様

主の降誕のお喜びを申し上げます。

着座式直後の日曜日には、荻窪教会でミサを捧げることができましたが、今日の主の降誕の祝日は、着座式以降初めてとなるカテドラルでのミサ司式です。さすがに緊張しました。さすがに東京です。さすがに関口教会です。ものすごい人です。しかもミサが夕方5時、7時、10時、深夜零時と4回もあり、しかも午前中は待降節第4主日であったわけですので、主任と助任のお二人は、フル回転です。私は、今夜は7時のミサを、そして明日の日中は10時のミサを担当させていただきます。また今日の日中は、韓人教会の皆さんのクリスマスのお祝いにも参加することができました。

今夜の7時のミサで感動したのは、もちろん参加者が(信徒とそれ以外の方々)ものすごく多いことや聖歌隊がたくさんおられることでもありますが、それ以上に、侍者をつとめる子どもたちと青年がたくさんいること。

というわけで、今夜の夜半のミサの説教の原稿です。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」

 お集まりの皆さん、主の降誕、クリスマスおめでとうございます。

クリスマスと言えば、パーティなどのお祝いが欠かせません。それも、明るい昼間よりも、夜、暗くなってから行われるお祝いの方が、いかにもクリスマスという感じを受けます。それはたぶん、クリスマスには明るく輝くイルミネーションがつきものであり、そのイルミネーションが輝くためには、暗闇が必要だからなのかもしれません。

でも実は、イエスの降誕という出来事と、暗闇との間には、意味のある関係が存在します。それはただ単に、イエスが誕生したのが夜だったと、先ほど朗読された福音書に記されているからではありません。イエスが誕生した意味、そしてその過去の出来事が現代社会に生きている私たちにいま語りかけていること、それを明らかにするのは暗闇であり、その暗闇を支配する静寂であり、その闇と静寂のうちに小さく輝く光であり、ささやく声であります。

わたしは昔、30年ほど前、まだ若い神父であった時に、アフリカのガーナという国の山奥の教会で働いていました。8年間働いていた村は、今でもそうなのですが、電気が通じていない村です。近頃は、近隣の村には電気が通じたと聞きましたが、30年前は、大きな町に行かないと電気は通じておりませんでした。

電気がないところで暮らしていると、夜の闇の深さを肌で感じます。そういった村での明かりは、昔ながらの灯油のランタンであります。小さくか細い光を放つランタンですが、深い闇の中では、そんな小さな明かりも力強く輝いているように感じられます。

夜の道を歩かなくてはならないときなど、懐中電灯の光を頼りに道を探りながら山道を進んでいるとき、月が出ていなければ、周囲を包み込む暗闇は心に不安を生み出します。いったいこの先はどうなっているのか。目的の村はどこにあるのか。暗闇の中で、自分の心の疑心暗鬼に翻弄され、不安に駆られるとき、道の先に小さなランタンの明かりが見えたときの安心感。軒先に掲げてあるランタンです。小さな光ではありますが、暗闇が深ければ深いほど、どれほど小さな光であっても、不安と恐れを取り払い、小さいながらも希望と喜びを感じさせる光であります。

第一朗読のイザヤの予言は、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」としるし、将来の救い主の誕生を告げ知らせます。ところがその「大いなる光は」、福音書に記されていたとおり、小さな生まれたばかりの幼子としてこの世界に現れたのです。

小さないのちは、まさしく暗闇に輝く小さな光。しかし闇が深ければ深いほど、その小さな光であっても、大きな希望の光となり得るように、この小さないのちは、不安と疑心暗鬼の深い闇が広がる現実社会のただ中で、大きな喜びと希望の光となるのです。

「いのち」は、神から与えられた、贈り物、「たまもの」です。神は、人類に喜びと希望を与える光を、小さないのちとして誕生させることで、一人一人に与えられたいのちが、同じ可能性を秘めていること、そしてそのためにこそ、一人一人のいのちがかけがえのない大切なものであることを示されました。 一人一人のいのちは、世界全体と比較すれば小さいものかもしれません。でもその小さないのちは、闇の中に小さな光を輝かせることができる。そしてそれは、世界全体に対する喜びと希望の光となり得る。だからこそ、一人一人は例外なく、神の目にあって大切なのだと、教えています。

私たちが生きている現実は、残念ながら素晴らしいことばかりで満たされているわけではありません。そこには様々な意味での暗闇が存在します。その暗闇の中で、一人一人が真摯に小さな光を輝かせること。それがクリスマスの神からの呼びかけです。

その晩の暗闇の中、野宿をしていた羊飼いたちに現れた天使は、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美していった、とも福音には記されていました。小さく輝く希望の光へと導く声であります。

私たちが生きている現実は、様々な音で満ちあふれております。それは物理的に実際に鳴り響く音であったり、私たちの心を奪っているありとあらゆる情報という音でもあります。様々な音に支配され、静寂からはかけ離れた現実に生きている私たちは、ともすれば、希望の光へと導く声を聞き逃しているのかもしれません。クリスマスの出来事が私たちを招くもう一つのことは、静寂のうちに耳を澄ませてみることでもあります。それは実際に静かにするということ以上に、心を落ち着けて、神の声に耳を傾けようとする姿勢のことであろうと思います。イエスがご自身であるとまで言われた、困難に直面して助けを求めている人たちの声は、やはり社会の騒音の中に隠されてしまいます。助けを求める小さな声は、神からの呼びかけの声でもあります。心の静寂のうちに耳を澄ませることを忘れずにいたいと思います。

天使たちは、御心にかなう人に平和があると告げました。平和の実現した世界、すなわち神の望まれる秩序が実現している完全な世界を生み出すことこそが、「御心に適う」ための私たちに与えられた使命ではないでしょうか。 御心に適うこととは、神が賜物として与えられた、この一人一人の小さないのちを、徹底的に大切にし、互いに助け合い、支え合いながら生きることに他なりません。

困難な社会の状況の中で、対立ではなく、排除ではなく、憎しみではなく、互いに理解を深め、支え合い、絆を強めあいながら、神からのたまものであるいのちがすべからく大切にされ、それぞれが豊かに生きることのできる世界を生み出して参りましょう。助けを求めているちいさな声に、耳を傾ける努力を怠らないようにいたしましょう。

幼子イエスの小さく輝く光。今宵のミサでその光を私たちの心にともし、暗闇の中でそれ光を輝かせて参りましょう。

|

2017年12月19日 (火)

東京に着座しました。みなさまに感謝。

Inst1702
12月16日、東京教区の大司教として着座式を無事終えることができました。着座式ミサには、事前の予想をはるかに超える二千人以上の方々が参加してくださり、司祭団も予想以上で入堂時に150人をはるかに超え、典礼担当者は司祭用のパイプいすの手配で大変な思いをされたと思います。また聖堂に入りきれずに、外のテントの中で参加されたり、ホールで参加された方々もおられました。寒い中、おいで下さり、本当にありがとうございます。(写真上は、ラテン語で任命書を朗読する教皇大使)

参加してくださった方々、各地からお祈りくださった方々、メッセージを寄せてくださった方々、本当にありがとうございます。また典礼や祝賀会を用意してくださった東京教区、特に関口教会のみなさまには、本当に感謝いたします。

着座ミサには駐日教皇大使や日本の司教団全員だけでなく、ソウルの大司教、アンドレア・ヨム枢機卿、韓国軍教区のフランシスコ・ザビエル・ユー司教、ドイツのケルン教区のウェルキ枢機卿様の名代として、補佐司教のドメニクス・シュヴァデラップ司教が参加してくださいました。

Inst1703
加えて、ガーナでわたしが働いていた30年前、一緒に働いていた仲間が三人、今度は三人とも司教として今回参加してくださったことは、本当に名誉なことです。当時、まだできたばかりだった教区の司教でもあり、現在は首都のアクラ大司教区司教である,チャールズ・パルマー・バックル大司教。わたしが働いていた小教区を管轄するコフォリデュア教区のヨゼフ・アフリファ司教。一緒の教会で助任をしていた同じ修道会、神言会の仲間ですが、ケタ・アカチ教区のガブリエル・クモジ司教の三人です。(上の写真は参加してくれたガーナの司教三人と一緒に。一番右端の司祭は、神言会のマーティン神父。わたしがガーナで働いていた頃、小学生でわたしの侍者をしていました。現在は神言会員で、名古屋におります。)

今回はそれに加えて、駐日ガーナ大使のパーカー・アロテイ氏ご夫妻が、ガーナの大統領からのメッセージを携えて参加してくださいました。感謝です。大使ご自身はバックル大司教と高校の同級生で、信徒の方です。ガーナをわたしの第二の故郷だと、大統領が言ってくださいました。8年間の山奥での司牧生活への最高の評価と、うれしく大統領メッセージを拝聴しました。

その他にも、神言会の副総会長ロバート・キサラ神父や、国際カリタスの聖座顧問モンセニョール・ピエール・チバンボ師など、多くの方が国外から駆けつけて下さいました。

Inst1701

司教の杖(バクルス)が岡田大司教様からわたしに手渡され、司教座に着座して、これで「多様性における一致」を掲げた、わたしの東京での旅路が始まりました。

即座に新しい動きがあることや大きな変革を期待するという声も聞こえてはおります。しかし、どうかそれには、わたしにもう少し時間を下さい。

わたしは12月16日付で、新潟教区の空位期間の教区管理者にも任命されました。一日も早く新しい司教が新潟教区に任命されるように努めますが、どれほどの時間がかかるのかは予想がつきません。その間、二つの教区の兼任となりますので、どうしても出だしはゆっくりとならざるを得ません。どちらの教区とも、事務局長を始め司祭団が協力体制を持って控えていますので、互いに協力しながら、司祭団の力を借りて、少しずつ進んでいきたいと思います。

どうかこれからも、みなさまのお祈りによる支えをお願い申し上げます。感謝のうちに。

|

2017年12月 9日 (土)

離任ミサ、そして沖縄に新司教

本日12月9日は、東京大司教への着座式の一週間前です。新潟教区では今日、まもなく新潟教区を離れるわたしのために、離任ミサを企画して下さいました。

今にも雪が降りそうな寒い土曜日でしたが、教区各地から多くの方が参加してくださり、新潟教会聖堂は200人を超える方々で一杯となりました。

また司祭団も、教区司祭団は他の先約があった数名を除いてほぼ全員が、また山形地区や秋田地区からも代表が駆けつけてくださいました。神言会からは管区長のジェブーラ神父が来て下さり、祭壇上では秋田の永山神父様と並ばれたので、新旧管区長のそろい踏みとなりました。ジェブーラ神父はポーランドから学生時代に来日され、わたしとは名古屋の神学院時代を一緒に過ごし、わたしの司祭叙階の日に助祭に叙階されました。また昨年司祭団の黙想会を指導していただいた縁で、サレジオ会の阿部神父さまもおいで下さいました。感謝です。

ミサ後には、センター二階で感謝の集いを開いていただき、多くの方々と挨拶を交わすことができました。また本当に文字通り山のように霊的花束をいただきました。感謝します。これからもどうかわたしがふさわしく司教職を果たすことができるように、みなさまのお祈りをお願いいたします。あと一週間で、新潟教区の司教座は空位となります。一日も早く、ふさわしい司教が任命されるように、お祈り下さい。

Wayne1104
さて教皇様は、先ほど、沖縄は那覇教区の押川司教様の定年による引退願いを受理され、その後任として、那覇教区で働かれるカプチン会のウェイン・バーント神父さまを、新しい那覇教区司教に任命されました。

ウェイン・バーント被選司教は、アメリカ合衆国出身で63歳。長年、さいたま教区や那覇教区で働かれている修道者です。日本の司教団に、海外出身の司教が加わるのは久しぶりで、直近では同じく那覇教区のレイ司教様(1972年に62歳で亡くなられています)以来のことになります。レイ司教様もカプチン会の修道者でした。

どうぞ新しい那覇教区の司教様のためにお祈り下さい。ご本人の写真の良いのが手元になかったのですが、上の写真は、2011年4月、東北の大震災後に初めて仙台で開催された仙台教区サポート会議に参加された時のウェイン・バーント被選司教です。

|

«国際カリタス理事会@バチカン