2019年4月18日 (木)

聖なる三日間の典礼@東京カテドラル聖マリア大聖堂

今年の御復活祭は次の日曜日、4月21日です。聖なる三日間の東京カテドラル聖マリア大聖堂での大司教司式の典礼開始の時刻は;

聖香油ミサ 午前10時半

聖木曜日主の晩餐 午後7時

聖金曜日主の受難 午後7時

復活徹夜祭(聖土曜日)午後7時

復活の主日 午前10時

パリの司教座聖堂であるノートルダム大聖堂が火災のため大きな損害を受けたことは,報道されているとおりです。日本の教会は、再宣教の開始からパリ外国宣教会の宣教師によって育てられた教会です。東京教区も土井枢機卿様が初めて邦人司教として任命されるまで、フランスから来られた宣教師の司教様がたによって,基礎を築いて頂きました。フランスの教会の兄弟姉妹の祈りと支援によって、私たちの教会は基礎を築き上げることができました。この歴史に対する感謝を心にとめながら、パリの、そしてフランスの信仰と文化と歴史のシンボルでもあるノートルダム大聖堂の悲劇を目の当たりにして衝撃を受けた多くの方々と心を合わせ、御父の癒やしの御手がさしのべられるように、祈りたいと思います。

司教協議会の会長である高見大司教様のメッセージは,中央協議会のホームページに掲載されています。私も、当日即座にパリの大司教様にお見舞いのメールを送り、昨日お返事も頂きました。現在のパリの大司教様とは、昨年の6月29日にバチカンで教皇様から一緒にパリウムを頂きました。

ノートルダム大聖堂はフランス政府の所有だと聞いていますので、どのような形で復興が進むのかわかりませんが、大切な心のシンボルを失ったフランスの兄弟姉妹のために、祈り続けたいと思います。

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2019年4月15日 (月)

受難の主日(枝の主日)@東京カテドラル

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聖週間がはじまりました。関口教会の10時のミサで、受難の主日の典礼を司式させていただきました。

ルルドの前に集まり、枝を祝福し、エルサレム入城の福音を耳にした後に、東京カテドラル聖マリア大聖堂の正面入り口を開け、皆で入堂しました。

Palm1906

この一週間は、信仰者にとって特別なときです。イエスの受難と死と復活がなければ、私たちの信仰はあり得ません。信仰の原点をあらためて見つめ直すときであります。歓喜の熱気の渦の中でエルサレムに迎え入れられ、その直後には友から裏切られる。その流れの中で、主イエスは聖体の秘跡を制定されました。弟子たちに『私の記念としてこれを行え』と述べられた主の思い。その切々たる思いは、書物の中に記された過去の記録ではなく、今まさに繰り返される現実であります。それを特にこの一週間で肌で感じたいと思います。主は私たち、一人ひとりに、切々と語りかけられています。

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とはいえ、学校は新学期がはじまったばかりですし、職場も新年度でばたばたしているかも知れません。時間がとれるのであれば、是非とも聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日の典礼に参加していただければと思います。関口教会では聖マリア大聖堂で、すべて大司教司式の典礼として、三日間とも午後7時から行われます。また聖木曜日(18日)には、午前10時半から、教皇大使も参加されて、聖香油ミサが行われます。どうぞおいでください。

様々な理由で時間がとれない場合でも、この一週間は、いつも以上に、主イエスの存在を意識して過ごされればと思います。私たちは、その主ご自身の苦しみによって、生かされているのだ。その死と復活によって、生きる希望を与えられたのだと、感謝する思いを、一日の中でのちょっとした瞬間に、心に思い起こしていただければと思います。せっかくの、一年に一度の、信仰の原点に立ち返るチャンスですから。

Palm1903

以下、枝の主日ミサの説教の原稿です。

「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と、集まっていた人々は一斉に叫んだ、受難の朗読にはそう記されていました。
一人の人間の生命を暴力的に奪ってしまえと主張するのですから、そう叫ぶ人々には、それ相応の憎しみや怒りの感情があってしかるべきだと思います。その日そこに集まっていた多くの人の心に、果たしてそんな深い憎しみや怒りの感情が存在していたのか。そもそも、イエスという人物を個人的に知っていたのか。イエスとの間に、そんな感情が芽生えるほどの人間関係があったのか。

私たちが聖書の物語から推測できるように、そこに集まった人たちの大多数には、イエスとの間に、これといった個人的な関係はなかったことでしょう。たまたまその場に居合わせて、騒ぎに巻き込まれただけかも知れません。多くの人々はその場で起きている状況に身を任せ、感情に翻弄されているだけ、それこそ「扇動」されているだけであります。皮肉にも、「民衆を扇動しているのです」とイエスのことを訴えていた当人たちが、かえって人々を扇動していました。

歴史を振り返ってみると、多くの人が何かしらの意見を表明するリーダーによって扇動されて、熱狂的な行動をとった事例は多々あります。そして今の時代にも、その危険性は十分に存在します。残念ながら扇動が生み出す熱狂は、時として暴力的な結末を生み出します。

人と人との関わりの中で、感情は生み出されていきます。具体的に人と出会い、意思を疎通し、様々なやりとりをすることで相互の理解を深め、人間関係を構築していきます。具体的な人間関係は、相手の心情、心持ちに対する思いやりの心を深めさせていきます。

残念ながら、どんどん便利になる現代社会は、たとえばコミュニケーションの手段としての電話ひとつにしても、便利になればなるほど、現実の人間関係よりも、仮想現実の中に私たちを引き込んでいき、たくさんの人を知っているようで、本当のところ互いをあまりよく知りもしないという、なんとも矛盾した現実を生み出しています。

携帯電話も最初はただ電話をかけるだけで、どこにでも持ち運べる電話機に過ぎませんでしたが、そのうちメールが使えるようになり、さらにはインターネットにもつながって、今ではスマートフォンとなりました。一昔前であれば、コンピュータでしかできなかったことが、手元の小さな「板」で、何でもできてしまう、確かに便利になりました。

コミュニケーションの手段が便利になったことで、私たちが手にしたものは多くあります。それは間違いありません。でも同時に、失ったものも少なからずあるように思います。

失ったものの筆頭は、皮肉なことに現実の人間関係ではないかと感じることがあります。

具体的な人間関係が希薄になった現実のなかで、私たちはよりいっそう孤独を深め、深まる孤独の中で自らの存在を守ろうとするがあまり、身勝手で自己中心になってしまった。そうではないでしょうか。残念ながら希薄になった人間関係の中に生きている私たちは、具体的な誰かとの関わりを失い、相手への思いやりの心を失い、そして簡単に扇動されるものとなってしまっているように感じます。

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扇動されて生じる熱狂は、あの日の夜のエルサレムでそうであったように、極端へと暴走し始めます。熱狂は時として悪の方向へと暴走します。ネガティブな暴走は、人の生命を奪います。あの日の夜のエルサレムでそうであったように。

ともに十字架につけられた二人の犯罪人の態度は、象徴的です。イエスをののしる犯罪人は、彼らを十字架につけた人々の熱狂の渦から逃れることができずに、自分が何を言っているのか理解しないまま、生命を失う道を歩んでしまいます。

しかしもう一人の犯罪人は、熱狂に飲み込まれることなく、冷静に自分自身を振り返り、自分がいったい何者であるのかをしっかりと理解しながら、イエスと具体的な人間関係を築きあげようとしたことで、永遠の生命への道を歩むことになりました。

私たちキリスト者は、今、どの道を歩もうとするのでしょうか。

エルサレムへ入城するために、子ロバを引いてくるようにとイエスは弟子に命じています。考えてみれば「主がお入り用なのです」といって勝手に連れてきてしまうのですから、かなり常識外れな行動です。しかし、救いの計画の成就のためには、人間常識を越えた行動、神の価値観に基づいた行動が不可欠であることを、この物語は教えています。

神が望んでおられる世界は、残念ながら具体的に実現してはおりません。少なくとも、今私たちが生きているこの世界が、理想的な世界だと自信を持って断言できる人はそれほど多くはないだろうと思います。そもそも基本中の基本である、神の賜物としての人間の生命が、その始まりから終わりまで、一つの例外もなく尊厳を守られる世界は、全く実現していません。世界は様々な理由を口実として見つけては、理想はわかるけれども現実はそんなに甘くはないのだなどといって、身勝手な道を歩み続けています。

そんな中で、イエスは、神の価値観を具体的に生きることは、この世界の様々な扇動に乗せられて、それに身を任せて熱狂することではないと教えます。たとえそれが人間の常識を越えていたとしても、神の価値観にとことんこだわって生きることが、大切であり必要だと教えています。

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私たちは、社会のそこここにある扇動の声に身を任せて熱狂することのないように、まず第一に、イエスとの個人的な人間関係を築き上げましょう。御聖体の秘跡のうちに、イエスとしっかりとした太い関係を築き上げましょう。キリストであるイエスは、書物の中に残された記憶ではなく、今生きておられる主だと私たちは信じています。

そして、私たち自身、教会共同体の中で、具体的な人間関係をしっかりと構築していきましょう。目に見える関係の中で、互いに耳を傾けあい、互いに理解を深め、互いに助け合い、互いにイエスの弟子であることを自覚しながら歩みをともにしていきましょう。たとえどれほど小さな声であったとしても、扇動された熱狂的な大声に負けることなく、神の望みをひるまず頑固に叫び続ける存在でありたいと思います。

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2019年4月10日 (水)

東京カトリック神学院の再出発

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4月3日は11時から、東京カトリック神学院の開校ミサでした。「開校」と言っても、神学院は以前からそこにありましたし、建物もそのままです。

もともと1929年に「東京公教大神学校」この地に創立されており、それが1947年に「東京カトリック神学院」となって、この上石神井の地にありました。九州の福岡には、1948年に創立された「福岡サン・スルピス大神学院」がありました。長年にわたり二つの神学校を持つことへの負担について、また日本全体の福音宣教と司牧というビジョンに基づいて話し合いを進めた司教団は、教皇庁福音宣教省の認可(2008年11月18日付)を得てこの二つを合同し、それぞれを「二つのキャンパスとする一つの神学院」として、2009年4月1日に「日本カトリック神学院」が開校しました。

合同したことは良かったのですが、同時に問題も見えてきました。これについて、詳しい解説が中央協のホームページにありますが(こちらのリンク)、問題となった部分を引用します。

『一つの神学院に二つのキャンパスという体制は、東西間に見えない壁があった日本の教会の交わりのために、また、交流が少なかった二つの神学院の伝統や教育法の融合のために有意義でしたが、一つの神学校とは言え、遠距離間に二つのキャンパスがあることで、予想以上に問題が生じました。
たとえば、

神学生が6年のうち2回キャンパスを移動するので、養成者と神学生との関わりが希薄化し、また、霊的同伴が一貫してできない。また、すべての学年で3学年離れている神学生同士が、6年間を通じて一度も生活を共にすることのない状況になってしまった。

各キャンパスが平均20人以下の人数の場合、各キャンパスでの共同体を構築する能力が低下している。

教員(講師)が遠方から来るため、集中講義が多くなり、教員と学生の負担が大きい。

二つのキャンパスの運営のため経費がかさむ。また、神学生と教師の移動にかかる時間と費用が大きい。

各キャンパスに最低5人の養成者が必要で、全体で10人の養成者の確保が容易ではない。

 

そのため、6年経過した2014年4月から、二つのキャンパス制の養成上の弱点を改善するため、二つのキャンパス制を見直し、キャンパスの統合を検討することになりました。そして、ほぼ4年をかけて縷々検討し審議を重ねました。』

そういうわけで、このたびあらためて東京と福岡に神学院を持つことになり、東京は、東京教会管区(札幌、仙台、さいたま、新潟、横浜、東京)と大阪教会管区(名古屋、京都、大阪、高松、広島)、福岡は長崎教会管区(福岡、長崎、大分、鹿児島、那覇)の諸教区による、「諸教区共立神学校」として福音宣教省の認可をいただきました。

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ちょうどバチカンの教皇庁聖職者省が、2016年12月8日に『司祭召命の賜物~司祭養成の為の基本綱要~』と言う指針を新たに示したこともあり、それに沿って日本の司祭養成の綱要も作成されました。今年はまた、司祭養成がこれまでの哲学2年、神学4年の都合6年からから、予科1年が最初に加わり7年と変更になる節目の年でもあります。その意味で、新たな一歩として、神学院は踏み出しました。なお東京教区からは、新たに松戸教会所属の田町さんが予科生として入学しました。

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開校ミサは、前田枢機卿が司式し、私が、風邪でほとんどかすれた声でしたが、ささやくように、説教をさせていただきました。以下、当日の説教原稿です。

教会は、いままさに危機的な状況に直面しています。残念ながら、教会が聖なる道から離れ、善なる存在とは全く異なる過ちを犯した性虐待の問題が次々と明らかになり、日本でも同様の事例があることも、明らかになっています。

教会において聖性の模範であるはずの聖職者が、全く反対の行動をとって多くの人の心と体を傷つけ恐怖を与えてきたことを真摯に反省し、私たちは被害を受けられた方々に、また信頼していた存在に裏切られたと感じておられる方々に、心からゆるしをこいねがわなくてはなりません。

教会が今直面する危機的状況は、偶発的に発生している問題ではなく、長年にわたり悪のささやきに身を任せて積み重なってきた諸々のつまずきが、いまあらわになっているのです。虐待の被害に遭われた多くの方が心に抱いている傷の深さに思いを馳せ、ゆるしを願いながら、その心の傷にいやしがもたらされるように、教会はできる限りの努力を積み重ねる決意を新たにしたいと思います。

そのような危機的な状況の中で、カトリック教会の司祭養成課程は、ある意味で注目を集めています。教会の内外から、司祭の養成には神学や聖書学の勉強だけではなく、カウンセリングの技能習得が不可欠だとか、性に関する知識を深めるべきだとか、聞こえてくる声には様々なものがあります。それはそうなのかも知れません。

先ほど朗読された福音には、湖で網を打っていたシモンとシモンの兄弟アンデレに対してイエスが、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたことが記されていました。

福音を告げしらせる者になるようにとの呼びかけに応えた二人にとって、それからの3年間ほどに及ぶイエスとの生活は、まさしく神学校での養成の期間だったのかも知れません。イエスと歩みをともにした弟子たちが、イエスの受難と死の時点で完成した福音宣教者となっていたのかと言えば、そうではなかったことを私たちは知っています。弟子たちは復活の出来事を体験し、聖霊を受けて強められ、福音宣教者としての完成を目指して生涯にわたる旅を続けました。

すなわち養成期間の終了は、その完成を意味していません。神学院の養成課程をすべて無事に終了したからと言って、その時点で私たちは完成した司祭となっているわけではありません。

司祭の養成は、神学院と名付けられた専門の学校で、ある一定量の知識や技能を身につけることによって完成するものではなく、生涯をかけて完成を目指して歩みを進める旅路であります。確かに、神学院修了時に完成した司祭が輩出されるべきなのだとするならば、あれもこれも神学院の課程に詰め込むべきだという考えは理解できます。でも司祭養成は、生涯をかけての旅路であり、神学院はどちらかと言えばその旅路を歩む術を身につける場であります。どうしたら、道を外れることなく、主にしたがって生きていくことができるのか、その道を見いだす術を身につける場であります。「私に従いなさい」と常に声をかけてくださる主の呼びかけに、耳を傾ける術を身につける場であります。私たちは、常に未熟な存在であることを心にとめて、謙遜のうちに歩みを進める術を身につけておかなくてはなりません。

昨年の世界召命祈願の日にメッセージの中で、教皇フランシスコは、「わたしたちは天から呼びかけている(神の)そのことばを聞き、識別し、生きなければなりません。そのことばは、わたしたちの能力を活かし、わたしたちをこの世における救いの道具にし、幸福の充満へと導いているのです」と述べられています。すなわち「聞き、識別し、生きる」ことが、召命を全うするために不可欠だと指摘されます。

その上で、まず聞くことについては、「主のことばと生き方に心の底から耳を傾ける心備えをし、自分の日常生活の隅々にまで注意を払い、さまざまな出来事を信仰のまなざしで読み解くことを学び、聖霊からもたらされる驚きに心を開く必要があります」と言われます。

また識別については、「わたしたち一人ひとりも霊的な識別、すなわち『人が、神との対話において、聖霊の声に耳を傾けながら、生き方の選択をはじめとする根本的選択を行う過程』を経て初めて、自らの召命を見いだすことができます」と言われます。

さらに生きることについては、「福音の喜びは、神との出会いと兄弟姉妹との出会いに向けてわたしたちの心を開きます。しかしその喜びは、ぐずぐずと怠けているわたしたちを待ってはくれません。もっとふさわしいときを待っているのだと言い訳をしながら、窓から見ているだけでは、福音の喜びは訪れません。危険をいとわずに今日、選択しなければ、福音の喜びはわたしたちのもとで実現しません。今日こそ召命のときです」と指摘されています。

私たちは、司祭職の中で使徒であり福音宣教者としての立場を忘れないために、旅路を歩み続けなければ成りませんが、そのときに常に人々の声に耳を傾ける人間であることが必要です。それは、私たちは一人ではなく、いつも人々から支えられているという謙虚さを身につけるためです。神学院の生活が、他者の声に、とりわけ弱い立場にある人の声に耳を傾ける術を身につけるものとなりますように。

また神学院の生活が、良い指導者に恵まれて、神の御旨を識別する術を身につけるものとなりますように。

そして神学院の生活が、自らの弱さを自覚させ、より一層神の助けと聖霊の導きに身をゆだねる謙遜さにおける勇気を身につける場となりますように。

東京カトリック神学院の新たな出発の上に、聖霊の導きと助けをともに願いましょう。

 

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2019年4月 3日 (水)

青年のためのシノドスを受けた使徒的勧告が発表されました。

昨年10月に開催された、青年のためのシノドス(日本からは勝谷司教が参加)を受けた、教皇様の使徒的勧告が発表されました。日本語聖式翻訳には少し時間がかかるかと思いますが、以下、その概要を、バチカンニュースの日本語版から抜粋して引用します。ニュースの全文は、このリンクです。また英語版の本文全文はこちらのリンクです。

教皇、若者テーマのシノドス後の「使徒的勧告」発表 (2019年4月2日記事から一部引用)

教皇フランシスコは、昨年の若者をテーマとしたシノドスの成果をふまえ、「使徒的勧告」を発表された。

教皇フランシスコは、若者をテーマとしたシノドス後の「使徒的勧告」を発表された。

「使徒的勧告・クリストゥス・ヴィヴィト」の公式発表をもって、その内容が明らかにされた。

「クリストゥス・ヴィヴィト」のタイトルは、序文の書き出しの言葉、「キリストは生きておられます」から採られている。

書き出しで教皇はこのように記される。

「キリストは生きておられます。キリストはわたしたちの希望、この世界で最も美しい若さです。キリストが触れるすべてのものは、若返り、新たにされ、いのちにあふれます。ですから、わたしは一人ひとりの若いキリスト者にこの最初の言葉を向けたいのです。キリストは生きておられ、あなたが生きることを望まれる、と!」

第1章「神のみことばは若者について何を言っているか?」では、教皇は旧約と新約聖書の記述を豊富に引用しつつ、神が若者をどのように見ておられるかを考察。

第2章「イエス・キリストは常に若い」において、教皇はイエスご自身も青年時代を過ごされたことに注目。若きイエスと家族や人々との関係を考えることが、青少年司牧に役立つと助言している。また、教皇は、「教会の若さ」にも触れ、教会が過去に留まることなく、自由であることを願われている。

第3章「あなたがたは、神の現在である」で、教皇は、若者たちは未来だけでなく、まさに今現在を生きていることを強調。

第4章「すべての若者への偉大な知らせ」では、教皇は、何にもまして大切な3つの偉大な真理を若者に告げることを望まれている。その真理とは、1.「神はあなたを愛しておられる」、2.「キリストはあなたを救う」、3「キリストは生きておられる!」である。

第5章「青年期の道のり」では、福音に照らされた若者たちがどのように青年期を過ごすべきかを考える。

第6章「ルーツをもった若者」で、教皇は、「ある時、若木が希望の象徴のように伸びているのを見たが、嵐の後に見ると、倒れて枯れていた。それはよく根を張っていなかったからである」と述べ、ルーツを持たずして未来はありえず、世代間の断絶は世界によい結果をもたらさないという確信を表している。

第7章「若者の司牧」において、社会・文化的な変化に絶えずさらされ、時に青年たちの不安に回答を与えられない青年司牧を見つめた教皇は、若者たち自身がその主役となり、司牧者らの指導のもとに、創造的で大胆な新しい道を切り開いていくことを望まれた。

第8章「召命」で、教皇は、神が一人ひとりに望まれる素晴らしい計画に触れ、特に基本として、家庭と仕事の形成を挙げ、結婚し、家庭を持つことを恐れないよう励ましている。同時に、教皇は、神に奉献する生き方をも示している。

最終章である、第9章「識別」では、教皇は、自分の召命を発見するために必要な、孤独と沈黙に触れている。

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北町教会と茂原教会

 

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3月24日の日曜日は、東京都内の北町教会へ司牧訪問に出かけました。関口の司教館からは車で30分ほどの距離ですが、当日は近隣でマラソン大会があり、道路が規制されていたこともあり、事前にグーグルマップで写真を見ながら道を確認していたとおりには走れず、結構道幅の狭い裏の満ちに入り込み、このまま車の両サイドをするのではないかと心配しながら北町教会の横に無事到着。

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北町教会の主任は、教区司祭で教会法の先生でもある田中昇神父様。堅信の準備をしてくださり、この日のミサで11名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

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ミサ後には、祝賀会も催され、その中では、皆さんからの質問コーナーもありました。子どもたちから、『日曜は何をしてますか』なんて言う質問もいただいて、そりゃ日曜はこうやって教会に出かけてますよとも思いましたが、思いの外、東京では教区や宣教協力体の合同の行事が午後にあることが多く、そういえば午前中はゆっくりしていることもあるなと思いながら、『時間があるときは、ぼーっとしてます」とお答えしました。ぼーっとする時間も必要です。

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準備してくださった皆さん、ありがとうございます。大きくもなくちょうど良いくらいのサイズの共同体です。互いの絆を深めながら、良い呂委教会共同体を育ててくださいますように。

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翌週の3月31日は、千葉県の茂原教会で四旬節の黙想会を行いました。茂原教会は千葉県でも九十九里浜に近い方面にありますので、かなりの距離です。初めてでしたのでナビの言うとおりに出かけましたら、まずはレインボーブリッジを通り、ディズニーランドの横を過ぎて、いくつかの自動車専用道を経て茂原に到着。1時間40分ほどでした。

主任司祭の安次嶺神父様は、現在は療養中で不在です。安次嶺神父様は、以前新潟教区でも働いてくださいました。近くに桜のきれいな公園のあるすてきな場所に教会はありました。

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9時半から講話を一つ、一時間ほど。実は、この直前にウィーンに会議で出かけていましたが、そこでの寒さと飛行機の機内の乾燥などで風邪を引き、体調は今ひとつでしたが、それ以上に、この日は途中から声の出が悪くなりました。ゆるしの秘跡後、11時からミサ。しっかりと歌いました。そして昼食会で質疑応答。ここまで来たら、声が出なくなりました。その後、声はますます出なくなり、月曜日にはまったくアウト。これを書いているのは水曜日の夜ですが、ほんの少し戻ってきたところ。まだ声がまともに出ていません。困りました。

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千葉県内の教会は、一つ一つの守備範囲が広い。茂原教会も、かなり広い範囲から信徒の方がおいでになるようです。ここもまたちょうど良いくらいのサイズの共同体ですから、これからさらに結びつきを深めて良い教会共同体を育てられるように願っています。迎える準備をしてくださった皆さんありがとうございます。

以下、すでに4月になりましたので、4月の主な予定です。

4月3日(水) 東京カトリック神学院開校ミサ (上石神井11時)

4月4日(木) 常任司教委員会 (潮見10時)

4月6日(土) 新潟清心女子中学高校入学式 (新潟)

4月8日(月) 東京教区司教顧問会など (関口)

4月14日(日)受難の主日ミサ (東京カテドラル10時)

4月15日(月)ロゴス図書館会議 (潮見)

4月17日(水)新潟教区聖香油ミサ (新潟)

4月18日(木)東京教区聖香油ミサ (東京カテドラル10:30)、主の晩餐ミサ (東京カテドラル19時)

4月19日(金)聖金曜日主の受難 (東京カテドラル19時)

4月20日(土)復活徹夜祭 (東京カテドラル19時)

4月21日(日)復活祭 (東京カテドラル10時)

4月22日(月)カリタス南相馬法人設立総会 (南相馬)

4月23日(火)カリタスジャパン会議 (潮見)

4月27日(土)イエズス会黙想の家60年ミサ (上石神井11時)

4月28日(日)千葉中央宣教協力体ミサ (鎌取12時)

 

 

 

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2019年4月 2日 (火)

3月24日、東京カテドラルでの晩の祈り

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毎週日曜日の午後5時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、晩の祈りが捧げられています。構内に修道院のあるシスター方と一緒に、教会の祈り(時課の典礼)を唱え、また司式する司祭が、説教も行います。お時間に都合がつく方は、どうぞ毎週日曜夕方の晩の祈りにご参加ください。

3月24日の日曜日夕方5時からは、私が司式して、性虐待被害者のための祈りと償いの日の晩の祈りを捧げました。以下、当日お話しした説教の原稿です。

この世において聖なる存在、善なる存在であるはずの教会は、残念ながら時にその道からはずれ、悪のささやきに身をゆだねてしまうことすらあります。聖なる存在、善なる存在は、常に宣教を妨げようとする悪のささやきにさらされます。その最前線で防波堤となり、悪への傾きから教会を護らなくてはならない牧者。その牧者たるべき聖職者が、自らが護らなくてはならない人々、とりわけ年齢的にも立場的にも弱い人々へ、性的な虐待をすることで、教会を悪のささやきにゆだねてしまった事例が、全世界であまりにもたくさん報告されております。

米国での聖職者による性的虐待問題の報告書や枢機卿の辞任、オーストラリアやフランスなど、各地で自らの犯罪行為や事実の隠蔽に関わったとして、聖職者がその責任を問われています。残念ながら、教会が聖なる道から離れ、善なる存在とは全く異なる過ちを犯した問題が次々と明らかになり、日本でも同様の事例があることも、明らかになっています。

教会において、聖性の模範であるはずの聖職者が、全く反対の行動をとって多くの人の心と体を傷つけ恐怖を与えてきたことを、特に私たち聖職者は真摯に反省しなければなりません。被害を受けられた方々に、また信頼していた存在に裏切られたと感じておられる方々に、心からゆるしをこいねがいます。

教会が今直面する危機的状況は、単に偶発的に発生している問題ではなく、結局は、これまでの長年にわたる教会の歴史の積み重ねであり、悪のささやきに身を任せて積み重なってきた諸々のつまずきが、あらわになっているのだろうと思います。教皇様を頂点とする教会は、結局のところ、この世における巨大組織体ともなっています。組織が巨大になればなるほど、その随所で権力の乱用と腐敗が生じます。この世の組織としての教会のあり方をも、私たちは今、真摯に反省し、組織を自己実現のためではなく、神の国の実現のために資する共同体へと育てていかなければならない。そういう「とき」に、私たちは生きているのだと感じています。

そして、虐待の被害に遭われた多くの方が心に抱いている傷の深さに思いを馳せ、ゆるしを願いながら、その心の傷にいやしがもたらされるように、教会はできる限りの努力を積み重ねる決意を新たにしたいと思います。

同時に、積極的で真摯な対応を怠り、事態の悪化を漠然と看過してきた私たち司教も、その怠りの罪を反省し、真摯に対応していく決意を新たにしたいと思います。

私たちは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言うイエスの言葉のうちに、すべての人、とりわけ弱い立場に置かれた人のうちに主がおられると信じているはずです。虐待の加害者は、残念ながら、被害者の方の心に思いを馳せることができなかっただけでなく、そこにおられる主ご自身をも傷つけてしまいました。

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教会は、「キリストの光をもってすべての人を照らそうと切に望む」存在であるはずです。教会は、世界にいつくしみを伝え、それを生きる姿で具体的に表す存在であるはずです。教会は、「神との親密な交わりと全人類一致のしるし、道具で」あるはずです。

しかし教会は、聖職者自身の犯した罪によって、その輝きを失い、いつくしみを表すことなく、自ら一致ではなく混乱する姿をさらけ出してしまっています。

現代社会こそ、暗闇に輝く光を必要としています。神が賜物として与えられた人間のいのち、神の似姿として尊厳を与えられた人間のいのちが、社会の様々な現実の中で危機にさらされている様々な現実を目の当たりにするとき、まさしくわたしたちは暗闇の中に生きていると感じさせられます。

その暗闇の中で、教会こそは、キリストの光を輝かせる存在でなくてはならない。果たしてその役割を真摯に果たしているのだろうか。

また現代社会の様々な現実を客観的に見るならば、私たちは一致と言うよりも分裂の中に生きていると感じることがあります。教皇様がしばしば指摘されるように、現代社会には排除の論理が横行し、異質な存在を排斥し、時に無視し、自分を中心とした身内だけの一致を護ろうとする傾向が見受けられます。教皇様は、「廃棄の文化」と言う言葉さえ使われます。弱い立場にある人、助けを必要としている人に手を差し伸べるのではなく、そんな人たちは存在しないものとして、社会の枠から追い出されてしまう、捨てられてしまう。

護るべきいのちの尊厳を、自分中心の考えから、ないがしろにしてしまった聖職者の存在と、その逸脱を許してしまった教会組織が、いのちの尊厳を語る教会から信用と信頼を失わせてしまっています。

2月21日から24日まで、「教会における未成年者の保護」をテーマに、世界中の司教協議会会長が呼び集められ、バチカンで会議が行われました。その閉幕にあたりささげられたミサで教皇様は、「人々の魂を救いに導くために神から選ばれ、自らを奉献した者が、自分の人間的弱さや病的なものに打ち負かされ、無垢な子どもたちさえ犠牲にしてしまう、この虐待問題に、わたしたちは悪の手を見ることができる」と指摘されました。

その上で、「人々の正当な怒りの中に、教会は、不正直な奉献者に裏切られた神の怒りを見ている」と厳しく指摘し、この問題に真摯に取り組んでいく姿勢を強調されました。

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教皇フランシスコは、教会の聖職者による性的虐待の問題、特に児童に対する問題に教会が全体として真摯に取り組み、その罪を認め、ゆるしを願い、また被害に遭った方々と教会がともに歩むことを求めておられます。またそのために、特別の祈りの日を設けるように指示されました。日本の司教団は、2016年12月14日にメッセージを発表し、その中で日本における「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を、四旬節・第二金曜日とすることを公表しております。2019年にあっては、3月22日(金)がこの「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたります。

聖職者が自らの生き方を顧み、無関心や隠蔽も含め、その罪を真摯に認めなくてはなりません。被害を受けられた方々に、神のいつくしみの手が差し伸べられ、癒やしが与えられるように、祈るだけではなく、教会として具体的な対応をとるように努めたいと思います、被害を受けられた世界中の多くの方々に、心から許しを願います。

そして、教会のために、また弱い人間である司祭たちのために、祈りをお願いいたします。

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2019年3月23日 (土)

カリタスアジアの次期総裁選出

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3月21日から22日にかけてカリタスアジアの総会がバンコクで開催され、次期カリタスアジア総裁に、バングラデシュ出身の信徒であるベネディクト・アロ・ロザリオ氏を選出しました。総裁の任期は4年ですが、私が務めている現在の二期目が5月に満了となりますので、5月末にローマで開催される国際カリタスの総会で同意を得てから、ロザリオ氏に引き継ぐことになります。

1956年生まれのアロ・ロザリオ氏は、1983年にバングラデシュ司教協議会の正義と平和部門に就職し、その後奨学金を得て、米国で修士号、さらに英国で開発学の博士号を取得。そのためカリタスの友人たちの間では親しみを込めて、「ドクター・アロ」と呼ばれています。1987年に、司教団の要請で正義と平和部門からカリタスバングラデシュに異動したドクター・アロは、定年までカリタスバングラデシュの責任者を務めてこられました。現在は、国際カリタスのいくつかの委員会の委員を務めています。

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カリタスアジアは1999年に独立した組織を持って自ら運営を始めましたが、これまで総裁はすべて司教が選出されてきました。99年の初代はスリランカのフェルナンド司教、その後がタイのサマンチット司教、そしてインドのアンブローズ司教。2011年には私が選出され2期務めました。今回初めて信徒の方を総裁に選出しましたが、ドクター・アロは開発の専門家であるとともに深い信仰をもったキリスト者でもあります。さらに充実したアジアのカリタス組織に育っていくことが期待されます。

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また同時に行われた選挙で、カリタスアジアの運営に当たる地域委員会には、韓国、モンゴル、フィリピン、ネパールのカリタスがそれぞれ選出されました。また事務局長のエリアザル・ゴメス氏も再任されました。

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新潟にて@2019年3月17日

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3月17日の日曜日、新潟教会では二つの大切な行事がありました。

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まず主日の午前9時半のミサでは、新潟教区の唯一の神学生である岡秀太さんの、朗読奉仕者選任式が執り行われました。このまま順調に養成が進めば、来年のこの時期には祭壇奉仕者、その次の年の今頃には助祭叙階式とつながります。岡神学生のためにお祈りください。

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そして午後1時半からは、新潟教区における性虐待被害者のための祈りと償いの日の行事とミサが行われました。司教協議会のこどもと女性の権利擁護のためのデスク責任司教である名古屋の松浦司教と私の挨拶の後、こどもと女性の人権擁護デスクの事務局担当者からの解説があり、その後、私の司式で新潟地区の司祭も参加してミサが捧げられました。

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教会において、聖性の模範であるはずの聖職者が、全く反対の行動をとって多くの人の心と体を傷つけ恐怖を与えてきたことを、特に私たち聖職者は真摯に反省しなければなりません。被害を受けられた方々に、また信頼していた存在に裏切られたと感じておられる方々に、心からゆるしをこいねがいます。いのちの尊厳を護ることを常々強調してきた教会が、弱い立場にある人たち、特に未成年のこどもに対して、このような行為に及んだことは、いのちの尊厳に対するダブルスタンダードと批判されて当然であると思います。


聖職者による性的虐待の被害に遭われた多くの方が心に抱いている傷の深さに思いを馳せ、心からゆるしを願いながら、その心の傷にいやしがもたらされるように、教会はできる限りの努力を積み重ねる決意を新たにしたいと思います。


同時に、積極的で真摯な対応を怠り、事態の悪化を漠然と看過してきた私たち司教も、その怠りの罪を反省し、真摯に対応していく決意を新たにいたします。


私たちは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」というイエスの言葉のうちに、すべての人、とりわけ弱い立場に置かれた人のうちに主がおられると信じているはずです。虐待の加害者は、残念ながら、被害者の方の心に思いを馳せることができなかっただけでなく、同時にそこにおられる主ご自身をも傷つけてしまったことを、自覚しなければ成りません。


新潟教区では対応委員会がすでに設置され検討を重ねてきた結果、現在は相談窓口を準備中で、まもなく窓口について教区からお知らせできる予定です。


なお東京教区でもすでに対応の窓口がありますが、4月号の東京教区ニュース2ページ目に、対応窓口の電話番号を掲載してあります。なおこの番号は教区本部の番号で、まず教区の女性職員が相談のお電話に対応し、専門にお話を伺う委員につなぐようにしております。専門にお話を伺う委員へつなげるご案内をいたします。

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2019年3月11日 (月)

3月11日、あれから8年。

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2011年3月11日に、東北の地を巨大地震と津波が襲ったあの日から、8年となりました。あらためて、亡くなられた方々の永遠の安息のために祈ります。

東京カテドラルでは、本日午後2時半から、追悼のミサが行われました。カリタス南相馬で支援活動に携わっているCTVC・カトリック東京ボランティアセンターが中心となって企画してくださいました。

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2時半から現在の被災地の映像を見ながら音楽とともに黙想し、2時46分には黙祷。そしてミサが始まりました。ミサは私が司式し、南相馬で活動されている幸田名誉司教も共同司式に加わりました。ミサ後には幸田名誉司教から、現在の活動についてのお話もありました。

たくさんの方に参加頂き、祈りをともにしていただいたことに感謝いたします。

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以下本日のミサの説教の原稿です。

東北地方一帯に巨大な地震の被害をもたらし、特に太平洋沿岸においては想像を超える津波を発生させた、東日本大震災。日本だけにとどまらず世界中に衝撃を与えた2011年3月11日のあの日から、今日でちょうど8年となりました。あらためてこの大災害で亡くなられた多くの方々と、この8年間の復興の過程で亡くなられた方々の永遠の安息を祈りたいと思います。

8年という時間は、ある人にとってはゆっくりと進んできた時間であったと思いますし、ある人にとってはあっという間の8年だったのかも知れません。いずれであったとしても、あの巨大な災害の体験とその記憶から、またその体験から生まれたそれぞれの心のおもいから、新たな歴史を刻む一歩を始めるためには、短い時間であったと感じています。歴史に残る巨大災害は大きな爪痕を残し、そのときまで、その地にあって、普通の生活を営んでこられた方々の、その普通の生活を大きく変えてしまいました。以前そこにあった普通の生活を取り戻すためには、時間と、尋常ならざる心のエネルギーが必要だと感じます。

政府の復興庁の統計によれば、今年1月の段階で、いまだに5万人を超える方々が避難生活を送られているといいます。これほど多くの方が、8年という時間が過ぎても、まだ普通の生活を取り戻すことができないほどの負のエネルギーが発生したのだという事実を、私たちは心にとめなくてはなりません。

とりわけ、原子力発電所事故の影響が残る福島県内では、復興の歩みにはさらなる時間が必要だと、支援に関わる多くの方が指摘されています。

数日前のニュースでは、原発の廃炉作業の行き着く先が、普通の廃炉作業のような更地に戻すことなのかどうか、そのイメージさえ現段階では描けていないと報道されていました。人間が普通に把握できる時間の流れを遙かに超えるほどの影響を及ぼす事故であったことを、あらためて実感させられます。人間がその限界をわきまえることなく、能力を超えた事柄に手を出してしまったのではないかと考えさせられます。

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今年の四旬節メッセージの中に、次のような教皇フランシスコの言葉があります。
「神との交わりが絶たれれば、園が荒れ野と化したように(創世記3・17-18参照)、人間と、そこで生きるよう人々が招かれている環境との間の調和的な関係も傷つけられます。罪は、人間に自分のことを被造物の神、絶対的な君主であるという考えを抱かせ、たとえ他者や被造物を傷つけても、創造主のみ旨のためではなく自分の利益のために被造物を利用するよう人間を仕向けます」

自然災害がきっかけになった事態であるとはいえ、私たちが「創造主のみ旨のためではなく自分の利益のために被造物を利用」しようとしたことは否めず、神との交わりを絶ってしまった人間の傲慢さが私たちうちにないか、過去を振り返るようにと求められていると感じます。

福島に関連しては、公式の統計には表れない避難者の方々も全国に多数おられると推測されます。そういった方々を含め、普通の生活がある日突然奪われてしまい、人生の道筋が予想もしなかった困難な道のりとなってしまった多くの方が、多数おられることを忘れないでいたいと思います。困難に直面する多くの方々が、忘れ去られることのないように、教会はその全国的なつながりを生かしながら、地道な支援を続けていきたいと思います。

私たちの信仰は、絶望の淵から必ずや新しい希望が生み出されることを教えています。最高の指導者であったイエスが十字架で殺されていったという出来事を体験し、絶望の淵にあった弟子達に、イエスはご自身の復活の栄光を示して、その絶望の暗やみから新しい生命への希望が生まれることを示されました。私たちの信仰の基本です。

キリストにおけるこの希望を、社会の直中で告げしらせる責務を教会は担っています。様々な困難を抱え、その理不尽さにうちひしがれている方々に、希望の光へと続く道を示す責務を教会は担っています。私たちが告げるべき福音は、まさしくすべての人にとっての「喜びのたより」でなければなりません。具体的な喜びの光でなければなりません。

残念ながら、このところ、カトリック教会は世界的にみて、大きな批判を受ける対象となってしまっています。本当は、希望の光を掲げるはずであるのに、弱い立場にある人を虐げ苦痛を与えてきた事実が、大きな批判を受けています。加えてそういった行為が、模範となるべき聖職者によってなされてきたことに、私をはじめとした聖職者は心から許しを願い、反省をしなければ成らないと思います。

自らまいた種ではありますが、教会の存在を大きく傷つけてしまったことを猛省しながら、教会が本来行うべき業をあらためて自覚し、その業に真摯に打ち込んでいくことが、いま重要だと思っています。

だからこそ、私たちの国を襲ったこの大災害に直面し、不安と悲しみの淵に追いやられた多くの被災者の方々と歩みを共にしながら、教会は希望のともしびを掲げ続けたいと思います。喜びのたよりを告げしらせたいと思います。自らの言葉と行いで、福音を証ししていきたいと思います。そうしなければ、キリスト者と呼ばれる資格はありません。

私たちを愛してくださった神が、自らを犠牲にして新しい生命への希望を与えてくださったのですから、その希望の光を多くの方に分かち合うのは私たちの責務です。とりわけ、困難に直面する多くの方に、光から遠ざけられている多くの人に、出かけていってその光を届けようとするのは、私たちの使命です。

あの大震災から8年目となる本日、あらためてキリスト者としての私たちの使命を自覚し、いのちの主の希望の光を高く掲げ、困難な道を歩み続ける方々と、歩みをともにし続ける決意を新たにいたしましょう。

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2019年3月 6日 (水)

灰の水曜日@東京カテドラル

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3月6日は、灰の水曜日です。四旬節がはじまりました。40日間を通じて信仰の原点を振り返り、キリスト者のあり方をより深く追求し、ふさわしい準備の上で、御復活祭を迎えたいと思います。

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今日の午前10時の東京カテドラル聖マリア大聖堂のミサは、私が司式し、折から東日本大震災復興支援のチャリティーコンサートのグループにイタリアから同行しておられるフランチェスコ・モンテリージ枢機卿も、一緒に司式に参加してくださいました。

モンテリージ枢機卿は、以前は駐韓国教皇大使なども務められた外交官で、その後バチカンで働き、サンパオロ大聖堂の主席司祭を務めておられました。御年84歳で引退されておられますが、ますますもってお元気で、このチャリティーコンサートには最初から賛同しておられ、以前にも来日されています。

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以下、本日のミサの説教の原稿です。

わたしたちが信仰者として生きるとは、いったいどういうことなのか。教会は今、この大きな問いかけに直面しています。残念ながらその主な原因は、わたしたち聖職者の行いにあります。

米国やラテンアメリカ、ヨーロッパ諸国をはじめとして、その数年間、聖職者による未成年への性的虐待の問題が次々とあかされて、さらにはこの小さな教会である日本でも、同様の問題があることが明らかになっています。今、その問題を避けて教会を語ることはできません。

2月21日から24日まで、「教会における未成年者の保護」をテーマに、世界中の司教協議会会長が呼び集められ、バチカンで会議が行われました。その閉幕に当たりささげられたミサで教皇様は、「人々の魂を救いに導くために神から選ばれ、自らを奉献した者が、自分の人間的弱さや病的なものに打ち負かされ、無垢な子どもたちさえ犠牲にしてしまう、この虐待問題に、わたしたちは悪の手を見ることができる」と指摘されました。

その上で、「人々の正当な怒りの中に、教会は、不正直な奉献者に裏切られた神の怒りを見ている」と厳しく指摘し、この問題に真摯に取り組んでいく姿勢を強調されました。

本来教会は、社会における道徳的権威として、また倫理的信頼性に足る存在として、宗教の枠組みを超えて道しるべとなるべき存在です。それが、指導者であるはずの聖職者によるこのような問題を起こす体質であったことを真摯に反省し、虐待を受けた被害者の方々に誠実に関わっていかなければならないと、痛感しています。

パウロはコリントの教会への手紙の中で、「わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」と述べています。さらには、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」とも述べています。

四旬節は、まさしくこの点を自らに問いかけ、神の前で誠実な僕であるのかどうかを振り返るときでもあります。果たしてわたしたちは、それぞれに与えられた神からの恵みを十分に生かして、キリストの使者としての務めを果たしているのかどうか。

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振り返るときに、心にとめておかなくてはならないことがあります。それは本日の第1朗読に記されていた、言葉です。預言者ヨエルは、「衣を裂くのではなく、おまえたちの心を引き裂け」と、主である神の言葉を伝えます。

わたしたちは、人間ですから、それぞれが心の中に承認欲求のような感情を抱えています。誰かに認められたい。それ相当に評価されたい。また、自らの望みを実現したいという、自己実現への欲求もあります。当たり前のことです。

信仰者として生きていくときに、わたしたちは本来、「キリストの使者としての務め」に重心を置いていかなければならないはずなのですが、どうしてもわたしたちの弱さは、承認欲求や自己実現へとその重心を引きずり込もうといたします。その生き方をイエスは、「偽善者たち」と指摘します。偽善者とは、すなわち自分の欲求に重心を置いて生きている人、自分中心に世界を回そうとする人であります。

自分の欲求に重心を置くときに、結局わたしたちは、教皇の言われる「悪の手」に身をゆだねてしまう可能性があるのです。本来「キリストの使者」として果たすべき、社会の現実にあって神のいつくしみを言葉と行いであかしし、その光を輝かせるという大切な働きを忘れ去り、周りの人々の心にまなざしを向けることなく、欲望の赴くままに道を踏み外してしまいます。

ヨエルの預言は、わたしたちにこう語りかけています。
「あなたたちの神、主に立ち返れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、いつくしみに富み、くだした災いを悔いられるからだ」

何度も何度も失敗を繰り返し、道を踏み外し、自分中心に生きようとするわたしたちに、預言者は、何度も何度も、神のいつくしみに立ち返れ、立ち返れ、と呼びかけるのです。

私たち信仰者は、そして特に今の時、私たち聖職者は、この四旬節にその生き方をあらためて見直し、踏み外した道から、愛と希望の道へと立ち返る努力をしなければなりません。

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四旬節の始まりに当たり、教皇フランシスコは、ローマの教会への手紙8章19節を引用して、「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」と題したメッセージを発表されています。

その中で、教皇は「神の子として生きていなければ、わたしたちはたびたび隣人や他の被造物に対して――自分自身にさえ――破壊的な態度をとり、すべてを自分の意のままに利用できるという考えを、多かれ少なかれ抱いてしまいます。それにより、節度のない行いが横行し、人間の条件と自然を尊ぶことからくる制約を逸脱した生活様式が現れ、歯止めの利かない欲望に従うようになります」と、あらためて指摘されています。

その上で、「復活祭への歩みは、過越の神秘の恵みの豊かさを余すことなく享受するために、悔い改め、回心、ゆるしを通してキリスト者としての顔と心を取り戻すようわたしたちを招いています」と指摘され、すべての被造物の前でおごることなく、謙遜に生きるようにと呼びかけられます。

この説教の後、わたしたちは灰を額にいただきます。灰を受けることによって、人間という存在が神の前でいかに小さなものであるのか、神の偉大な力の前でどれほど謙遜に生きていかなくてはならないものなのか、心で感じていただければと思います。

神の前にあって自らの小ささを謙遜に自覚するとき、私たちは自分の幸せばかりを願う利己主義や、孤立願望や自分中心主義から、やっと解放されるのではないでしょうか。そのとき、はじめて、キリストの使者として生きる道を、少しずつ見いだしていけるのではないでしょうか。

神は忍耐を持って、私たちが与えられた務めを忠実に果たすことを待っておられます。キリストの使者として生きる覚悟を、この四旬節に新たにいたしましょう。

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