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2006年3月25日 (土)

四旬節第四主日

イエス・キリストにおける信仰の根幹には、当然いくつかの重要なポイントがあるのですけれど、その中でもひとつ、自己決断という要素が、とても大切だと思うのです。救いは神の愛にもとづく無償の「めぐみ」であるということ、そして我々が勝ち得る類のものではなく、徹底的に与えられるものであるということ。そう記しているこの日曜の第二朗読の言葉を噛みしめながらも、でも、その与えられる「めぐみ」を選び取るのは、最後は私たち自身であることを自覚したいと思います。神が用意したものを選び取るのかどうかは、私たちの自己決断にかかっているということは、要は、誰からも強制されるものではない、一人ひとりの自由意志の発露として決断するのです。私は、自分が必ずしもいつもそうできているとは思わないのです。けれど、何か行動や選択を強制される事が好きではないですし、「みんなが」という言葉に付いていくのもあまり好きではありませんから、このイエス・キリストの信仰における、自分で決めるという姿勢が、ありがたいと思っています。信仰は強制できる類のものではありませんから。

ヨハネ福音は、冒頭からそうであるように、今日の福音でも、光と闇の対峙を強調します。つまり私たちの前には、光と闇が用意されていて、どちらをとるかの選択が任されているということです。そしてその選択の結果どうなるのかを裁かれるのではなく、選択それ自体が裁きとなるとまでいいます。選択の結果に責任をとって裁きを受けるのではなく、選択自体が裁きとなるというのです。そうであればこそ、闇に輝く光とは何であるのか、懸命になって探りたいと思います。本当ならば光ははっきりと分かる代物のはずです。ところが、闇にすむ民の目は、闇に慣らされていて、光がまぶしすぎるのかもしれません。光と分かっていながら、まぶしさにたえきれずに、闇に戻ってしまうのかもしれません。しっかりと光を見据えるために、福音にあるように、「真理を行うもの」となる努力をしたいと思います。

四旬節も第四主日となりました。どうぞ良い日曜日をお過ごし下さい。

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