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2006年4月 2日 (日)

あれから一年

 前教皇ヨハネパウロ二世が亡くなられて、今日4月2日で一年が経ちました。思い返してみても力に満ちあふれたリーダーであったと思います。すでに聖人の呼び声も高く、列福されるのも時間の問題かもしれません。後生の歴史に名を残す大教皇でした。どうぞ祈りのうちに、ヨハネパウロ二世をしのび、お祈り下さい。

 四旬節も第五主日となりました。あと一週間で、聖週間が始まります。

 何の罪もない幼い子供が、全く面識のない男性に、しかも今のところ何一つ明確な理由がないままに、マンションの15階から突き落とされて亡くなるという、何とも理不尽な事件が起こりました。犯人と目される人物が逮捕されたものの、残された家族の方々の無念さは尽きることがないでしょうし、周囲の人たちにとっても、理解の範疇を超えた出来事が身近に起こり、決して安心することが出来ない日々が続いていることだと思います。しかしそれよりも何よりも、殺されてしまった幼子自身の心を思うとき、なぜそうなったのかも分からないまま味わった、一生を終えていくことの悔しさと恐怖。その心に思いを馳せて、涙せずにはいられません。理不尽な出来事は、なぜそうなるのかという理屈が全く分からないために、同様の事柄は誰にでも起こる可能性があるという恐怖を抱かせてしまいますから、目に見える形で犯人が捕まったとはいえ、多くの人の心の底に、「得体の知れない恐怖」の種を蒔いてしまいます。そして「得体の知れない恐怖」は、疑心暗鬼を生み出すだけです。

この理不尽な出来事も、人間の仕業である限りにおいては、何か犯人の心にはその人なりの理由があるのかもしれません。でもそれはあまりに身勝手で、あまりに内向きです。

 四旬節第五主日にあたり福音は、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである・・・」という有名なヨハネの一節を朗読します。イエスが求める信仰は、徹底的に外向きの信仰です。種の内にこもり、自分のためだけの信仰を守り、自分のためだけに生きるのであれば、それはそのまま失われていく種です。「自分の命を愛するものは、それを失う」とまで言われます。

 自分勝手な理由から、罪もない他人の命を奪う心。その心の思いは形を変えて、すべての人の心に潜む悪の力のひとつなのだろうと思うのです。私たちは、自分のためだけに生きることは出来ません。イエスに従い、イエスの福音に生きることを誓った私たちは、そのような悪の誘いに徹底的に立ち向かわなければなりません。そして、自らの人生を、他の人への奉仕の生き方と出来るように努力したいと思います。

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ちょっと前に、川崎で小学生がマンションから落とされ、亡くなるという痛ましい事件があった。通り魔殺人。見ず知らずの他人に、さしたる理由も無く殺されるという理不尽。なんともいいようがない。 この件に関しては随分前にuumin3さんや某司教区の司教が取り上げていた。 ○uumin3の日記 http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20060403#p1 ■いいわけ 「リストラ>苦悩>犯行」という物語がそこにあったのか、あるいは単なる方便だったのかわからない段階ですが、いずれにせよ自分のス... [続きを読む]

受信: 2006年4月 5日 (水) 11時47分

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