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2006年4月30日 (日)

復活節第三主日

「腑に落ちない」という感覚は、何ともいやなものです。殊に何かを求めているときに、一生懸命に事実を知り知識を蓄えてはいるのだけれど、何となくしっくり来ない、最後の最後で納得がいかない。どこかにその壁を乗り越える鍵があるはずなのに、それが見つからない。

しかし、積極的に「腑に落ちない」のであれば、未だ自分があるところへ到達していないという自覚があるのだからまだ良いのです。そこには追い求める姿勢があります。しかし実は多くの場合、人は「腑に落ちていない」事に気がつかずに、納得してしまっていることがあるのではないかと思うのです。つまりもっと先があるにもかかわらず、それに気がつくこともなく、ある程度で納得してしまっている。実は「腑に落ちていない」にもかかわらず、です。

弟子達の復活の体験とは、究極のところ、イエスの死と復活という出来事を挟んで、彼らの生きる姿勢が大きく転換したことにあるのだと思います。本日教会で朗読されたルカ福音書24章35節から48節の話こそは、イエスが、弟子達が実は「腑に落ちていないのだぞ」という事実を突きつける話ともいえるでしょう。「なぜ、うろたえているのか」という言葉に、「だからおまえ達は分かっていなかったのだ」というイエスの思いが感じられます。

イエスの死に至るときまで、弟子達はイエスと寝食を共にしながら、様々な知識を蓄えてきたことでしょうし、この偉大な「先生」について自分なりの「納得」をしていたことでしょう。しかしそれより先があるのだと言うことに気がついていないのです。だからこそ彼ら自身の「納得」が打ち壊されたとき失望するのであり、今度はイエスが現れて彼らの「納得」よりもっと奥深い先があるのだと明確に示されたとき、恐れてしまうのです。しかし復活の主との出会いは、聖書に言葉によれば、「心の目を開いて」下さることによって、それまで自分なりに納得し理解していたイエスの言葉と行いに、実はさらに先があったのだと、弟子達の知識としての理解を、実体験として深めたのです。つまりそのとき、イエスの言葉と行いが、弟子達の「腑に落ちた」のでした。

私たちには様々な知識の源が与えられています。聖書そのものだけではなく、カテキズムやらありとあらゆる信仰の解説書だとか、数え切れないものがあるでしょう。それをどん欲に吸収して知識として貯えることは、悪いことではありません。でも知識としての信仰の先に、自分の力では納得しきれない神様の領域があることを、常に謙遜に自覚しておかなければならないと思うのです。蓄えた知識は信仰そのものではありません。極論すれば信仰の本質はそこにはありません。本当に求めたいのは、そこに到達する体験、すべての蓄えた知識が「腑に落ちる」体験です。日々、奢ることなくイエスとの出会いを祈り求めたいと思います。

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