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2006年5月26日 (金)

秋田へ祈りの旅

Img_0176 車の事故で始まった旅でした(下の記事参照)。昨日の朝から今日の午後にかけて、新潟の「月曜会」の方々を中心に、一緒に秋田へ祈りの旅に出かけて参りました。参加者は21名で、一番多かったのは寺尾教会の方々で、いつもは女性ばかりの「月曜会」ですが、今回の旅行には男性2名の参加もありました。昨日朝8時半頃の「いなほ」に乗って、みんなそれぞれ駅弁を買い込み、お菓子を分け合い、3時間半強の旅行です。すばらしい天気に恵まれ、久しぶりに美しい日本海を眺めながら、秋田へ向かいました。平均年齢は、どれくらいでしょう?いずれにしろ遠足のような楽しい車中となりました。

目的地は秋田の聖体奉仕会修道院です。すばらしい青空の下、修道院の聖堂でロザリオを唱え、修道院の午後の聖体礼拝に参加し、夕方にはミサを捧げ、夕食は修道院の共同体と山菜を山盛り頂きました。

今日もまた天気に恵まれ、修道院の朝の祈りと聖体礼拝、そしてミサ、朝食後には外の庭で十字架の道行き。本当によい天気に恵まれて、すばらしい二日間となりました。祈りは確かに何処でも出来ますし、どんなときにも出来ますけれど、やはりそれなりに祈りの雰囲気がある場所で、すがすがしい天気に恵まれると、いつも以上に良く祈りが出来るような気がします。私にとっても、心の一休みという、ありがたい一時となりました。Img_0174

巡礼をするということの現代的意味は何処にあるのでしょう。教会には古くから巡礼の歴史はありますし、そもそも宗教に巡礼はつきものかもしれません。ですからいろいろな伝統的意味合いがそこには与えられているでしょうし、そう言うのを聞いたこともあります。そして今私がなぜ巡礼に出るのか。十字架の道行きをしていて思ったのですが、そもそもなぜあの14または15留なのか。つまり過去に起こった出来事を総て追体験しているわけではなく、その中のいくつかが選び出されて14または15となっているわけですから、十字架の道行きをたどることは単なる追体験ではないし、思い出に浸ることでもない。選び出された14ないし15の出来事は、今生きる私に何かを語りかけるものとして選び出されているはずです。ただイエスの受難を追体験するのであれば、例えば「パッション」でも鑑賞すればよい。沿うではなくてその中からことさらに選ばれた14ないし15の出来事は、今生きる私たちに何かを語りかけているからこそ、意味があるのだろうと思います。そして巡礼もしかり。単に過去にあった偉大な出来事を知って驚くだけなら、観光旅行に過ぎません。観光旅行が巡礼旅行となる瞬間は、その過去にあった出来事が、今生きている私の生に何かを語りかけたときだと思います。自らをふり返り、偉大な出来事を通じて、または聖なる場所を通じて、自らの足りなさを知り、生きる道しるべをいただく。しかも今回のようにただ一人でそうするのではなく、信じる人の交わりの中で、ふり返り力を得ることは、信仰生活にとって不可欠な活力源であると思いました。

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