« 長岡・福住教会訪問 | トップページ | 聖地に平和を »

2006年7月22日 (土)

パウロ六世「福音宣教」

教皇パウロ六世が1975年に出された使徒的勧告「福音宣教」が、この度ペトロ文庫として中央協議会から発行されました。文庫本サイズで700円です。今の時代を生きるキリスト者にとって、現実の中でいかに福音の理想を生きるのかを考えるとき、一つの重要な手がかりを与えてくれる文書であると思います。是非、一度手に取り、一人で、またグループで読み進めることによって、福音宣教についての理解を新たにしていただければと思います。

理想と現実には、乗り越えることの出来ない隔たりが常に存在します。殊に、その理想の実現に関わる現実の範囲が広ければ広いほど、理想を現実とする作業には困難が伴います。理想と現実の格差が大きいほど、その理想を実現することよりも、いかに現実を肯定して妥協を図るかに関心は向いてしまいます。そのときに、肯定した現実にのみ自分の存在の場を求め、理想を特別な場に隔離して背後に置き去りにするのか、肯定した現実に自分の存在を置きながらも、常に目前には達成できなかった理想を掲げ、自らの足りなさを知ろうとするのか。理想を常に掲げ、それを達成できない自分の力のなさを悟るとき、はじめて謙虚に自分よりはるかに力のある神に助力を求めることが出来るのだろうと思います。「私は弱いときにこそ強い(2コリント12:10)」と言われる所以です。

イエス・キリストに従って生きることを決意したキリスト者にとって、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい(マルコ16章15節)」というイエスの言葉は、絶対的な宣教命令であるにもかかわらず、現実の生活の中でそれを実践するには様々な困難が存在します。福音に絶対的に従って生きることに始まって、自分の全生涯を通じて福音を告げ知らせることは、私たちにとっての理想的な生き方といえるのかもしれません。そしてその理想を実現させようとする私たちの前には、現実という巨大な壁が立ちはだかっているのです。1コリント3:6-7に、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」とあります。つまり究極的には、福音宣教は神の業ですから、私たちは素直に自分の非力さを認めて、謙虚に神の助力を求める必要があります。しかしながら同時に、「成長させてくださる神」と共に働く「植える者」と「水を注ぐ者」の存在も欠かせません。それが私たちです。「成長させる」という神の業を実現するためには、その前提条件を整えなくてはなりません。それが私たちにとってなすべき業であろうと思うのです。そうなると、その「成長させてくださる神」と共に働く「植える者」と「水を注ぐ者」として、現実の中でいかにその業を果たしていったらよいのか。それを考えるときに、力強い導き手となるのが、このパウロ六世の「福音宣教」です。

「福音宣教」から一節を引用します。「教会にとって福音をのべつたえるとは、・・・人類を内部から変化させ、新しくするという意味を持っています。・・・教会にとって、ただ単に福音化の地理的領域をたえず拡大して、より多くの人々に福音をのべることだけではなく、神のみことばと救いの計画に背く人間の判断基準、価値観、思想傾向、インスピレーションの源、生活様式などに福音の力によって影響を及ぼし、それらをいわば転倒させることでもあります(18・19)」。

明日、年間第16主日の福音は、宣教から戻った弟子達をディブリーフィングするイエスの姿でもあります。報告した後に、「静かなところへ行って休むように」と主は言われます。静かに自分をふり返る祈りの時を持つようにとの呼びかけなのかもしれません。主日にミサに与りに来る私たちにも、同じ呼びかけがなされているのだと思います。この主の言葉を耳にしながら、毎日の自分をふり返ってみたいと思います。福音の理想に生きることの出来ない自分の弱さ、そもそも掲げるべき理想を自分は分かっているのかどうか、理想を実現できないときに、それを背後にしまい込んでしまっていないか、ふり返る時を持ちたいと思います。そしてよりふさわしい福音の理解で、福音化の業に励みたいと思います。

|

« 長岡・福住教会訪問 | トップページ | 聖地に平和を »

司教の日記」カテゴリの記事