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2006年7月 7日 (金)

「初金」です

本日は7月の第一金曜日、つまり「初金(はつきん)」です。新潟教会も「初金」には毎日の朝6時半のミサに加えて、午前10時と午後6時にミサが行われます。初金のミサは伝統的に「イエスのみこころ」の信心であるといわれています。17世紀後半の聖女マルガリータ・マリア・アラコクの出来事にもとづく伝統であります。聖体の前で祈る聖女に対して主イエスが出現され、自らの心臓を指し示して人々への回心を呼びかけた出来事があり、それに基づいて、9ヶ月の間、初金に聖体拝領を受ける人には特別なめぐみがあるといわれる伝統的信心です。イエス様がこちらをじっと見つめながら、手には燃えるような自分の心臓を持っている絵を目にしたことがありませんか。十字架上で刺し貫かれたイエスのみこころは、全人類に対する神の愛の象徴として、神の心そのものとして称えられるのです。

教皇ベネディクト十六世は、教皇ピオ十二世回勅『ハウリエティス・アクアス』発布50周年に際して、2006年5月15日付でイエズス会の総長に宛てて送った書簡のなかで、イエスのみこころへの信心は決して過去のものではなく現代的な意味があると述べながら、次のように記します。

「内面的に神を受け入れた人は皆、神によって形づくられます。神の愛を経験した人は、その愛を「召命」として生きなければなりません。人はこの「召命」にこたえなければなりません。主は「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」(マタイ8・17)かたです。この主に目を注ぐことによって、わたしたちは人の苦しみと必要にもっと気づくことができるようになります。
 槍で刺し貫かれたイエスの脇腹を礼拝しながら観想することにより、わたしたちは、人びとを救おうとする神のみ旨を感じることができるようになります。この観想によって、わたしたちは、救いをもたらす神の憐れみに自分をゆだねることができるようになります。それと同時に、この観想は、神の救いのわざにあずかり、神の道具となりたいというわたしたちの望みを強めます。」(全文は中央協議会のHPで)

初金にあたり、イエスのみこころに満ちあふれた神の愛を想い、その愛に与りながら、自らも神の意志を実現する道具として生きる決意を新たにすると共に、神が作られた命を育むすべての兄弟姉妹に、思いを馳せて生きたいと思います。

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