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2006年8月30日 (水)

米沢へ

Img_0295 秋田からの帰り、横手を経由して山形県の米沢へ向かいました。米沢といえば、列福が間もなくといわれるペトロ岐部と187殉教者のうちの53人が殉教した北山原の殉教の地がある町です。集まっていただいた米沢教会の方々と、山形地区の神父様方を交えて、殉教者列福が決まった場合の、米沢でのお祝いについて意見交換をしました。何せ列福が正式に発表されておらず、列福式の日も決まっていないため、米沢でのお祝いについても雲をつかむような話で、なかなか詳細を詰めることが出来ません。それでもこれまでの顕彰の経緯をふまえて、53人の殉教者を福者として頂くことを、ふさわしい形で感謝する行事をこれから考えていきたいと思います。もちろん様々な行事には資金も必要です。それも考えていかねばなりません。米沢教会の皆さんには、実行委員会を立ち上げていただきました。今後、いろいろなアイディアが実行委員会から提案されることになります。なお主任司祭の川又師(イエズス・マリアの聖心会)は体調を崩され、現在入院中です。川又神父様の回復のために、どうかお祈り下さい。

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奉献生活者の方々の集い

Img_0289_1 秋田方面に出かけていたので、更新が滞りました。先週は秋田の聖体奉仕会で、会員の皆様の黙想会でお話をさせていただきました。修道生活を営む人たちや、先日の長崎での司祭に対してもそうですが、それぞれの方がすでに黙想により霊的生活を深めることのプロ相手ですから、より良い黙想のお手伝いをするために、わたしは最低限のきっかけとなるお話をさせていただきました。少しでも何かを考えていただくきっかけと慣れれば幸いです。

27日の日曜日には、同じく聖体奉仕会を会場にして、新潟教区の女子修道会や在俗会など、奉献生活を営んでいる女子の会の会員の集いを開催しました。来年度に予定されている教区の宣教司牧評議会の立ち上げに関連して、司祭と信徒が協力して新潟教区の宣教について考えるのであれば、当然、シスターといわれる方々の参加も不可欠なわけで、それが今回の集まりに繋がりました。事前のアンケートや3月の院長会議でも明らかになったとおり、地理的条件や交通の便を考えれば、他教区のような堅固な組織体としての修女連には難しさがあります。その打開策を考えるためにも、まずお互いに知らない奉献生活者が集まって互いを知り合い、そしてその上で互いの連携について考えようという趣旨で、教区全体へ呼びかけたものです。

Img_0275 新潟教区には全体で90名ほどの「シスター」がいます。それ以外にも在俗会の会員が多くいます。今回は両方の会員を対象にして一つに集まってもらいました。例えば新潟市に多くの修道会が集まって活動をしているというのであれば、その人達を中心にして連合体を作れば良いのですが、残念ながらそういうわけではありません。今回の集まりには、50名近い方々が集まってくださいました。列車の関係で前日に来られた方も多く、土曜の夜には夕食をともにして親交を深めました。また当日は、まず互いの会の紹介に始まり、私の話と意見交換、そして昼食後はグループでの話し合いと発表、最後にミサで締めくくりました。

新潟教区にあるすべての会が参加してくださいました。(聖体奉仕会、聖母カテキスタ会、聖霊会、聖心の布教姉妹会、クララ会、無原罪の聖母フランシスコ姉妹会、ナミュール・ノートルダム会、マリアの宣教者フランシスコ会、オタワ愛徳修道女会)。話し合いの結果は、正式には記録の発表を待たなくてはなりませんが、概ね以下のように話が進みました。まずこういった全教区の集まりを今後も定期的に開催すること、それとは別にネットワークを重視した組織体としての修女連のようなものを新潟教区にも設立すること、そしてその方法にはいくつかの提案があったものの、宣教司牧評議会に代表を送ること、そのための準備会議である11月の会議には教区事務局の佐久間シスターを代表として参加させること。これからの発展が期待されます。

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2006年8月20日 (日)

夏には燃える

中学生の頃、甲子園の野球が終わると、そろそろ夏休みも終了に近づいてきているのであるという愕然とする事実に否が応でも気がつかざるを得ず、焦ったものです。しかも当時は名古屋の小神学校に住んでいたものですから、8月の最後の数日は、早めに静岡の両親の家を出て、名古屋に帰らなくてはなりませんでした。二学期前に黙想会があったのです。考えてみれば、当時は春休みには帰省が許されていなかったので、両親と生活をするのは夏休みと冬休みだけ。そんな生活を中学一年から続けてきたので、実家は自分の家という感覚はなく、今に至るまで親の家としか感じません。旅する教会に生きる聖職者には、ちょうど良い感覚かもしれません。いずれにしろ、当たり前のことですが、同じ両親の家とか実家といっても、それぞれの人の背負う歴史によってその場所が持つ意味合いは違ってくるのであり、そこに出かけていく意味合いも違ってくるのは当然です。

今年の甲子園は今日で決着かと思いきや、好投手同士の投げ合いで、引き分け再試合になりました。あの暑いなかほぼ2試合分を投げ抜いた投手が、また明日投げるというのですから、体は大丈夫なのかと心配してしまいます。そんな体のことを心配するよりも、手にする栄誉の方が重要なのはよく分かりますし、暑いからこそ熱くなるのも分かりますが、一日くらい、休みを入れた方が体のためにはよいのではないかとも思います。もっとも、滞在費も馬鹿にならないですし、応援団も帰ってまた来るというのも、特に北海道なんか不可能でしょうから、続けてやった方がよいのかもしれませんね。そういえば、数年前に長崎の南山高校が甲子園に出場したときは、名古屋の南山からもブラスバンドや大学のチアリーダーが応援に出かけましたが、この時も全体の費用を何とかするのが大変だったと聞かせられました。

明日から来週の水曜日まで、司教館を留守にします。毎年この時期は、アフリカへ出かけていたのですが、残念ながら今年はそうではなくて、ちゃんと新潟教区の中におります。(この時期は日本にいるよりも、場所によりけりですがアフリカの方が涼しいのです。)で、わたしは今週いっぱいは秋田におります。聖体奉仕会の姉妹達の黙想会の指導と、来週の日曜にはその聖体奉仕会修道院を会場に、新潟教区の修道女会、奉献生活の会の会員の大会というか集会を開催します。新潟教区内にはどちらかというと高齢のシスター方、会員方が多いのですが、それでも50人ほどが集まってくださることになっています。新潟教区という地理的条件を考慮に入れた、他の教区には無い「修女連」的な組織かネットワークを考え出したいと思っています。(ところでワープロソフトで「しゅうじょれん」と打って変換すると、一番最初に出てくる漢字にはびっくりします。)

その後、来週は米沢で来年に予想される殉教者の列福に関連した様々な対応について、山形の司祭団や信徒の方々との意見交換をして、そのあとに司教館へ戻ります。旅ですので、一応コンピュータは抱えて出かけますが、更新は10日間ほど出来なくなるやもしれません。努力はします。それでは、明日で甲子園も終わりですから、まもなく夏休みも終わりですよぉ!暑い夏には熱く燃えて過ごしましょう。

P.S. 元来この日記は新潟教区の方々を対象に情報共有のために存在するのですが、インターネットで公開している以上、不特定多数の方が読まれるであろう事を前提にして書いています。書いている内容には、それを書く背後の理由がある事も多く、象徴的に何かを伝えたいと思って書いていることもあります。いずれにしろ、読まれる方には、是非、よくよく読んで、どうか早とちりをなさらないでいただきたいと思います。コメントはこれまで通り管理する時間的余裕がないので受け付けませんが、質問やご意見があればプロフィールのところからメールが出せますので、メールでどうぞ。時間がある限り、返事はするように努力しております。

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2006年8月17日 (木)

教区カトリック保育者研修会

新潟教区では秋田・山形・新潟の各県に、幼稚園や保育園など、幼児の教育や福祉に関わる施設が、教区や修道会によって多数設置されています。それぞれは別個の法人として運営されていることもあり、日頃は法人を越えたお互いの関わりや交流はあまりありません。そこで、年に一度、夏休みの間に教区全体の「カトリック保育者」の研修会が行われます。

今年の研修会は、本日17日と明日18日、新潟市のスターホテルを会場に、120人を超える参加者を得て、「ともに歩む」をテーマに開催中です。

例年は、専門家や有名な教育者をお招きして講演をお願いして、それに基づく勉強会の形式がとられてきましたが、今回は(諸般の事情があったにせよ)、講師を特段招くことなく、基本的には先生方の小グループによる話し合い(教会的には「わかちあい」)を中心に、研修を進めることになりました。まず実際に保育に関わっている方から3名が、それぞれの現場からの問題提起をしてくださり、その後1時間半ほどをかけてグループディスカッションとなりました。その後、夕食前には専門のインストラクターの方を招いて、「手遊び・歌遊び」の研修で頭と体をほぐしました。明日は、グループからの発表の後、私がまとめの話をして、そして感謝のミサを捧げて終了となります。

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殉教者の足跡・2

 「出来るだけ私たちは協調します。然し最後の解決はこれです」。そう言って両腕を広げた神父様は、「イエス様の解決もそれでした」と語った、と記録に残されています。1944年(昭和19年)4月のある日曜日、新潟教区の高田教会主任であったサウエルボルン師(神言会)は、3名の女性信徒と共に警察に逮捕されました。そして、それから終戦間近まで、身柄を拘束されることになるのです。一緒に逮捕された女性信徒の回想によれば、取り調べは特高によって行われ、現人神とされていた天皇とキリスト教の神の比較の問題にはじまり、国家に徹底的に逆らう思想犯として調書が作成されていったといいます。結局、治安維持法違反として不敬罪で実刑(執行猶予)を受けたのでした。サウエルボルン師は、この体験が心身によほど堪えたのでしょう。また自らが教えていたドイツ語教室に、結局は警察のスパイが紛れ込んでいたという事実も知り、大きなショックを受けたようです。その後、体調を崩され、日本を離れることになったのでした。
 1931年9月に満州事変が勃発し、日本は戦時下の国への道を引き返すことは出来なくなっていました。その時代の流れのなかで、国家は全国民を総動員するために何らかの方向性に国民の意識を統一する必要があったのでしょうし、それに逆らうもの、特に「心の問題」に深く関わる宗教について、統一からかけ離れたところにある場合には従属させる必要があったのだろうと思います。
 そういう流れのなかで、いわゆる「上智大学生靖国神社参拝拒否事件」が発生したといわれています。1932年に起こった出来事の詳細には諸説があり、事実は判然としません。しかし一つ分かっていることは、当該事件が5月に発生したにもかかわらず、その年の10月1日に新聞報道されるに及んで軍部を巻き込んだ大事件となり、実際にはすでに文部省と話が付いていたにもかかわらず、それから一気に教会は不利な形勢に追い込まれていったということです。この間に教会と政府と軍部の間でどういうやりとりが行われたのかは、この記事の趣旨ではありませんから、省略します。
 当時の教会は追い込まれていく中で、自らの信仰と国家の体制をどのように調和させるのかに悩まなければならなくなったのです。考えてみれば、当時は1873年に禁教令が解かれてから半世紀ほどしか経過していません。その記憶もある中で、再び形を変えた迫害に教会が直面したといっても過言ではありません。結局は、キリシタン時代の殉教にしても、「信教の自由」を守るための闘いの結果であり、国家と宗教の関わりの中で、命を賭して信仰を守った殉教者が日本の教会には存在してきたのです。
 第二バチカン公会議が「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」を発表し、今に至る「諸宗教対話」の道が開かれるまで、教会の宣教における基本姿勢は宣教地の伝統文化を尊重する事を基本にしながらも、第一戒については、他宗教への妥協を厳しく禁じていたのであり、それがために、1930年代の日本の教会は、信仰と国家と国家神道の関わりの中で、大きく苦しんだのです。(もちろん現在でも根本的には主の十戒に変更があるわけはなく、同上宣言でも、「しかしながら教会は絶えずキリストを告げ、また告げなければならない」と釘を刺しています)。
 最終的には、靖国神社をはじめとする国家神道の神社で行われる政府の儀式は宗教的なものではないと結論することによって、すなわち宗教性を否定することで信仰を守る道を教会は選択しました(なお、当時の文部省が国家神道神社での参拝の宗教性を否定したという説が広く流布されていますが、実際にはさすがに当時の文部省もそこまで踏み込んだ回答はしておらず、シャンボン大司教への回答でも、それは見事にそして賢明に避けられています。宗教性の否定は教会側の解釈に過ぎません)。ここでは、当時起こった出来事の是非を論じたいわけではありませんし、当事者の判断について何らかの判断をしたいわけではありません。そこには「信教の自由」を考えるとき、論じられなければならない問題がありますが、今はその「とき」ではありません。そうではなく今考えたいのは、その結論に至るまで、教会の指導者達も多くの信徒も、自らの良心と現実の狭間にあって、どれほどまでに苦しんでこの道を選択したのかという、私たちの信仰の先達における心の問題です。すなわち、第一戒を守るために、自らの信仰と国家とのせめぎ合いの中で、殉教の覚悟を持って信仰を生き抜いた多くのキリスト者が、当時存在していたということです。私はその当時のキリスト者のおかれた状況を思うとき、そして当時その判断をせざるを得ないところまで追い込まれた状況を思うとき、私たちの信仰の先達の苦しみを無にするような行動を、今に生きるキリスト者がとるべきではないと思うのです。当時苦しんだ信仰の先達の思いに心を馳せるとき、少なくとも私は、請われもしない、またその必然性もないのに、当時の苦しみのシンボルでもあった場所に、いま自らが積極的に参拝に出向いていくことは、彼らの苦しみと苦渋の選択に対して失礼であると考えています。
 先ほど挙げた第二バチカン公会議の文書を引くまでもなく、教会は諸宗教との対話と協力の中に存在しています。誠実に真理を探究する他宗教の存在を否定することは、決してありません。以前にも触れたところですが、これについては6月にカトリック中央協議会から発行された「諸宗教対話」という資料集を是非ご一読いただきたいと思います。殊に、新潟教区のように、家庭生活において、日々、仏教やそのほかの諸宗教との関わりを考えなければならない地域においては、心強い導き手となる資料集です。他の宗教の儀式であっても、家族や親類縁者の方々との関係、または隣近所のお付き合いの中で、積極的な参加が求められることも多いことでしょう。そのときにも、他の宗教への尊敬を持ちながら、しかし出来る限り自分の立場を明らかにして、自らの信仰と良心に基づいて、賢明な行動をとりましょう。しかしそれは、自らの信仰を妥協させて積極的に関わるという性質のものではなく、あくまでも、自分と他の人たちとの関係の中での出来事であることに留意するべきです。ご家族が、親類縁者の方々が、亡くなられた方々に思いを馳せながら、神社などに参拝に出かけていくとき、同行することは、個々人の自由です。どのような形で自らの信仰を表現するのかも、基本的には個々人の良心の自由の問題です。政治的な問題は、もちろん様々な課題がそこにはあるとはいえ、今語りたいこととは全く別次元の問題です。
 しかしそうであっても、決して忘れてはいけないことは、私たちの教会は、キリシタン時代から始まって今に至るまで、数限りなく流された殉教者の血とその苦しみの上に成り立っているということであり、その信仰の先達に導かれる私たちは、その苦難の歴史を、無にしてはいけないということです。そして、その必然性もないのに、請われたわけでもないのに、自ら進んで自分の信仰を妥協させるような行動をとることが、私たちの信仰の先達の神の御前における尊い犠牲を蔑ろにするということに思いを馳せたいと、私は一人のキリスト者として思います。

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2006年8月16日 (水)

聖母被昇天

Simg_2486 8月15日はいろいろな意味を持った日です。カトリック教会にとっては聖母被昇天の祭日であり、平和旬間の最終日でもあり、また私たちの国にとっては敗戦の日でもあります。昨日は様々な方法で、各地で平和を祈念されたことだと思います。

新潟教会でも午前10時から、聖母被昇天のミサを捧げました。平日でしかも照りつけるような日差しと暑さの中、いつもの日曜と変わらないほどの信徒の方々が参加してくださいました。ミサの終わりには、私の霊名「タルチシオ」に、教会共同体から霊的花束と本物の花束を頂き、お祝いの言葉を頂きました。新潟教会以外にも、各地の教会などからお祝いの言葉やカード、そして霊的花束を頂きました。ありがとうございます。特に霊的花束は、教会のすばらしい伝統であると感じますが、まさしく祈りの力が支えてくださることを実感させられております。「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」と、ちょっとコンテキストが異なりますが(病者の塗油の話ですから)、ヤコブの手紙にも記されているとおりです。ありがとうございます。

Img_0252 新潟教会ではミサ後、恒例となりましたが、バーベキューやそうめんやかき氷やビールで、聖母被昇天祭をみなでお祝いいたしました。若干天気が良すぎた嫌いもありましたが、子供達はとても元気で、一杯食べた後に、聖堂の前でドッジボールに興じていました。

夜には、ちょうどオシム監督の日本代表が、近くの陸上競技場で公開練習をしていると聞きましたので、見学に行ってきました。陸上競技場のメインスタンドが一杯になるくらいには観客が集まる中、ミニ紅白戦まであって、楽しませてもらいました。今夜の結果が楽しみです。まだまだ暑い日が続きます。新潟教区の皆様、どうか暑さに負けることなく、元気に毎日をお過ごし下さいますように。

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2006年8月14日 (月)

殉教者の足跡

Img_0053 今日は聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父の記念日です。1941年のこの日、アウシュビッツの強制収容所で、身代わりとなって死んでいった話はあまりにも有名です。(写真はアウシュビッツ餓死室の隣にある、銃殺場)。私の霊名であるタルチシオも初代教会の殉教者の一人ですが、教会の歴史はそのはじめから今に至るまで、殉教者の歴史であったのであり、殉教者の血から新しい教会は生まれ、その血によって育てられてきました。殉教者が現代に生きる私たちに語りかけるものはいったい何なのでしょうか。

日本の教会は現在、ペトロ岐部をはじめとする188人の殉教者の列福を待っています。新潟教区からもその中では最多となる53人が、山形県の米沢で殉教しています。この殉教の現代的意味を解説している中央協議会のホームページには、次のように記されています。

『彼らは英雄や勝利者として行動したのではありません。ただ神との間に、きわめて密接な関係を築くことができた人びとです。だから自分たちの時代背景の中で、殉教という実を結んだのです。「殉教」に通じる神との密接な関係を深めることは、時代を超えて教会に求められる基本的な生き方であります。
「ペトロ岐部と187殉教者」は、それぞれ、現代に通じるメッセージをもっていますが、その根底に流れる共通点は、神と一致した生き方を貫いたこと。言い換えれば、神の価値観を公言し、福音的でない価値観を、勇気をもって拒否したことではないでしょうか』。

明日は聖母被昇天のお祝いです。そして終戦記念日でもあります。新潟教会では午前10時から私の司式でミサが捧げられ、その後、お昼を挟んでバーベキューなどが行われる予定です。どうぞお出かけ下さい。

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停電の恐怖

昨年末、12月22日に新潟は大停電に見舞われましたが、今朝方は東京と千葉の一部で同じようなことがおこったようです。さすがに首都ですから、いくつもの代替ルートが確立されているのでしょう、10時頃には全面復旧した模様です。新潟の停電は12月の寒いときでしたので、電気がないと動かない暖房器具もあって寒くて大変でしたが、東京は暑さの中ですから、クーラーが使えず難儀した方、特にお年寄りや病気の方々には、大変な目に合われたかたも多かったのではと思います。それにしても原因がクレーン船による引っかけ事故だというのですから、考えてみたら(見るまでもなく)、日本の首都機能を一時的とはいえ混乱させるには、爆弾はいらないということです。もちろん、肝心の中枢部は自家発電などがあるでしょうからあまり影響がないにしても、いわゆる「テロ」というものの本質を考えてみれば、一般民衆が混乱することで十分目的を達成するのですから。その関連でいえば、今回の英国での爆弾テロ未遂も、古典的な意味合いでの「テロ」という側面から考えれば、十分目的を達成したということになります。実際に爆発させないとしても、多くの人には十分な恐怖を与えたでしょうし、社会に混乱をまねいたでしょうし、政府にもある程度の影響を及ぼしたことでしょう。その意味での、「テロ」は実行されなかったから封じ込めたと言えるものではありません。そもそも「テロ」が存在しないという理想的状態が望ましいのであり(現実にはほぼ不可能としても)、そのための手段は、実行者を封じ込めるか関係を改善するか、どちらかしかありません。

聖地の紛争状態は、本日まもなく停戦になるはずですが、少なくとも安保理決議通りに実現するように祈りたいと思います。いずれにしろ、まさしくイスラエル政府がこれまで採用してきた方針は、おおむね実行者の封じ込めであり、また合衆国がこの数年採用しているのも、同じく封じ込めです。そして、どう見ても封じ込めは限界がありすぎる。教皇様ご自身も、こういった封じ込めは成功してこなかったではないかと、批判しておられます。そうすると、残された道は関係改善しかありません。もちろん関係改善といったところで、周囲を取り巻く政治経済の環境を大きく変化させざるを得ないのですから、そう簡単には当事者や当事国が採用する方針だとは思えません。歴史のしがらみと現実の政治経済の本音が渦巻く中で、理想的な解決はあり得ないのでしょうし、理想ばかりを語っても仕方がないのでしょうが、宗教者としてはまず、神に創造されたいのちの尊厳という側面から、小さな声ですが福音の理想を語り呼びかけるしかありません。聖地を不安定にしている要素の奥深くには、世界各地を不安定にしている要素と同じものが潜んでいるのですから。

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2006年8月11日 (金)

聖クララの祝日

Img_0228 本日、8月11日は聖クララの祝日です。そして上越市にある聖クララ会高田修道院でも、祝日を祝ってミサが捧げられました。普段は10人に満たない小さなシスターの共同体ですから、小さな修道院の聖堂でも十分ですが、今日は長岡地区のフランシスコ会の司祭、教区で働く司祭も加わり、私が司式で11人の司祭と一人の終身助祭(フランシスコ会)、そして30人あまりの信徒の皆様も加わり、熱気溢れるミサとなりました。また今年から長岡地区で働いている無原罪の聖母フランシスコ姉妹会のフィリピン人の三人のシスターと、マニラからの管区長シスターなども加わり、いつもは沈黙に包まれている修道院にも、ミサが終わって朗らかな笑い声が響いていました。クララ会は観想修道会ですから、シスター方は一般の人が立ち入ることの出来ない教皇禁域に生活しています。誰かがこの教皇禁域に立ち入るのも、シスターがたが教皇禁域を離れるのも、教区司教の許可が必要という厳しい場所です。この修道生活を通じて、新潟教区のために祈りで支えてくださるシスター方に、感謝をしたいと思います。

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2006年8月 8日 (火)

新潟祭り

新潟市は昨日から明日まで、毎夏恒例の新潟まつり真っ最中であります。今日の夜は、駅前から万代橋を通り、司教館近くの古町まで、新潟のメインストリートを通行止めにしての、民謡流しが行われました。様々な団体や会社、官公庁、学校や病院のグループが、それぞれ名前を掲げ、そろいの浴衣や法被に身を包んで、延々と2時間ほどの踊りの輪が新潟の夜を彩りました。あれだけの人数が、同じ歌に会わせてほぼ同じような動きをする。すくなくとも一つひとつのグループはほぼ同様の振り付けで踊っていました。そう言えば、近頃は総踊りなどと呼ばれて、様々なグループが個性的な踊りを披露し合う催しが全国で開かれ、新潟でも開催されますが、あれも一糸乱れぬダンスを披露したグループほど、高い評価を得ているように思えます。

同じ踊りをみなで一様に踊るというのは、当たり前のようですが、必ずしも人類共通とも言えません。踊りを含めて音楽という側面からいえば、民族音楽者の故・小泉文雄が指摘していたように、いわゆる原始的民族ではポリフォニー(多声音楽・唱)が中心的歌唱法であり、ユニゾンの合唱、すなわち斉唱は、高度に文明化された社会で成立したといわれます。未分化社会における精神的不統一性や役割の不統一性が、自然発生的に生み出すのが、合唱だというのです。原始的かどうかは別として、少なくともアフリカや、欧米の教会などにいると、そんな聖歌でも必ず誰かがハモっているという体験をしますし、ガーナの教会で働いていたときも、聖歌隊の自由なハモりの巧みさには舌を巻いたものですが、逆に斉唱があまり上手ではないと感じました。盆踊りなどもそう言った要素があるのではと感じることがあります。もちろん日本人だけではありませんが、統率がある程度とれて、同じ動きが出来るのは、ある意味非常に個性的であるのかもしれません。

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2006年8月 7日 (月)

平和旬間です

日本のカトリック教会は、広島に原爆が落とされた8月6日から終戦の15日までを、平和旬間としています。これは25年前に日本を訪れた教皇ヨハネパウロ二世が、広島の地から世界に平和を呼びかけたことに触発され、翌1982年から毎年行われている特別な祈祷旬間です。この時期に当たって、他ならぬ聖地において平和を揺るがし、政治の世界のみならず経済にも大きな影響を及ぼし、あまつさえ幼い子供達を含む多くの市民の人名を奪う事態が進行していることは、私たちに、これまで以上の真摯な祈りを求めている「時」であると思います。まさしく大量破壊兵器で、一瞬のうちに何万、何十万もの人命が奪われた体験を、その歴史に二度も刻まれた私たちの国は、人類社会全体に対してその悲劇から得た平和を希求する真摯な願いを、訴えていく責務があります。

Img_0220_1 新潟教区においても全国の平和旬間の一環として、昨日、新潟教会において、広島大学名誉教授(刑法学)で法学部長も務められた金沢文雄先生をお招きして、憲法と平和についての講演を頂きました。金沢先生はもともと十日町のご出身で、大学を退かれてから、新潟にお住まいになっておられます。専門家として、また信徒として、これまでの体験と研究から、様々なお話を聞かせていただきました。講演の後には新潟教会において、私が司式して、平和祈願ミサを捧げました。暑い午後でしたが、大勢の方々にお集まりいただき、感謝いたします。

平和旬間は15日まで続きます。全国的にも戦争をふり返るような報道やドラマ、行事が行われる季節です。そして聖地のでの緊迫した状況は未だに解決を見いだすことが出来ずにいます。この時期に、人類が神の御前にへりくだり、様々な身勝手な言い分を捨て去って、謙虚に頭を垂れ、神が良しとされて創造されたいのちを大切にして、共に生きるという「理想」に、少しでも近づくことが出来るように、真摯な祈りを捧げたいと思います。

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2006年8月 4日 (金)

幼稚園教育

お隣り、名古屋教区のカトリック幼稚園連盟は今年設立30周年を迎え、記念の研修会が、長野県の蓼科アートランドホテルを会場に8月1日から3日まで開催されました。名古屋教区は太平洋側の愛知県から日本海側の石川や福井、富山までの広大な教区ですが、各地から園長を務める司祭、シスター、信徒の方々、そして各園で働いておられる先生方など、300人近い参加者が集まっておりました。野村司教様も三日間参加され、私も講話をするために、参加させて頂きました。初日は慶応大学医学部の小児精神科医である渡辺久子先生の基調講演、二日目はあけのほし幼稚園に勤められる心理学を専攻された中山先生のお話とグループディスカッション、三日目が私の講話と野村司教様のミサでした。

いうまでもなく、昨今の子供たちを取り巻く環境には殺伐たるものがあり、社会全体としても「命」をないがしろにするような事件が続発しています。そのような中で、カトリック幼稚園は命を大切にするキリスト教的教育を全面に掲げて教育にあたることができる場ですから、幼い子供たちに、命の大切さを心に刻む教育を続けていく使命があると思いますし、それこそがカトリック幼稚園の現代的存在の意義でしょう。司祭の高齢化や減少が進んでいる中で、これまでのようにすべての幼稚園で司祭が園長という時代は終わりを迎えています。これからあどのような形でカトリックの精神を生かした教育を続けていくことができるのか、考えて行かなくてはなりませんし、既成の概念を打ち破ることも必要になるのかもしれません。

なお新潟教区においても、教区のカトリック幼稚園の研修会が行われます。8月の17日と18日、新潟市で開催の予定となっています。新潟教区の幼稚園は秋田県、山形県、新潟県がそれぞれ別個の学校法人となっていますが、新潟県だけでも17園が一つの法人となっている、幼稚園としては大きな学校法人です。

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