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2006年8月17日 (木)

殉教者の足跡・2

 「出来るだけ私たちは協調します。然し最後の解決はこれです」。そう言って両腕を広げた神父様は、「イエス様の解決もそれでした」と語った、と記録に残されています。1944年(昭和19年)4月のある日曜日、新潟教区の高田教会主任であったサウエルボルン師(神言会)は、3名の女性信徒と共に警察に逮捕されました。そして、それから終戦間近まで、身柄を拘束されることになるのです。一緒に逮捕された女性信徒の回想によれば、取り調べは特高によって行われ、現人神とされていた天皇とキリスト教の神の比較の問題にはじまり、国家に徹底的に逆らう思想犯として調書が作成されていったといいます。結局、治安維持法違反として不敬罪で実刑(執行猶予)を受けたのでした。サウエルボルン師は、この体験が心身によほど堪えたのでしょう。また自らが教えていたドイツ語教室に、結局は警察のスパイが紛れ込んでいたという事実も知り、大きなショックを受けたようです。その後、体調を崩され、日本を離れることになったのでした。
 1931年9月に満州事変が勃発し、日本は戦時下の国への道を引き返すことは出来なくなっていました。その時代の流れのなかで、国家は全国民を総動員するために何らかの方向性に国民の意識を統一する必要があったのでしょうし、それに逆らうもの、特に「心の問題」に深く関わる宗教について、統一からかけ離れたところにある場合には従属させる必要があったのだろうと思います。
 そういう流れのなかで、いわゆる「上智大学生靖国神社参拝拒否事件」が発生したといわれています。1932年に起こった出来事の詳細には諸説があり、事実は判然としません。しかし一つ分かっていることは、当該事件が5月に発生したにもかかわらず、その年の10月1日に新聞報道されるに及んで軍部を巻き込んだ大事件となり、実際にはすでに文部省と話が付いていたにもかかわらず、それから一気に教会は不利な形勢に追い込まれていったということです。この間に教会と政府と軍部の間でどういうやりとりが行われたのかは、この記事の趣旨ではありませんから、省略します。
 当時の教会は追い込まれていく中で、自らの信仰と国家の体制をどのように調和させるのかに悩まなければならなくなったのです。考えてみれば、当時は1873年に禁教令が解かれてから半世紀ほどしか経過していません。その記憶もある中で、再び形を変えた迫害に教会が直面したといっても過言ではありません。結局は、キリシタン時代の殉教にしても、「信教の自由」を守るための闘いの結果であり、国家と宗教の関わりの中で、命を賭して信仰を守った殉教者が日本の教会には存在してきたのです。
 第二バチカン公会議が「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」を発表し、今に至る「諸宗教対話」の道が開かれるまで、教会の宣教における基本姿勢は宣教地の伝統文化を尊重する事を基本にしながらも、第一戒については、他宗教への妥協を厳しく禁じていたのであり、それがために、1930年代の日本の教会は、信仰と国家と国家神道の関わりの中で、大きく苦しんだのです。(もちろん現在でも根本的には主の十戒に変更があるわけはなく、同上宣言でも、「しかしながら教会は絶えずキリストを告げ、また告げなければならない」と釘を刺しています)。
 最終的には、靖国神社をはじめとする国家神道の神社で行われる政府の儀式は宗教的なものではないと結論することによって、すなわち宗教性を否定することで信仰を守る道を教会は選択しました(なお、当時の文部省が国家神道神社での参拝の宗教性を否定したという説が広く流布されていますが、実際にはさすがに当時の文部省もそこまで踏み込んだ回答はしておらず、シャンボン大司教への回答でも、それは見事にそして賢明に避けられています。宗教性の否定は教会側の解釈に過ぎません)。ここでは、当時起こった出来事の是非を論じたいわけではありませんし、当事者の判断について何らかの判断をしたいわけではありません。そこには「信教の自由」を考えるとき、論じられなければならない問題がありますが、今はその「とき」ではありません。そうではなく今考えたいのは、その結論に至るまで、教会の指導者達も多くの信徒も、自らの良心と現実の狭間にあって、どれほどまでに苦しんでこの道を選択したのかという、私たちの信仰の先達における心の問題です。すなわち、第一戒を守るために、自らの信仰と国家とのせめぎ合いの中で、殉教の覚悟を持って信仰を生き抜いた多くのキリスト者が、当時存在していたということです。私はその当時のキリスト者のおかれた状況を思うとき、そして当時その判断をせざるを得ないところまで追い込まれた状況を思うとき、私たちの信仰の先達の苦しみを無にするような行動を、今に生きるキリスト者がとるべきではないと思うのです。当時苦しんだ信仰の先達の思いに心を馳せるとき、少なくとも私は、請われもしない、またその必然性もないのに、当時の苦しみのシンボルでもあった場所に、いま自らが積極的に参拝に出向いていくことは、彼らの苦しみと苦渋の選択に対して失礼であると考えています。
 先ほど挙げた第二バチカン公会議の文書を引くまでもなく、教会は諸宗教との対話と協力の中に存在しています。誠実に真理を探究する他宗教の存在を否定することは、決してありません。以前にも触れたところですが、これについては6月にカトリック中央協議会から発行された「諸宗教対話」という資料集を是非ご一読いただきたいと思います。殊に、新潟教区のように、家庭生活において、日々、仏教やそのほかの諸宗教との関わりを考えなければならない地域においては、心強い導き手となる資料集です。他の宗教の儀式であっても、家族や親類縁者の方々との関係、または隣近所のお付き合いの中で、積極的な参加が求められることも多いことでしょう。そのときにも、他の宗教への尊敬を持ちながら、しかし出来る限り自分の立場を明らかにして、自らの信仰と良心に基づいて、賢明な行動をとりましょう。しかしそれは、自らの信仰を妥協させて積極的に関わるという性質のものではなく、あくまでも、自分と他の人たちとの関係の中での出来事であることに留意するべきです。ご家族が、親類縁者の方々が、亡くなられた方々に思いを馳せながら、神社などに参拝に出かけていくとき、同行することは、個々人の自由です。どのような形で自らの信仰を表現するのかも、基本的には個々人の良心の自由の問題です。政治的な問題は、もちろん様々な課題がそこにはあるとはいえ、今語りたいこととは全く別次元の問題です。
 しかしそうであっても、決して忘れてはいけないことは、私たちの教会は、キリシタン時代から始まって今に至るまで、数限りなく流された殉教者の血とその苦しみの上に成り立っているということであり、その信仰の先達に導かれる私たちは、その苦難の歴史を、無にしてはいけないということです。そして、その必然性もないのに、請われたわけでもないのに、自ら進んで自分の信仰を妥協させるような行動をとることが、私たちの信仰の先達の神の御前における尊い犠牲を蔑ろにするということに思いを馳せたいと、私は一人のキリスト者として思います。

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