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2006年10月10日 (火)

共同体は誰のもの?

先日の妙高で行った青年の集い。参加者は、初めてのことでもあり少なかったものの、夜中までいろいろと語り合う中で、考えさせられたことがたくさんありました。その中の一つが、教会共同体はいったい誰のものなのか、という根本的問題でした。この問題は、教会共同体の育成を考える委員会などに長年関わってきた身からすると、決して目新しい課題ではないものの、若い世代の意見の中に、やはり同じ問題が深く存在していることを感じました。青年層活動の横の繋がりについて話していたとき、「教区や小教区といった壁に捕らわれないで、自由に繋がっていきたい」というような話が出ました。この場合の教区とか小教区とは、組織としての教会のことですから、すなわち、教会の組織形態が活動の足枷にもなり得るという事です。そして一般に、教会共同体といえば、この組織形態のことを指して考えてしまうのですから、教会共同体が活動の足枷になるというおかしな話になってしまいます。

このことは個人の信仰を深めるという話とも共通するものがあります。すなわち、多種多様な人がいるのだから、一緒に何かをするのが得意な人もいれば、一人で何かをするのが得意な人もいるわけです。後者の場合、誰かと一緒に何かをするのではなくて、自分の信仰は一人で静かに深めたいから、共同体を強調しないで欲しいという事になります。実は、これにも一理あると私は思っています。というのも、私自身が、根本的にはみんな一緒に大勢で何かをするというのが、自分の中では一番苦手なことだからです。

ここで問題なのは、「いったい教会共同体とは何なのか」という根本問題であると思います。確かに今存在している教区や小教区という組織体が共同体の実体であることは間違いないのですが、キリスト者の集まりとしては、そこにもう一つの実体が存在することに留意しなければならないと思います。第二バチカン公会議の教会憲章は、これを見事に次のように述べました。

「聖職位階制度によって組織された社会とキリストの神秘体、見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に飾られた教会は、二つのものと考えられるべきではなく、人的要素と神的要素によって形成される複雑な一つの実在である(教会憲章8)」

手垢が付いてしまうくらい、幾度も幾度も引用される箇所です。教会共同体は、目に見えるこの世の組織体(ピラミッド)であると同時に、枝としての我々がイエスという幹につながれたぶどうの木のような、またはイエスを中心にした球体のような我々の集まりとして存在しているということです。そしてそれぞれの実体は表裏一体であるにもかかわらず、そこには厳然と峻別して考えなければならない役割の分担があります。すなわちこの世の組織体のいわば権威と責任の構造、そしてイエスにつながれた互いにそれぞれの役割を背負った、雨宮師の先日の話であれば「同じ神に一緒に奉仕する仲間」としてのそれぞれの役割の違いです。教区や小教区という組織の役割や司祭の役務と信徒の役割は前者に、個々人の信仰を深めることや、それぞれのタレントを生かして自由に繋がりながら活動することは後者に固有の役割です。そしてどちらも大切です。そして両者をごっちゃまぜにして考えては、話が混乱するばかりです。

そうしてみると、教会共同体は誰のものでしょう。当然、それは主イエスのものですが、同時にキリストに従う、同じ神に「一緒に奉仕する仲間」全員が、この共同体の存在に責任を負っている言うことではないかと思うのです。もちろん、この世の組織としての運営において司教や司祭が負うべき責任は多々あると思います。典礼の執行や秘跡の執行に司祭は欠かせません。しかし同時に、キリストの体としての共同体を存続させていくための責任は、ひとり聖職者だけのものではなく、キリスト者すべてのものに違いありません。その意味で、例えば召命を祈り求めることは、単に聖職者が後継者を捜しているなどという類の話ではなく、根本的にはキリストの体としての共同体が、自らの中で司祭の役割を担う仲間を見いだしていくという、共同体全体の責任ある行動です。司祭の高齢化が進み、ミサをたてる神父がいなくなるから、教区で何とかして欲しい、という類の話ではなく、キリストの体全体で祈り求めていく問題であり、解決の糸口を探る問題です。また若者が、教区や小教区の枠を越えて(もちろん、大都市部で人口が集中している地域と、そうではない地域では話が異なるのですけれど)、横の連携を持って自由に活動しようとしていることも、キリストの体としての共同体にとってはふさわしいことだとも言えるでしょう。共同体の役割や活動について考えるとき、今自分はどの共同体を問題にしているのか、考えてみる必要があります。そして同時に、共同体について考えるとき、自分はしっかりと両方の側面を見ているのかを考えてみる必要もあると思うのです。いろいろと考えさせていただいた青年の集いでした。

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