« 教皇様との写真 | トップページ | 花園聖ラファエル幼稚園 »

2006年10月24日 (火)

アジア宣教大会とは?

Img_0592 昨日に続き、閉幕したばかりのアジア宣教大会をふり返ってみたいと思います。まず第一に、参加した日本代表団の多くが感じたところですが、短い日程(木曜朝から日曜昼まで)に多くのプログラムが詰め込まれており、超過密日程で、ついていくのが、心身共に正直大変でした。なんと言っても、朝のミサが6時に開始です。しかもミサの前には優に30分はかかる朝の祈り。これがまた、シンボルが多用されて、それを厳かに運び込んだりと日本でならばちょっと恥ずかしくてしないような装飾と演出に充ちた祈りです。それが終わってやっとミサ。これまた枢機卿司式で説教付き。(写真は二日目のミサの拝領で聖歌を歌う日本代表団)やっと7時半過ぎに朝食にありつくと、もう、8時半にはアニメーションが始まります。この「アニメーション」、何のことかと思いきや、歌と踊りで体を動かして、心身共に盛り上げようという30分です。その後、基本的には12時半の昼食までノンストップ。休憩も時間がもったいないから(というよりも、千人が会場外へ休憩に出てしまったら、戻るのに時間がかかるので)スナックと飲み物が入った小ボックスが各自の手元に配布されるほどです。もちろん午前のプログラムが12時半に終わるわけもなく、昼食は1時頃にずれ込みます。ところが休むひまもなく2時からはグループディスカッション。全体を50人くらいずつのグループに分け、さらにこれがそれぞれの会場で5グループくらいに分かれて、一斉にわかちあいを行いました。引き続いて5時からはその報告会。さらに5時半から7時までは、その日のテーマについての神学者によるふり返りの講演。そして7時に夕食。これで終わりかと思いきや8時半から10時頃まで、今度はミュージカルやらロザリオと聖体礼拝やら。とにかく朝6時から夜10時までみっちりであります。さすがに参りました。

Img_0598 午前中のプログラムは、基本的に一日目は基調講演(フィリピンのルイス・タグレ司教。アジアでは超有名な若手神学者とのことで、確かにお話は上手でした)、二日目と三日目は信仰についてのわかちあい(つまり、いわゆる「あかし」です)ということで、アジア各地の何名かの方が登場して、テーマに基づいてそれぞれの信仰についての体験を物語りました。日本からはドミニコ会の田中神父様も今回招聘されており(写真は語る田中神父様)、諸宗教との関わりの中での自分の信仰について、結構難しいお話をされました。この「あかし」の時間は、アジアにおける諸文化に、物語を語って聞かせるという特徴があることを強調して、その証左として今回いくつも行われましたが、言ってみれば伝統的なカトリックにとってはなじみのない事柄です。プロテスタントの教会などでは、「あかし」が行われるところも多いと聞いたことがあります。しかし基本的にミサの司祭による説教が中心のカトリックでは、入り込む余地があまりなかったのかもしれません。そのためか、物語ると言うよりも学校の授業のような話になってしまう担当者も少なからずあったのですが、しかし中には本当に耳を傾けさせるすばらしい物語者がいたことも事実です。私自身も、自分の「イエスの物語」を、体験に基づいて自信を持って語れるようになりたいと思いました。

Img_0670 それぞれの日にはテーマが定められていました。第一日目は「アジアの人々におけるイエスの物語」、二日目は「アジアの宗教におけるイエスの物語」、そして三日目は「アジアの文化におけるイエスの物語」、最終日が「アジアの教会の営みにおけるイエスの物語」でした。(写真は最終日のミサで、宣教の十字架を各国代表に手渡すセペ枢機卿)このテーマは、FABCの基本的な宣教に対する考え方、つまり「人々、文化、宗教」という三つの側面における「対話」による宣教がアジアでは不可欠だという考えに基づいています。基本的に宣教はすべてのキリスト者に対する使命として与えられているのは今更言うまでもなく、そうであればこそ、それぞれの置かれた立場や環境に応じた宣教の方法を考えねばならないのは当然です。そして今回の大会で繰り返されたのは、アジアにおける文化や他宗教との関係を考えるとき、キリスト者はその生き方を通じてイエスの物語を語っていかねばならないということ、そしてその物語はどこかで聞いてきた物語ではなく、自分の体験に基づいた物語でなければ何の説得力もないということ、そして物語ることは一方的ではなく相手への尊敬を持った対話の姿勢でなかればならないこと、というあたりでした。

つまり、これは私自身が共同体づくりの話の中でいつも申し上げることでもありますが、基本的には共同体づくりは宣教に直結しているのであり、それは一人ひとりの回心でしかあり得ないということ、つまりみんなの集まりをどうにかすることの根本に、一人ひとりの信仰における新たな目覚めとより深い理解と体験がない限り、何も起こりようがないと言うことであります。今回の宣教大会はこのことを再確認させてくれました。そして私が感じるのは、残念なことに、このアジアの中で一番社会の宗教性が失われている日本でImg_0687c_1 は、宗教的なことがあまりにも個人の内面の問題として捉えられてしまっているために、教会においても、その個人の内面の問題が実は共同体(目に見えるものも見えないものも含めて共同体)の根本にある、基礎にあるということが意識されにくいことであります。なんと説明して良いか感覚的なこともあるので分かりませんが、つまり誤解を恐れずに言えば、個人の内面的な問題だからと言って「自分の勝手な信仰」になってしまっているということです。個人の内面の信仰は共同体の信仰と不可分であるという意識を持つことが難しい、そういう社会の環境であるということです。今回の宣教大会に参加していたアジア各国の人が、本当に信仰を体で喜びを持って表現するのを、本当にうらやましく眺めました。(写真は会場となったチェンマイのロータスホテル遠景。赤丸の中

|

« 教皇様との写真 | トップページ | 花園聖ラファエル幼稚園 »

司教の日記」カテゴリの記事