« ローマから・その7 | トップページ | あぁぁぁぁ、京葉線 »

2006年10月 2日 (月)

糸魚川教会堅信式

Img_0450 あっという間に、10月になりました。昨日1日の日曜日は、糸魚川教会で堅信式を行いました。10名の小学生と2名の大人のかたが堅信の秘跡を受けられました。主任司祭のドミニコ神父様(フランシスコ会)は、かつてシンガポールや台湾や香港で働いて、50代になってから日本で働き始めた方で、70を超える今でも精力的に動き回る非常に活動的な神父様です。神父様と信徒の方々の協力もあって、この地域にも多数おられるフィリピン人の奥さん達も教会へ集まるようになり、堅信式でも何名かはフィリピン人の奥さんだったり、その子供さんだったりしました。現在の新潟教区の現実を、象徴的に表している堅信式であったと思います。糸魚川教会は小さな共同体ながら、堅信式後の食事をわかちあいながらの集まりでその雰囲気が感じられるように、それぞれのメンバーが、仲間としてのつながりを意識した本当の意味での家族的な教会であります。

Img_0467 仲間といえば、この日曜日の福音も、「仲間」についての教えだということが出来るかもしれません。ちょうど先週、そんなお話を聞くことが出来ました。先週は、軽井沢のクララ会修道院を会場に、さいたま教区と新潟教区司祭の合同黙想会が開催されました。指導いただいたのは、東京教区の雨宮神父様です。雨宮神父様は聖書学者として、教育テレビなどにも出演されるので、広く知られている方です。聖書の箇所を、その構造の分析から探り、一番中心となるところを探り当てていくという手法には、興味深いものがありました。私は水曜日の朝にローマから戻ってきてそのまま軽井沢へ出かけたのですが、残念ながら木曜日には再び東京で会議などもあり、今回の貴重なお話を聞き逃してしまいましたが、最後の日の、「仲間」についてのお話は聞かせていただきました。

難しい聖書の解説は雨宮師にお任せするとして、結論は、聖書に言う「仲間」は趣味や利害や思いや意見が一致しているから一緒になっているのではなく、同じ神に仕えるからである、一緒に使えているから仲間なのだという話でした。日曜日のマルコの福音(9章38以下)も、「私たちに従わないので、やめさせようとしました」という弟子の言葉、つまり「我々のグループの一員ではないという意味での仲間ではないから」という弟子の言葉に対して、イエスは「わたしたちの味方」という言い方で、まさしく同じ主に使えるものは「仲間」であると宣言されます。

私たちはどうしても見に見える繋がりに捕らわれます。目に見える関係に拘泥します。形が欲しいものです。しかし教会共同体は、同じ主に仕え、同じ福音を頂き、同じ神に仕えているからこそ、お互いが仲間として繋がっているのであり、実際に目に見えるかたちでの仲の良さとは異なる次元の存在です。私たちにとって、教会共同体のあり方について、様々にふり返らなければならない点はあれども、まず一番大切なことは、本当に同じ主に使えるものであるかどうかという点なのかもしれません。特に様々な理由から、現実問題として日曜日に教会という場所に共に集うことが難しい人が増えている現在、目に見える集まりとしての仲間の事も大切ですが、それ以上に、一番根本にある信仰における繋がり、同じ主に一緒に使えているのだという意味での仲間意識を強くすることも大切だと思うのです。

|

« ローマから・その7 | トップページ | あぁぁぁぁ、京葉線 »

司教の日記」カテゴリの記事