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2007年1月20日 (土)

知らざるを知らずとなす。これ知るなり

新しい年が始まってまだ三週間だというのに、昨年末からの十数日間の間に、私たちの国では空恐ろしい事件がいくつか起こりました。昨年を象徴する漢字一字は「命」でしたけれど、まさしくその命が様々な出来事で奪われていきました。かなり以前から天然ガスへの転換が進んでいる今のこの国で、都市ガスが漏れたために複数の人たちが突然その命を奪われるなどという、21世紀の日本とはとても思えないような事故もありました。もっとも今の日本という国が、人と富を都市部へどんどん集中させる方向に流れていることを考えれば、21世紀の日本だからこそそのような事故が起こるのかもしれません。

 命を奪う出来事の中には、その尊厳をおとしめるような残忍な仕方で実行された殺人事件も複数ありました。その事件そのものは本当に悲しい出来事ですし、それによって大きな悲しみを心に抱くことになってしまった親族や友人の方々の苦しみを思うとき、同じような事件がまた起こらないようにと祈らずにはおられません。

 事件そのものの背景を深く探ることは、再発防止のために不可欠であろうと思います。あの夫婦の間での殺人事件では、DVが背景にあったのではないかとも言われています。もしそうであるならDVの被害者を保護するシステムが、果たして十分であり、また機能しているのか、ふり返る必要があるでしょう。ただ背景を探るといいながら、その範囲をはるかに逸脱して、犯人として逮捕された人物を、特別な極悪人というイメージへ出来る限り近づけようとする作業はやめにならないものでしょうか。

 数日前に富山で、強姦の罪で逮捕され有罪となり服役した人物が、実は無実であったことが分かったという話がありました。この人物が逮捕された時に、どのような報道がなされたのかは知るよしもありませんが、もしその時に他の大きな事件がなければ、いかに極悪人であったのかというイメージづくりの作業が行われたのかもしれません。でも、実際には無実だった。しかも捜査側は、十分に自信があって逮捕起訴に持ち込んだわけではなく、捜査が不十分であったとまで認めている。仮にこの人物のイメージが、つまり人としての尊厳が、逮捕された時点で粉々にされていたのなら、それを取り戻すことは至難の業ではないかと思ったのです。まわりでそのイメージを「楽しむ」マスは、単に一過性の情報としてそれを忘れてしまうのでしょうが、その対象となった本人は、簡単にそのことを忘れることはできないのではないかと思うのです。

 今回も、電話での会話のテープまで出現して、イメージが創られていく。もしかしたら本当のイメージかもしれないし、もしかしたらそうではないかもしれない。そもそも一度も出会ったこともない、話したこともない人物が、極悪非道な人間なのかどうか、私が知っていること自体があり得ないはずなのに、いつの間にか知っているような気分になっている。そのこと自体がおかしいことに、気がついておくことは大切だと思います。

 自分で探し出したり体験した確実な情報がないにもかかわらず、誰かが語るさらに誰かについての情報を元に、あれこれと大騒ぎする様をしばしば目にするとき、その嵐にさらされる本人の人間としての尊厳が、ずたずたにされる様を見ている思いがして、とても悲しくなるのです。自分は、知らないことを知るわけがないと言うことを認めることは、大切だと思います。「知らざるを知らずとなす。これ知るなり」。孔子の言葉でした。聖書にも、「主を畏れることは知恵の始め(箴言1:7)」とあります。自分の知恵なぞはるかに超えた神の掌の中に、小さな存在として自分はあるのだという謙遜さを持ちたいと思います。

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