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2007年2月14日 (水)

裁量権

 16年間日本で暮らしてきたイラン人の一家が、オーバーステイであったために強制退去になるというニュースが注目を浴びています。特別在留許可に期待をかけたもののかなわず、裁判に訴えたものの、地裁では勝訴したが高裁でひっくり返り最高裁では実質的に審理にはいることもなかったということでした。

注目を浴びているのは、お嬢さんが日本で短大に合格していたことであり、かつそのお嬢さんがこれまでの人生の大半を日本で過ごしてきたという事情から、今更まるで異国である「祖国」に戻すことはないだろうという視点からの関心を呼んだからでした。そして報道によれば、家族の帰国を条件に、お嬢さんの「留学」は認められることになりそうです。これを良い話と感じるのか、悲しい話と感じるのか、法律を厳格に守るのは当然と見るのか、不公平と見るのか、それには様々な視点があろうでしょう。ただ私が、こういう話を耳にするときいつも何となくしっくりこないのは、法務大臣の「裁量」という言葉です。

今回も法務大臣の裁量で滞在が許可されそうになったと言います。うむ、人道的な判断をする、優しい法務大臣の「裁量」が下されまして、なかなか良い話、なのでしょうか?つまり、お許し頂いた大臣には確かにありがたいものの、それほどまでに裁量権に幅のある大臣とは、ちょっと恐ろしい存在だと思うのです。法律ではそう決まっているものの、私の大きな心で許してやるぞと、法務大臣が幅広く判断することができるということ自体が、どうも納得できないのです。別に四角四面にすべて細かく法律通りがよいといっているのではなく、確かに何らかの救済措置として裁量権の範囲は広い方はよいのは当然としても、それは伝家の宝刀として残されるべきもので、そうそう簡単に顔を出すべきものではないように思うのです。根本的には、裁量権に頼らなければならないような事態が続出するのであれば、その状況を生み出している制度なり運用方法なり、または法律自体に何か問題があると考えるべきであって、一大臣の裁量にすべてを任せるようなものではないのではないか。制度や運用や法律に不備があっても、一度決めたことはなかなか変更せず、なにやら御慈悲の裁量権で処理してしまって良しとしていることは、その「裁量」が善の方向に向かうときはよいものの、当然逆も真なのですから、反対方向に「裁量」が働く可能性もあるのですから、ちょっと恐ろしいではありませんか。

よく言われる難民認定の問題にしても、難民条約上はどう見ても難民であるにもかかわらず、国内法的に認定される数は少なく、認定しないで送還するのかと思いきや、裁量権で特別在留許可を出して、実質的に受け入れることが少なくありません。実質的に受け入れるのだから、一見その裁量権による判断は良いことに見えてしまうので批判されることも少ないのでしょうが、しかし、実際に必要なのは難民認定の制度の根本です。殊に「人道」に関わる事柄で、なるべく伝家の宝刀を抜かなくても良いような国家になって欲しいと思うのです。

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