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2007年2月 1日 (木)

男と女

柳沢厚生労働大臣の講演における発言が、大きな政治問題となっています。政治的責任に関しては、政治に考えていただくとして、その発言に現される心情を考えてみたいと思います。これは私の講話のいつものネタの一つですから、あまり詳しくは書きません。

人間には生物学的な意味での男女の違いと共に、心のあり方においても男女の違いがあります。そしてそれは必ずしも一致するとは限らないのがふしぎなところです。

2001年に沖縄で、米軍兵士による女性暴行事件があったとき、事件を報道するフジの夕方のニュース番組で、キャスター氏(男性)のコメントをたまたま耳にしました。偶然つけたテレビで見たことですから、正確な引用ではありませんが、思わずびっくりするようなコメントでした。概ねこういう内容でした。「大変不幸な事件ではあったが、地位協定見直し問題などにおいては日本側に有利に働く幸いな事件となるかもしれない。」このコメントに対して、番組中すでに40を越える抗議の電話があったと、翌日新聞に掲載されていたのを憶えています。番組の最後には本人によって、不適切なコメントについての謝罪がありました。

このコメントを耳にした瞬間、「これはよろしくない」と、誤解を恐れずにもっと俗っぽい言い方をすれば、「まずい」と思いました。ところが翌日、複数の女性たちと話をしている中でこれについて触れると、彼女たちの多くは「まずい」とは思わなかったというのです。そうではなくて「なんて酷い」と思ったと言います。ステレオタイプ化して、すべてがそうだとは断定できないものの、世の多くの男性は、このコメントを批判的に見ながら、どこを見ているかと言えば、発言者の存在であります。発言者の社会的位置であります。発言者の社会的規範における位置づけであります。

ところが女性たちの多くは、発言者の言葉のその先にいる、犯罪の被害者である女性自身を見つめているのであり、被害を受けてずたずたになった心を見つめていたのではないかと思うのです。

あえて言えば、「よろしくない、まずい」と感じる世の多くの男性の判断基準は、社会組織を支えている価値観であり、組織における人間関係の論理であり、社会規範であり、「おかれている立場を考えれば、非常にふさわしくない発言であり、それによって何らかの責任をとらされるべきものだ」という意味で「よろしくない」のでしょう。しかしそれに対して「ひどい」と感じる女性の思いは、キャスター氏の発言のさらに向こう側にいる被害を受けた女性の心の痛みに目を向けている。「こんなにひどい仕打ちを受けた女性の心の痛みを慮ることはできないのか」という意味で「なんてひどい」なのでしょう。

そして今回の厚生労働大臣の発言も、問題の根幹はここにあると思うのです。発言された言葉について、ここで言う意味合いでの「男性的」な視点の判断と「女性的」な視点の判断は、全くすれ違っていて、責任の取り方についての明確な結論が出ないのです。野党のある女性議員が、「女性の代表として」大臣の責任を追及していましたが、私は、その意味では「女性として」責任を追及すると言うより、「人間として」どうであったかを真摯に思い直していただきたいと思いました。特に現在この方が担っている職責は、まさしく人の存在自体に関わる厚生労働大臣です。

イエスご自身の視点は、徹頭徹尾、ここでいう女性的な視点だと私はいつも感じています。この世の決まり事や常識によってがんじがらめにされた立場にいる人々の、一人一人の心に思いを馳せ、心を慮るイエスのまなざしを、福音書の随所で感じることが出来ます。この世の常識や価値観に捕らわれ、そればかりを優先し、本当に大切なこと、つまり人の心に目を向けない多くの人たちを目前にして、深く嘆息するイエス。そんな姿が、福音を耳にするとき、目に浮かびます。
 
ヨハネ福音12章にこうあります。(新共同訳から引用)
12:1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。 12:2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。 12:3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 12:4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。 12:5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。 12:7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。 12:8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

ユダの視点はひじょうに「男性的」視点です。常識的に考えれば、そんな無駄なことをするより、売り払って施せとは、私なんかも思わず口にしそうな言葉です。でもイエスのまなざしは、徹底的に、この女性の心の悲しみへと注がれているのです。「彼女の心の悲しみが、おまえには分からないのか」という、イエスのまなざしの語りかけが聞こえてくるような気がします。自戒の念も込めて、自らのまなざしが、イエスのまなざしに近づいているのか、自らの言動をふり返りたいと思います。

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