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2007年3月10日 (土)

放蕩息子

四旬節第二週の土曜日にあたる今朝のミサ。福音の朗読は、ルカにある、いわゆる「放蕩息子」の話でした。ゆるす事ってとても難しいことですよね。特に深い傷が心に刻み込まれてしまっているときに、「ゆるしなさい」などと言えるだけの心の力を私は持っていません。ですからこの「放蕩息子」の話で言い表される「ゆるし」が万能薬のお話だというわけではありません。ただ、神と人間の関係についてイエスが何を考えておられたのか、その心に少し触れたいと思うのです。

よく考えたら、このお父さんはすごい人ですよね。財産の半分を持って行ってそれをすべて食いつぶして、帰ってくる息子をああして迎えるのですから。それに、後半で心底怒っているお兄ちゃんの怒りはごくごく常識的な反応です。どう見たって「不公平」ですから。この話を表面的に読めば、すべてを水に流し、怒りを忘れ、過去を問わずにゆるすことが大切だなどというお話になってしまいそうですが、もちろんそうではない。私は次の二つの部分が大切だと思って読んでいます。

『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』

『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ』

人は共同体の交わりの中でしか生きていくことは出来ないのです。神を中心とした交わりに連なっているとき、「生きている」のです。自分だけの領域があるはずだと勝手に判断し、自己中心的な領域を確保しようとするとき(最初の弟の言葉)、人は交わりから飛び出し、「死んだ」ものとなるのです。だから「ゆるし」は、水に流して忘れることではなくて、交わりのうちに存在を取り戻すことなのです。共同体の交わりに連なっていなければ、命を得ることはないのです。だから教会は、ことあるごとに共同体の大切さを説くのです。私たちの信仰は、個人の領域に切り取って仕舞い込んで生きることは出来ないのです。物理的に繋がっていることよりも、心の領域の問題です。

もちろん交わりに立ち帰るためには、かつて自分が自己の領域を確保しようと身勝手な行動に走った事への自覚が不可欠です。それから、お兄ちゃんの怒りへの対応がこの話には欠けています。つまりこのあと弟がどうなったかが書いてありません。交わりへ再び迎え入れられる事による「ゆるし」が、お兄ちゃんの怒りを形成する社会的責任を免除してくれるとは思いませんから、弟は生活の中で何らかの責任をとらされたのかもしれませんね。水に流すだけでは、新たな関係を築き上げることは出来ません。現実は正面から立ち向かわなくてはならないでしょう。でもそのときの判断のよすがは、断たれた関係を新たに築き上げることであり、罪に定めることで責任をとらせることではないし、水に流して不問にすることでもない。やっぱり、難しいですね。

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