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2007年3月 6日 (火)

鈴(りん)のひびき

Seishu07031 姿勢を正して、呼吸を整えながら、吐く息に意識を集中させると、「鈴(りん)」が一打ちされ、澄み切った音が余韻を引きながら、心を落ち着かせてくれました。

昨日夕方から本日の昼にかけて、教区司祭団の四旬節静修が新潟教会で行われ、内観瞑想を深めておられる大阪教区の藤原直達神父様にご指導を頂きました。内観は、あの法令違反の改造で有名になったビジネスホテルチェーンの社長(現会長)が心酔していることで一般に名前が知られた精神療法的な自己発見の手法ですが、もともとは浄土真宗の伝統的な修行である「見調べ」に端を発する非常に宗教的な黙想の方法であるといわれます。

キリスト教にはすでに「罪の糾明」というものが存在しているから理解しやすいような思いがしましたが、一人静かに孤独の内に、「していただいたこと、お返ししたこと、迷惑をかけたこと」の三つの視点から自分の過去を調べていくのだと言うことです。自分を見つめ直す内に、自分の感謝の足りなさ、受けた愛を悟らない足りなさなどに気付き、感謝と悔い改めのうちに、対人関係が改善されていくということです。藤原神父様は屏風で仕切られた中で座ることを勧めておられます。集中内観は一週間行われると言うことで、藤原神父様の主宰される大阪にある「心のいほり・内観瞑想センター」では、全国各地でこの黙想会を開催されています。詳しくは同センターのホームページまで。http://www.com-unity.co.jp/naikan/

Seishu07032 今回の静修は二日でしたし、内観について詳しく伺うのも初めてでしたから、実際に体験するよりも、「いったい内観とはなんぞや」というお話を伺いました。また呼吸法については実際に行いました。吐く息の中に三位一体の神の存在を感じながら、心を落ち着けることが出来た気がします。確かにキリスト教はロゴスの宗教ですから、語ることは重要ですし、文字にされた文献の存在も重要です。共同体づくりでも、「わかちあい」という名前の「語り合うこと」が重要視されていますが、ともすれば言葉のやりとりに心がおぼれてしまう嫌いもあります。私たちの信仰には、必ずや「静と動」の側面があり、「個」の信仰が確立されて初めて「全体」が成り立つのだと思います。どうしてもどちらかにばかり目がいってしまう。イエスご自身がその活動のさなかで、必ず弟子を連れて祈りのために身を隠されたという話が福音書にはありますが、同じように機会を見つけて自分自身を静かに見つめ直すときは、信仰生活の上で不可欠であろうと思います。(写真は藤原神父様と神父様が持ち歩く鈴)

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