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2007年3月18日 (日)

青山教会黙想会

四旬節第四主日の今日は、新潟市内の青山教会で四旬節の黙想会を行いました。今日の朝の講話は、なんと8時に開始。雪もちらつくとても寒い朝となりましたので、朝早くから教会で出かけてくるだけで、皆さん大変でしたでしょうが、聖堂はほぼ一杯でした。冬の寒い日曜に、普段より一時間も早く教会へ出かけたこと自体が、四旬節の良い「おささげ」になったと言えるやもしれません。

今回は主任司祭のラウル神父様にそのように依頼されたこともあり、「聖書のわかちあいとはなんぞや」という事を中心に話をさせていただきました。またそれに絡めて、先日FABCとバチカンの福音宣教省主催で、タイで開催されたアジア宣教大会で学んだことも話させていただきました。

アジア宣教大会においては、自らの信仰体験を通じてイエスの物語を「語って伝えていく」ことの重要性が強調されました。またその実践として小グループによる「わかちあい」が中心行事となりました。かつて南米の教会から始まった基礎共同体の動きは、アフリカへ入った段階で今や伝説的存在となった南アフリカのルムコ研究所によってアフリカの現状にあわせる形で霊的に深められ、手法が確立されていきました。キリスト者小共同体育成の中心にあるのは、「聖書のわかちあい」です。

問題は教会が教会自身をどのように理解しているのかという神学的考察であり、その理解に基づいて具体的な現れとしての典礼があるのであり、また具体的な様々な活動があるのです。その一つが「わかちあい」という共同体づくりの手法です。すなわち、どれかの手法が唯一独尊で正しいとか言う話ではなく、または過去はすべて捨て去って今だけが正しいなどと言うことでもなく、教会は常にイエス・キリストから始まって、長年の伝統に基づいて、今の自分自身のあり方にもっともふさわしい典礼や活動を絶えず生み出しています。従って、人間という限界がある存在によることですから、完成はないでしょうし、歴史のある一時点が一番正しいと言うこともあり得ないでしょう。教会の自己理解と切り離して、特定の一側面だけを取り上げ強調することには意味がありません。また今現在の神学において、教会がどのように理解されているのかという点を無視して、私たち自身のあり方を論ずることにも意味がありません。

さて、「わかちあい」には様々な方法があり、ルムコの7段階法はその中でも優れた手法であると思いますが、それとても絶対ではありません。神のことばが今生きていることを信じるのであれば、今耳にする御言葉に導かれて、心に響いたことを互いに言い表す中で、あらたなイエスとの出会いがあるかもしれないのです。原則は心に感じたことに素直になること、議論をしないこと、説教をしないこと、相手に耳を傾ける姿勢であること、またその場で聞いたことをそれ以外の場で広めないこと、などを守りましょう。良く慣れた司会者の存在も大切だと思います。これについては司会者のための手引きなどを作成する努力をしたいと思います。もちろんわかちあいの中での信仰体験は、聖体祭儀におけるイエスとの出会いによって深められなければならないのは、言うまでもありません。

今日は朝早くからの講話のあと、9時からのミサ、その後のゆるしの秘蹟と茶話会で、11時半頃までお付き合いいただきました。青山教会は若い世代にも明るい希望のある共同体ですし、今日の茶話会では大先輩の世代からも出来る限りの協力をするという力強い言葉もありましたから、これからも共同体の絆を深めて発展を続けていただきたいと思います。

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