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2007年4月 7日 (土)

聖金曜日07年

昨日は聖金曜日でありました。主イエスが十字架につけられて亡くなられ、墓に葬られたことを記念する日です。この日、ミサは行われず、特別に用意された典礼が執り行われます。新潟教会では昨晩7時から、主任司祭の大瀧師の司式で、聖式が執り行われました。

Img_3223 聖金曜日の典礼は、昨日から続き明日へと繋がる一連の中で行われますので、始まりの歌も言葉もありません。入堂した司祭は、ひざまずくかひれ伏すかして、しばらく沈黙を守ります。昨晩の新潟教会では、司祭は完全に床にひれ伏して沈黙の祈りを捧げました。その後、すぐに祈願が唱えられます。「祈りましょう」も言いません。朗読のクライマックスは、ヨハネによる受難の朗読です。受難の主日と同様、三人の朗読者と会衆の参加もあって、あたかも再現劇のように行われます。なぜなのかは分かりませんが、私は小学校に通っていた子どもの頃、この朗読を耳にして、ある部分がとても心に残ったのを記憶しています。それは「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている」というところで、この物語の迫真性をなぜかこの言葉で悟ったのでした。

大瀧神父様の短くもしかしはっきりとした説教のあと、盛式共同祈願がありました。招きの言葉をフェルディ師が歌い、引き続いて大瀧師が祈りを唱えました。ミサ典書には縦書きの祈りの言葉の右横に、音程が小さな黒丸の数で示してあります。何もついていないと「ソ」。一つで「ラ」。二つだと「シのフラット」です。この表示システムはかなり便利な発明であると思います。ほとんどこの三つの音で推移するのですが、実はまったく外から音をもらわずにこれを歌い出すのはかなり難しいのです。司祭になる人が全て音楽に秀でているわけもなく、ましてや日本語を母語としていない司祭にとっては、かなり練習を必要とする歌でもあります。ですから昨晩は全国の教会で、様々な招きの言葉の歌が聴かれたことだと想像します。

Img_3237 さてそれが終わると十字架の礼拝です。十字架を顕示するには、覆いで隠して三回に分けて少しずつ覆いをとっていく方式と、覆いなしで聖堂のなかを行列しながら三回にわたって高く捧持する方式があります。ここで三回歌われる歌は、伝統に従ってこれまた一度ずつ高くなっていきます。この一度ずつというのが、難しいんですね。「見よ、キリストの十字架、世の救い」と歌うのですが、一度目をあまり高く始めると三度目の「世の救い」が絶叫調になるし、かといってあまり警戒して一度目の「見よ」を低く始めてしまうと、それはそれでぼそぼそになるし。昨夜の新潟教会は行列しながら高く捧持する形式をとり、フェルディ師はかすかなオルガンの助けもあり、無事三度を歌いきりました。(下の写真が、ミサ典書の歌唱指示の一例です)

Img_0905 その後御聖体が運ばれてきて主の祈りを唱え、聖体拝領が行われます。そして拝領祈願ともうひとつ、会衆のための祈願(祝福と派遣)があり、また沈黙のまま聖金曜日の典礼は終わりとなりました。

聖土曜日は唯一典礼の儀式が存在しない日です。そして日没後、典礼上は翌日ですから、御復活の徹夜祭が行われます。新潟教会では午後7時から私が司式で行いますし、ミサ中には5名の方の洗礼式も予定されています。今夜のミサは聖堂の玄関口で真っ暗にした中で、光の祭儀から始まります。正面玄関はそのために閉鎖されますので、お早めにおいでになるか、左右の入り口をご利用下さい。また復活は私たちの信仰のもっとも中心にある大切なお祝いです。参加できる方には、ご自分がその一員である小教区共同体の中で共に祝うことはとても大切なことです。信仰は自分一人のものではなく、小教区の共同体の絆の内に存在しているからです。また様々な理由から参加できない方も、心において一致を心がけるようになさってください。

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