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2007年9月 4日 (火)

神のことば

10数年前、まだガーナの教会で働いていた頃、高校へ通っていた村の子どもたちが、しばしば「Bible Knowledge(聖書の知識)」の「成績」について語り合っているのを耳にしました。聖書の知識の成績とはなんぞやと、最初は訝しく思ったものの、当時、高校を卒業してさらに上に進むための資格試験であったGCE(教育一般証明書とでも訳すのでしょうか)という共通試験の科目には、立派に「聖書の知識」があったのです。道理で、村の子どもたち、中でも侍者団が集まると、すぐに聖書クイズを始めるわけです。その頃ちょうど、非常に原理主義的聖書解釈をするグループの信徒たちが、カトリック教会へやってきては聖書論争を挑んでくることがあったので、知識として聖書を知る、すなわちこの場合は、優れて字面を知っている、詳細に聖書を記憶しているという事が、信仰にどれだけ寄与するのか疑問に思ったものでした。とはいうものの、そういった人たちの、聖書の読み込みと記憶への努力には、尊敬するべきところがあったと思います。私の教会の信者さんたちもそれに触発されて、かなりの程度で聖書を読み込んだものですが(ただし、英語が出来る人。現地語の聖書はなかったので)、ある時私のカテキスト氏が、信徒の土地相続にからむ境界線争いの仲介に入って、やにわに聖書を取り出し、旧約聖書の一節を読み上げたときには驚きました。曰く、「昔からの地境を移してはならない。先祖の定めたものなのだから(箴言22章28節)」

聖書はコンテキストを無視して一部だけを取り出せば、どんな荒唐無稽なことでも正当化することが出来ます。勿論、聖書は何か自分の都合に合わせて自らを正当化する根拠として使うべきものではさらさらなく、まず聖書に記された御言葉があって、そこから今を生きる私たちが何かを教えられ導かれるのです。被造物たる人間は、神の前で立場をわきまえなければなりません。

来年2008年10月5日から26日まで、バチカンで開催される予定の第12回世界代表司教会議(シノドス)は、まさしくこの「神のことば」についてのシノドスとされています。テーマは、「教会生活と宣教における神のことば」。事前準備資料の提題解説には、次のように記されています。

『このシノドスが深く望み、第一に目指すことは、聖書と聖体の内におられる主イエスにおいて、神のことばと完全なしかたで出会うことです。聖ヒエロニモはこう述べます。「主の肉はまことの食物であり、主の血はまことの飲み物です。それはわたしたちがこの世で得る唯一のよいものです。聖体だけでなく、聖書を読むことも、わたしたちに主の肉を食べさせ、主の血を飲ませます。実際、聖書を知ることから得られる神のことばは、まことの食べ物であり、まことの飲み物です』

『今回のシノドスの「目的」は、主として司牧的なものです。すなわち、教理的基盤を徹底的に検討することによって、神のことばとの出会いを広げ、強めること、またそのための方法を示せるようにすることです。こうしてキリスト信者とすべての善意の人びとが、神のことばを日々の状況においていのちの源として体験し、また、真実の可能な方法を用いて神のことばを聞き、神と語り合うことができるようになることです』

日々の生活の中で、仮に聖書を手に取る時間がなかったとしても、せめて日曜日の典礼で神の御言葉に触れましょう。典礼において繰り返し繰り返し私たちに語りかけられる神のことばには、「日々の状況においていのちの源」となる力が秘められているはずです。単なる知識の習得としてだけではなく、時には祈りのうちに、ただ単に、そしてただ素直に、聖書を読み、その言葉を味わってみたいものだと思います。

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