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2007年9月25日 (火)

まだまだサンスルピスにて

Img_2211 日曜の夜からはじまったサンスルピスの神学生黙想会は、やっと三日目が終わろうとしています。すでに日曜の夜に1回と昨日と今日がそれぞれ2回。加えてミサの説教がすでに2回。6回も話をしているではありませんか。プロの黙想説教家というのは、本当にすばらしい存在である感歎の内に実感しています。よくもまあ一週間も話し続けるだけの題材がある事よ。そもそも私にはそんなに話すことがたくさんあるわけではありませんし、しかもだらだらと何でも話せばよいと言うわけでもなく、一週間を通じてある一本の筋が通ったテーマでの統一が必要でしょうから、いくら引き出しがたくさんあるといわれても、どの引き出しに何がはいっているかがだんだんわからなくなってますから、大変です。子供の頃から整理整頓が不得意でしたから。

将来の教区司祭として日本の教会を背負っていくことになる神学生たちに伝えたいことは、基本的にそんなに多くはありません。もちろん良い神父になってほしい。でもそれは個々人の努力でカバーできる領域です。そうする気があるかどうか、その必要に気がつくかどうかが問題です。そしてその一歩を踏み出すためにも必要なのは、信仰にとって何が本質的であるかを見極めておくことであろうと思います。自分の心の根本にあるイエス・キリストへの信仰の本質は、一番大切なことは一体何なのか。昨年のアジア宣教大会はそれを「イエスの物語」と表現しました。私とイエスの個人的関係の確立に他なりません。それがなければ、良い神父になろうとする努力とか良い信者になろうとする努力とかは、ともすると知識の積み重ねと規則の遵守へと傾いていってしまいます。表面的にはそれでも何とか格好はつくことでしょう。でも私たちは、別に誰かのために信仰しているわけではないのですから、表面を取り繕っても意味はありません。信仰を見つめきるのはイエスご自身だからです。

神学生たちは今日の午後、すばらしい晴天のもと、美しいお庭で十字架の道行きをしていました。この荘厳なるサンスルピスの写真を見よ。食堂に厳然と存在する朗読台を見よ。もちろん食事は沈黙ですから、その間にこの朗読台から朗読される霊的読書に耳を傾けるのです。久しぶりに「アルスの聖ヴィアンネ司祭」の伝記を聞きました。小神学生の頃よく読んだあの独特の言い回しで書かれている、ちょっと大げさな形容にあふれた伝記であります。確かに聖人の幼少の頃の偶然の出会いや出来事は、神様が備えたものなのでしょうけれども、でもそこまで感動的に形容詞たっぷりに、「知るよしもなかった」などと書かれると、いまの感性ではちょっと大げさに感じてしまいます。それにしても、フランス語を普通に話していたヴィアンネ司祭が、あれほど徹底的にラテン語に苦しんだというのも、久しぶりに聞いてちょっと不思議に思いました。

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