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2007年10月19日 (金)

寒くなりました

落差が激しいと言いますか、今年は夏が非常に暑かった分、秋になって気温がどんどん転げ落ちていくような感じがいたします。ポーランドに住んでいる方から、初雪がどかっと降ったというメールを頂きましたが、さすがにそこまでは寒くはないものの、新潟でも朝晩にはエアコンの暖房が欲しいですね。つい数週間前まで、クーラーがなければ生きていけないなんて感じていたのが嘘みたいです。

次の日曜には新潟県の高田教会で堅信式の予定です。主任のマリオ神父様(フランシスコ会)の尽力で、必ず毎年、堅信式が行われています。今回も前日の明日土曜には高田教会へ出向き、夜に受堅者にお話をするチャンスを頂きました。実際の意味合いは多少違うのですが、堅信は大人の信徒として出発する日だというようなことをいつも話しております。

信仰者における信仰の深さを見極めることはまず不可能です。それはいわゆる「プロ」の「宗教者」の霊性を見極めることが困難至極であることと同じであります。外見で見分けることはできず、語る言葉から感じられる知性でも判断できない。見た目が整っているとか、いかにも宗教者然とした格好をしているとか、それらしいことを語るとか、お話が上手だとか、聖書の知識や神学の知識が深いとか、いろいろと判断基準はあるのでしょうが、でもそれを判断基準にしているうちは、本質は分かりません。神学生の養成に関わったことが数年間ありますが、とにかく「すること」とか「語る言葉」では、神学生の霊性は判断できないのです。単に品行方正で命令を良く聞く人物を選択するのであれば、そういった基準で判断できるのかもしれません。でも信仰の本質はそこにはない。最終的には、「人生をどう生きているのか」でしか、判断しようがないのです。そしてこの場合は、「人生を福音に基づいて生きているのか」ということが、判断の基準ではないかと思います。私の修道会の先輩司祭がかつて、「今池のど真ん中でも瞑想はできる、いやできなければ本物ではない」と語っておりました。「今池」というのは今ではそうでもないですが、かつては名古屋の歓楽街であります。さしずめ「新宿のど真ん中でも瞑想はできる、いやできなければ本物ではない」というところでしょうか。問題は中身なのです。そしてその中身、つまり他者の内面を識ることは、簡単ではないのです。

堅信を受ける方々も、またそれを共に祝う方々も、堅信式は自分の信仰をふり返る良い機会です。自分の生き方をふり返り、福音に基づいていると自信を持てるのか良く見極めてみたいと思います。また同時に、目に見える様々な外面的様相に惑わされて、兄弟姉妹を安易に裁いていないか、ふり返りたいと思います。

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