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2007年10月 9日 (火)

仙台にて

Sendai0701 日曜日に米沢教会を訪問したあと、仙台へ出かけておりました。スペルマン病院や仙台司教館がある小高い丘の頂上に、オタワ愛徳修道女会の本部修道院があります。その昔はこの一帯がドミニコ会の修道院だったとか。オタワの本部修道院も、かつては丘の上に建ついかにも修道院然とした建物であったそうです。いまではその修道院も、超先進的な現代建築になっております。そのオタワ愛徳修道女会の日本管区集会のために、土曜日から集まっていたシスター方に、昨日一日、お話をさせていただきミサを共にいたしました。管区長であるシスター木田から依頼されたのは、「イエスを証しする修道者」というテーマでした。これからの日本の教会の中で、修道者がどのように生きていくべきなのかというポイントを指摘して欲しいと。難しいテーマであります。

Sendai0702 いずこの修道会も召命が激減しており、共同体の高齢化と後継者不足に悩んでおります。しかしかつて人数が増えてきた頃に拡張してきた諸事業に対する社会的責任は増すばかりで、どうしても考えは消極的に、すなわちどうやって維持していくのか、どうやって縮小していくのかという内向きな道をたどり始めてしまう嫌いがあります。現実的になるならば仕方のないことかもしれません。しかし、そのような傾向があるとはいえ、それではいま、日本において、修道者として生きていくことにはどういう意味があるのか、積極的な方向を見いだしていかない限り、極論すれば、修道者である意味はありません。勿論、教会が必要だからという理由で修道者が修道生活をしているわけではなく、修道生活に意味があるからこそ、修道者は自らその道を選択しているのです。だからこそ、どうして自分は修道者であるのかという根本を、今どういう責務が教会内であるのかとか、事業の継続とか言う側面から切り離して、一度見つめ直してみる必要があるのではと思います。1994年10月に開催されたシノドスを受けて発布された「Vita Consecrata(奉献生活)」において、教皇ヨハネパウロ2世は、「現代世界は、しばしば現存のしるしを見失っているように思われます。このような世界にあって、奉献された人々の預言者的な強い証しはますます必要です。・・・預言のとりわけ説得力ある力は、福音の宣言と生活の一致から生じます(85)」と述べました。いま、修道者に求められるのは、「福音の宣言と生活の一致」を通じて、現代社会における「現存のしるし」であろうとすることだと思うのです。

昨晩は遅くまで、シスター方の大歌唱大会に一緒させていただいて、楽しい一時を過ごしました。お隣にお住まいの平賀司教様にも、教区司祭の葬儀などでお忙しい中、お会いすることが出来ましたし、すばらしい司教館も見学させていただきました。木の温もりのある素敵な司教館でした。教区本部とカテドラルまで、ちょっと遠いのが難かもしれません。(写真はオタワ愛徳修道女会本部修道院聖堂外観と聖堂内部)

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