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2007年11月11日 (日)

12年前の濱尾枢機卿

Hamao95zaire04 私が濱尾枢機卿と初めて個人的に出会ったのは、12年前のことでした。しかも出会った場所はルワンダと国境を接する旧ザイールのブカブという町です。94年4月のルワンダ大虐殺の後7月頃には、それまで長年にわたってルワンダを支配していたフツ族民族主義政権は崩壊し、虐殺の被害者側でもあったツチ族主導のルワンダ愛国戦線(RPF)による新政権が誕生しました。虐殺の責任を逃れるため当時の政権と政府軍は、民衆を盾にし巻き込みながら、近隣の国へ逃げ出しました。当時、200万を超える人がこのために難民となったのです。その難民キャンプの支援にあたるため、国際カリタスの一員としてカリタスジャパンも旧ザイールのブカブに人員を派遣していたのです。延べ18名ほどのボランティアが、94年10月から翌年5月まで派遣されました。私もその最後のグループの一員として、95年3月末から5月まで、ブカブに滞在しました。その当時のカリタスジャパンの責任者が濱尾枢機卿でした。

Hamao95zaire02 5月末にカリタスジャパンは現地から撤収することになり、ちょうど国際カリタスの総会に出席するためにローマまで来ていた濱尾枢機卿に、現地入りをお願いしました。当時カリタスジャパンの委員であった横浜教区の山口道孝神父が同行することになり、ブカブ入りが決定したとたんに、同じ旧ザイールのキクィットでエボラ出血熱が発生したのです。日本から見ればブカブもキクィットも同じザイールの町ですから、周囲は心配してブカブ行きを止めたらどうかと進言したそうです。ザイールが地理的に巨大な国であったため、ブカブまでは影響がなかったのですが、確かに心配されたことでしょう。でも濱尾枢機卿は来てくださいました。

ローマからケニヤのナイロビまで飛び、ナイロビで小型機をチャーターしてブカブへ飛ぶ。ケニヤの大草原を越え、ビクトリア湖の上を飛び、ルワンダの領域を超えての長旅でした。そして当時はそれが一番安全で確実にブカブへはいる道だったのです。

ブカブ入りした濱尾枢機卿はカリタスジャパンが担当していたビラバキャンプでの歓迎行事や難民のリーダーたちとの会合、難民高等弁務官事務所訪問、ビラバ小教区での難民と村人との合同ミサでの堅信式、国営放送のインタビュー、同伴者のいない子供たちのキャンプ訪問と、短い時間に様々なことを積極的にこなしてくださいました。(一番上の写真はビラバでの堅信式。二枚目はカリタスブカブの当時の責任者であったピエール・チバンボ神父と、カリタスブカブ支援の覚え書きにサインする濱尾枢機卿。なおチバンボ神父は現在、ローマの国際カリタス事務局で働いている)

Hamao95zaire01 その後、バチカンに呼ばれて移住・移動者司牧評議会議長に就任されたとき、秘書は私がガーナで働いていた時代に管区長だった神言会のアメリカ人司祭でした。彼によれば、その後の仕事の中で枢機卿は、この時のルワンダ難民キャンプでの経験を繰り返し語っていたと言うことです。私自身もカリタスの会議でローマへ出かける度に必ず食事に出かけましたが、そのたびに、ブカブからナイロビに帰るセスナ機が激しく揺れ続けて、濱尾枢機卿だけが何度も何度もあの頭を天上にぶつけて大変だった話になって大笑いしたものです。濱尾枢機卿は、ただ優しいだけではなく、その時その時に本当に大切なことは何であるかをしっかりと見抜く目を持った、偉大な宗教者であったと思います。(写真はブカブからナイロビへ飛ぶセスナ機の機内で。低い天井に濱尾枢機卿は何度も何度も頭をぶつけておられました)

明日の正午から、教皇様の名代として白柳枢機卿様が東京のカテドラルで葬儀ミサを司式されます。濱尾枢機卿が天国で永遠の安息に入られたことを確信しながら、その働きに対して感謝のうちに共に祈りたいと思います。

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