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2007年12月 2日 (日)

長岡での堅信式

Fukuzumi0703 待降節の第一主日、長岡の福住教会で堅信式を行いました。長岡には線路を挟んで表町と福住の二つの教会がありますが、主任司祭はブルーノ神父様お一人(フランシスコ会)ですので、今日のミサは両教会の合同ミサでした。そのため福住教会の聖堂は一杯になりました。加えて、浦佐にある国際大学の留学生たちも加わり、いつも以上の熱気となりました。というのも本日堅信を受けられた8名の中に、ケニヤ出身のソフィアさんという浦佐の国際大学で学んでいる女性がおられたことから、仲間の学生たちが駆けつけ、聖体拝領のあとにギターで歌を唄ってくださいました。堅信を受けられた8名の方々、本当におめでとうございます。これからも教会共同体の力強い一員として、力を発揮してくださることを願っています。

Fukuzumi0702 私自身がしばしば自分の文書でそう記しますが、今日の朗読にあったように、聖書には「時」という言葉が意味を持って使われています。聖書を読んでいる人たちにはこの使用法は当たり前のことですが、時計で計ることができる時間ではなく、「与えられた機会、チャンス」のような意味合いの「時」という言葉です。ある状況に、神の与えた意味があるという意味とでも言いましょうか。私たちが知らない「時」とは、まさしく歴史の中の時間としての一点がいつなのかを知らないと言うことではなく、その「時」は結局は神の御手の中にあるものだというような意味合いです。生活の中の様々な出来事、出会い、などなどを、信仰の視点からふりかえってみる事の繰り返しが、現実味のある神との関係を築きあげるために必要ですが、その時に、やはり、与えられた「時」をふさわしく生きたかどうかをもふり返る必要があるでしょう。「いつも目覚めていなさい」と繰り返される待降節のメッセージの本質は、常にピリピリしていなさいなどということではなく、与えられる「時」に敏感であれと言うことでしょう。一体私たちは、今、どのような「時」に生きているのでしょうか。

下の写真は、ブルーノ神父様ご自慢のクリスマス風景(あまりに規模が大きくて、もう「馬小屋」とは呼べません)の飾りです。本物の水が流れていたり、背景には6分で一回りするのですが、星が輝いたり、天使が舞い降りてきたり、驚きの力作です。

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