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2007年12月 4日 (火)

主を指し示す

Kc280001 神言会という修道会は名古屋の南山大学を中心に司祭の養成を行っているため、東京のことをほとんど知りません。そのため、東京で養成を受けている新潟教区の神父様方がよく知っている方を私がまったく知らないと言うことにもなる。あ、これ、言い訳です。というわけで、昨日、私は静修指導の神父様の名前を間違えて記してしまいました。イエズス会のアモロス神父様でした。失礼。イエズス会の有名所の神父様方を、私はほとんど知りません。それにしても結構多くの修道会が東京へ集中していますね。日本社会の象徴のような思いもします。地方の教区もどうか見捨てないでくださいね、ね。

アモロス神父様のお話にはいろいろと内容が詰まっておりましたが、なかでも、洗礼者ヨハネの生き方から学ぶことという点に、深く頷くところがありました。ヨハネのように、すでに人々の間におられる主の存在を、「指し示す」という姿勢。無知蒙昧の民に真理を教えてあげるなどと言う傲慢さではなく、主がそこにおられるのに、それに気がついていない人たちに向かって、主の存在を指し示す生き方。そういえば先日の神言会来日100周年の時に、秋田で市瀬管区長もこう話されていました。「宣教者が宣教地へ神を運んでいくわけではありません。宣教者が宣教地に着く前に、神はすでにそこにおられます。そこで宣教者がなすべき事は、すでにおられる神を見出し、共に喜び祝い、神の似姿に造られた人間として共に幸せに生きていこうと、呼びかけること。対話することだと思われます」

宣教の基本姿勢はこうなのだと教えられました。私たちも、教えるなどという姿勢ではなく、神がすでに用意されているのですから、謙遜に、そして勇気を持って、主の存在を指し示す生き方をしたいと思います。

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