« イエズス会総会長 | トップページ | ケニアから学ぶこと »

2008年1月20日 (日)

一致のために祈る

Icchi0802_2  キリスト教一致祈祷週間にあたり、新潟市では本日の午後、各教派が集まっての祈祷集会が行われました。すでに触れたように、今年は3回の集会が開かれることになっていますが、今日の日曜が中心集会と位置づけられていました。本日の日本キリスト教団東中通教会で午後2時から開催された集会には、各教会の牧師、神父を始め信徒の方々50名ほどが参加してくださいました。司式は同教会の牧師である原田先生(写真)。力強いメッセージを頂きました。集会の間にはカトリック側(?)の歌も一曲歌われたので気がついたのですが、いわゆる詩編朗唱(レチタティーボ)の歌い方が異なっているのですねえ。特にフレーズの終わりの収め方が決定的に違っている。レチタティーボという歌い方はグレゴリアンに特有というか、詩篇を歌って共に唱えるために昔の修道院で生まれてきた歌い方であって、高田三郎先生が典礼聖歌の作曲にあたって、しっかりとこれを取り入れて詩編の歌を作曲されているのですから、カトリックにとっては今では普通の歌い方になっているものです。先日の自動伴奏機と言い、他の教派に行くといろいろと新鮮な発見があるものです。集会後は、信徒の方々が用意してくださった豚汁でしばし歓談。楽しい一時でした。

Icchi0801 主イエスの体としての教会共同体が、一致することなくいくつにも分かれていることは、確かに福音が様々なレベルで隅々まで行き渡るために意味のある別れ方でもあったかもしれません。しかし同時に、同じぶどうの幹である主イエスにつながっている私たちが見事に分裂しているというのは、やはりどう見ても正しくはない。正しくはないと頭で理解できてはいても、現実に一緒になることが可能かと言えば、それはそれでとても難しい。とはいえ、最後には聖霊の働きを信じなければなりませんし、その方向へ向けて私たちは努力をしなくてはならないのだと思います。そもそも日本のような地においては、初めて足を踏み入れた教会で、そのまま信仰を得て洗礼と言うこともあるのですから、すでに出来上がっている分裂の歴史の中で、私たちの多くは本当に「たまたま」そこで信仰を得ていったのですから、どっちが正しくてどっちが間違っているなどと言う姿勢では、何も始まりません。社会における組織の問題もありますし、教義上の問題もあるでしょうし、伝統の違いもあるでしょう。でも同じ主イエスを信じる者として、できるところから力を合わせ、まだまだ福音に触れていない人があまりにも多いこの国で、共に福音宣教に励むようにしたいと思います。協力できることは多くあります。まずそこから始めなくてはなりません。

今日の福音は洗礼者ヨハネの話でしたが、彼こそは自らに与えられた使命の領域と、神の働きの領域の区別をしっかりと理解していた人物です。そして神の働きの領域の前には、徹底的に謙遜になる術を知っていた人物です。対立や分裂は、神の領域を知らず、また神の領域の前に謙遜になることを知らない態度が蔓延するときに起こるのではないのかと思うのです。

|

« イエズス会総会長 | トップページ | ケニアから学ぶこと »

司教の日記」カテゴリの記事