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2008年1月18日 (金)

語学力

一体どれくらいの期間が「長期滞在」なのでしょう。旅行会社などの宣伝を見ると、短いのでは1週間から半年程度の休暇滞在を、長期滞在と言うようです。外務省は海外に在留する日本人に、3ヶ月以上滞在の場合は大使館などに届けるように要請していますし、統計でも3ヶ月以上で永住者でない場合を「長期滞在」と見なしているようです。そうしてみると、私はこれまで、アメリカ合衆国(1年)、オーストラリア(半年)、ガーナ(8年)と、いくつかの国で「長期滞在者」であったことになります。

15日に高村外務大臣は、閣議後の記者会見で次のように発言されています(外務省ホームページから)

「長期滞在する外国人の入国・在留の手続きについて、日本語能力を重視する方向にしようではないかということで、課長レベルで、外務省と法務省との間で協議を始めることに致しました。やはり日本で生活する外国人自身の為にも、日本語が出来るということが生活の質を高める為にも大切だし、日本社会の為にも必要です。在留外国人が日本語能力を高めようということになると同時に、その出身国の中で、日本に行く為には日本語を勉強しようという機運が高まれば大変良いことだと考えています」

もちろん、外務省がどういった人たちをターゲットにして考えているのかは容易に想像できますし、その背景にある様々な日本での事情も理解できます。新聞報道でも、行政サービスを理解できないなどの支障があるためなどという理由が掲げられていました。しかしこの議論は、かなり乱暴な発想と言うべきだろうと直感的に感じました。その直感は、自分自身が「長期滞在者」として、言葉の違う国で生活した経験から来るものです。そもそも、そんなことを言い出したら逆に、日本のビジネスマンで現地駐在のため「長期滞在」をしている人たちが、その家族も含めて、その国の言葉を不自由なく使えているのかどうかを問うてみなければならなくなりはしないでしょうか。自分自身が長期滞在した経験を持って言えば、言葉は語学力ではなく、感性の問題です。語学がいくらできたとしても、異国で自由に生活できるとは限らない。反対に、ほとんど語学ができないからと言って、異国で必ず不幸な生活、不自由な生活になるとも限らない。問題は語学ができるかどうかではなく、「言葉」ができるかどうかであり、語学と「言葉」は別物です。「言葉」とはその国の文化と一体であって、要は異なる文化への感受性がどれほどとぎすまされているかにすべてはかかっています。そしてそれは、残念ながら、テストはできません。滞日外国人への行政サービス云々というのであれば、すべきことは決してここにはないように思います。

何でもかんでも、水際で阻止することばかりを考えているのでしょうか。そういえば、昨年末頃に日本入国の際に税関申告書の提出が義務化されましたが、その理由の一つに「テロ対策のために」と書いてありました。今や「テロ対策」のための水際阻止は、何でも可能にするマジックワードになりましたね。

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