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2008年1月 8日 (火)

危険の相対性

結局、「危険」とか「正常」はあくまでも相対的な概念であって、何らかの尺度をあえて用意しない限り、客観的に判断することはきわめて難しい。福岡の交通死亡事故について、危険運転致死傷罪の成立を否定した裁判官の判断は、そのことをはっきりと示しています。すでに多くの指摘があるように、問題は法律の条文の方にあるのでしょうし、このままでは飲酒でも「正常」に運転できる場合があるなどという、本末転倒の事態になりかねません。かといって介護保険のようにコンピュータが判断するような細かな尺度を設けて「危険」の度合いを判定することがふさわしいとも思えません。こういう場合は、法律家の世界では、上級審の判断があってそれが定着していくと言うことなのでしょうか。いずれにしろ、懲役の年数が長ければ、それですべて解決と言うことではありませんし、犯した罪を償うという精神的な側面をどう手当てしていくのかの方が重要なのだろうと思います。

それにしても、亡くなった三人のお子さんのご両親の姿勢や態度には、感心させられるというか、美しいものまで感じてしまいます。愛するお子さんを奪われた悲しみは、その冷静な態度の故に、より強く心に響いてきます。事故直後のお二人の態度や言葉もそうでしたし、今日の記者会見でもそうでしたが、しっかりと現実を見据えて努めて冷静に話される態度には敬服させられるものがあります。宗教者である私の方が、どうやってあのような人生の姿勢を身につけられたのか、お二人に尋ねてみたいとまで思わせるものがあります。でも、繰り返しますが、だからこそ、愛するお子さんを失ったお二人の深い悲しみが、心に強く響いてくるのです。

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