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2008年2月 5日 (火)

人となられた神の御言葉

St08 東京駅の中央コンコース地下、待ち合わせ場所として名高い「銀の鈴」広場の現在地周辺が、先頃見事に変身しました。成田エキスプレスに乗るために総武線地下ホームへ行くにはここを通過した方が歩きやすいので、先日成田へ行こうと足を踏み入れてびっくり。まるで「デパ地下」状態でありました。その端っこにおいしそうなパン屋さんを発見。ローストビーフサンドやサラダなどをオシャレに売っている。早速夕食代わりにローストビーフサンドを購入。支払おうとしたらレジの女性店員が、「ムニャムニャムニャで、よろしかったぁですかぁ?」と仰せになる。「何が、どう、よろしかったのだろうか」と思って聞き返すと、まったく変わらぬ口調で「フォークのご利用でよろしかったぁですかぁ?」と。つまり「汝は、ローストビーフサンドの紙製の入れ物(エコに気を遣っている店らしい)に一緒に入れられているところのフライドポテトを食するために、これまた木製であるフォークを所望するか?」と私に聞いているのですね。(写真は本文と関係ないのですが、先週のミャンマー・ミャワディの町のお寺です。お寺ですよ)

帰国して成田空港で東京駅経由新潟行きの切符を購入しようとカウンターで訪ねたら、あいにく冬場の土曜日で、越後湯沢へ遊びに出かける方々で指定席が一杯。一時間待てば、かろうじて一席だけ空いていると言います。「それでお願い」と申しましたら、「それでは、東京駅で一時間の待ち合わせになりますが、よろしかったぁですかぁ?」ときました。よろしいもなにも、それしか選択肢がないんじゃないの?

そういえば数年前、旧名古屋空港で保安検査場を通過するときに、持ち込み禁止品のリストを手前で渡されていた時代がありました。そして保安検査場の中にはいると、係員の女性が、「ガイトウはありますか?」と聞いてくる。確かに冬であります。この若い女性は、「外套」なんて古めかしい言葉を、「コート」と言わずに、よくもまあ今でも使っているものだと一瞬勘違い。「ありません」と答えたあとで、「リストに該当する危険物はお持ちですか」と聞かれたことに気がついて、ひとり赤面してしまいました。

St06 言葉はコミュニケーションのためにあるはずなのに、溢れている言葉がその役を果たしていないと感じることがしばしばあります。言葉が悪いと言うよりも、そもそもその言葉を発している人間が、その言葉を通じて何かを相手に伝えようとしているのかどうか。その「心持ち」に問題があるのではなかろうか。そう感じます。何を伝えたいのか、誰に伝えたいのか、そもそも伝えたいのか、なぜ伝えたいのか。そんなことを考えもせず、ルーティーンで言葉を発している限りは、発せられたその言葉は単なる音の羅列にしか過ぎません。音を羅列させることは、心の存在しない機械にでもできることです。でも私たちは、心を持つ人間です。日本26聖人殉教者の祝日の今日、ミサの福音はマタイによる福音の宣教命令の部分が朗読されました。私たちは、人となられた神の御言葉を、私たち自身の言葉を持って伝える使命を受けています。伝わる言葉で、伝えようという心もって、なぜ伝えたいのかをよく考えて、神の御言葉を伝えていく努力をしていきたいと思います。ルーティーンで口を動かしているだけでは、何も伝わりません。

明日は灰の水曜日です。新潟教会では朝6時半と10時に、灰の式をミサ中に行います。また灰の水曜日は大斉・小斉の日でもあります。四旬節にあたりカリタスジャパンは祈りや黙想の手引きとなる小冊子を発行しています。「さけび」「ひびき」に続いて、今年からは「つなぐ」となりました。四旬節に毎日曜日に一つの話を読み、黙想し、祈り、分かち合うことができるように編集されています。またそのために、各話題の最後には霊的な手引きも記されております。小教区にて配布されると思いますから、是非一冊を手に取り、四旬節を通じて霊的に深める一助として活用いただきたいと思います。(写真は、本文と関係ありませんが、先週訪ねたスコータイの遺跡の一つです)

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