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2008年2月27日 (水)

ゆだねる勇気

Sendaicath 仙台の司教座聖堂である元寺小路教会は、なかなかに現代的な建物になっています。真正面に大聖堂。右手には直接外から階段で入ることのできる小聖堂(小聖堂と言っても、新潟のカテドラル程度は座れそうな大聖堂)。左手は教区事務所や司祭館や信徒会館の部分。正面から見上げる形で写真を撮ると、そのモダンな建物の上部に、なにやら超日本的な影が写り込みます(写真の中央は元寺小路教会大聖堂正面。その上の赤丸部分に、かすかに神社の屋根が)。これはどう見ても神社の屋根。とはいえかなりの上空です。そんな背の高い神社なんて聞いたことがない。しかし確かに神社の屋根です。訝しく思ってそちらへ回り込んでみると、なんとそこは結婚式場です。平安殿です。神社は屋上に鎮座し、その横にはサン・ステファノ大聖堂までそびえている。すごい。

五十嵐太郎さんという方が書かれた『「結婚式教会」の誕生』という本によると、本格的な神社を屋外に配する結婚式場は、この仙台を含め全国でもごく少数派なのだとか。五十嵐さんによれば、結婚式場付属の神社が少なく、全国に『○○大聖堂」なる物が林立する背景は、『大聖堂」が、「『天井の高い空間を持ち、スペクタクル性が強く、フォトジェニックな舞台である」からで、その点『神社』は、「絵にならない」のだといいます。しかし逆に聖堂系は「形態や様式といった建築の視覚的な類似性に頼るのに対し、多くの館内神殿は、分霊のシステムという手続きによる正当性の誇示を行う」というのです。「スペクタクル性が強く、フォトジェニックな舞台」であります。そればかりを追求すると、宗教的正当性はどうでも良いということになる。なかなか興味深い指摘です。

異質な文化へのあこがれが、それを成り立たせている本質的な精神性へのあこがれとはならず、表面的な形態へのあこがれとしかなっていない。人間の感性の世界で逡巡しているばかりで、その一歩先にある神の世界に足を入れることができていないから、結婚式場の聖堂はいつまでもまがいものの聖堂でしかないのです。自分の感情の世界にはまり込んで、自分が好む好まない、自分が好きだ嫌いだの範疇で価値判断を下してしまっていることを、あたかも真理の世界からの呼びかけに応えているかのように錯覚してしまう。自分の感性で受け止めたことを良く味わった上で、そのまま神の掌に飛び込んであちらに委ねてしまわない限り、本当のことは分からないのではと思います。私たちが四旬節に見直しているこの信仰の本質は、まず感性の世界の束縛から逃れるところ、つまり好きだ嫌いだの世界から出るところから始まるように思います。そうしないと、信仰はいつまでも結婚式大聖堂のような張りぼてで終わってしまいます。

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