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2008年8月 7日 (木)

スーダン訪問

Sudan0804 7月23日から30日まで、駆け足でアフリカを訪問してきました。今回はまず、国際カリタスのアフリカデスクによるスーダン訪問に一部同行させて頂き、南部スーダンを訪問しました。そして神言会の佐藤新神父が働いているケニアのナイロビ・ソウェト教会での堅信式や小教区フェスティバルに参加。さらに、その佐藤神父と一緒にバスでナイロビから国境を越え、タンザニアのアルシャまで足を伸ばし、そこからは小教区の車に便乗させて頂いて、マサイ族の居住地のど真ん中にあるシマンジロ教会まで出かけました。そこで飛行機(セスナ)を使ってマサイの村を巡回している医療チームに、一日同行させて頂きました。スーダンに3日、ナイロビに1日、タンザニアに3日と、かなりの時間を移動に費やしましたが、貴重な体験をさせて頂きました。それでは、まずスーダンから。(写真はスーダン南部、トリートの郊外ロワイ村の小学校で)

スーダンと言えば西部のダルフールで今も続く紛争が有名ですし、それに伴ってバシル大統領の逮捕状が7月14日に国際刑事刑事裁判所から発行されたことでも話題になっている国です。大統領への逮捕状は、集団殺害や人道に対する罪に大統領の刑事責任があるためとされています(ダルフール紛争については、以前「家庭の友」に書いた原稿を参照ください。こちらをクリック)。それとは別に、1956年の独立前後から続いている南北の内戦の問題があります。そもそも南北に広大なスーダンは、首都ハルツームのある北部にアラブ系の民族、南部にはアフリカ系の民族が広く分布しており、それを一つの国にまとめようとすること自体が難しいのです。加えて豊かな石油資源は南部に集中しており、今さら北部が南部と分離して独立というわけにも行かなくなっているのです。1983年から続いた第二次の内戦は2005年1月の包括和平協定によって一応は終結し、2011年頃までには南部の独立も含めて見直しが行われることになっているという、未だ不安定な立ち直りの時期を過ごしています。現在の南部スーダンは、反政府闘争の主流派であったSPLA(スーダン民族解放軍)による南スーダン政府によって治められており、中央政府とは異なるシステムの中ですべてが動いています。和平協定によって、この南スーダン政府の大統領は、中央政府の副大統領に就任しています。

Sudan0805 今回ハルツームから南スーダン政府の首都である南部のジュバへとスーダンを縦断する国際カリタスのアフリカデスクチーム2名に、私は日程の都合で、後半の南部スーダン3日間だけの合流となりました。ナイロビからジュバへと向かったのですが、事前に渡されたのは南スーダン政府発行の旅行許可証。ハルツームの中央政府による査証ではありません。到着したジュバ「国際空港」は、それでもコンクリート平屋のこぢんまりとした、そしてそのために入国する人で大混乱の、熱気に充ちた空港でした。同じ飛行機に乗っていた故ジョン・ガラン南スーダン政府大統領の夫人らと一緒に、なぜかVIPルームへ。しばらくするとジュバ大司教区の関係者がいつの間にか入国手続きを済ませてくれて、そのまま裏口から外へ連れ出されました。確かに一人であそこに到着したら、すさまじい熱気でどうしたらよいか途方に暮れたことでしょう。空港から先は、南スーダンの首都と呼ぶにはあまりに貧しい広大な村が広がっていました。そもそも空港から街の中心へ向かう道(未舗装)は四輪駆動でなければとても通過できない。そういえば、これほど「トヨタ・ランドクルーザー」の台数が多い街も珍しいのではないかと思うくらい、道路はランクルで溢れていました。その多くは国連と数多のNGOの所有です。(写真はジュバの街の様子)

ジュバ教区のパウリーノ・ルクゥドゥ・ロロ大司教にお会いしました。スーダンは聖コンボニ(コンボニ宣教会の創立者)が司教として治めていた地域です。ロロ大司教も現地の方ですが、コンボニ宣教会の会員。内戦終結後の復興の難しさをいろいろと聞かせて頂きました。南北に分断されていたためか、スーダンにはジュバを中心とした南部のために地域司教協議会事務局(SCBRS)が設置されており、その事務局はこの1月までケニアのナイロビにあったとか。今回本拠をジュバに移すことになり、事務局長のアントニー・バンゴイェ神父が、事務局の建物を建設するために引っ越してきたものの、やはりナイロビ事務所は残す必要があると、ちょっと複雑な内部事情も教えてくださいました。スーダンのカリタスは「スーダン・エイド」と呼ばれており、現在の最大の課題は、復興事業のため国連と共にやってきた各国のカリタスとの協調だと言います。ちょうどこの日はスーダン・エイドジュバ事務所と、各国カリタスの現地代表との調整会議がありました。合衆国のCRSをはじめ英国のCAFODやカリタス・スイス、スコットランドのSCIAF、イエズス会のJRSなど、いやはやありとあらゆる団体が入り込んで事業を行っています。なかでも政府の資金を受けている団体は、自国政府の方針に左右されやすく、教区との連携ができていないなどの課題が指摘されていました。また現在は国際社会、特に欧米の関心がダルフールにばかり向いており、南部スーダン復興事業への資金提供が減少しているとの嘆きも聞かれました。

Sudan0803 故ジョン・ガラン大統領の墓にも足を運びました。銃を持って警備に当たっていたのは、どう見ても10代の少年でした。小さな街に突然押し寄せてきた大量の国連関係者やNGO関係者の存在が、現地の物価を押し上げているという話も聞きました。アフリカのどこにでもあるような普通のホテルが、一泊朝食付きで3万円以上もするところまであるとか。我々はCAFODの宿舎に泊めて頂きました。すぐそばを流れるナイル(白ナイル)の水を直接給水しているので、できればシャワーは使わない方が良いとアドバイスされ、なんとペットボトルのミネラル水で身体を洗いました。ナイルは水量も豊富ですが、ありとあらゆる排水や廃棄物が流れ込むため、徹底的に汚れているのだとか。それでもナイルでとれた魚料理は、おいしく戴きました。(写真は故ジョン・ガランの墓の前で)

Sudan0801 2日目には、ジュバからケニア方面に100キロほど車で移動して、カリタス・スイスが復興事業をしているトリートの街まで行きました。そこまでの道路の至る所には、「地雷・危険・立ち入り禁止」のサインが。そういえば、残された地雷のために、農業の復興が進まないという指摘を会議で聞きました。本当にそこら中です。難民生活から帰還した人たちの再定住事業や、学校の再建事業などを見学しましたが、いやはや、長期にわたる内戦の傷跡はあまりにも深い。本当に普通の生活が営めるようになるまで、どれほどかかるのか想像もつきません。しかもこの平和な状況も、必ずしも恒久的であるとも限らない。ですから、周辺国、特にケニアからの難民帰還も進んでいないとのこと。(写真は道ばたに張られた警戒線と地雷注意のサイン)

3日目の午後、カリタス・スイスの関係者がケニアから飛んできたチャーター機(セスナ)に乗って、トリートの街からケニアに戻りました。ここが滑走路と言われなければただの原っぱのまっすぐな道です。はるか上空から見るアフリカの大地は、魅力的でした。(下の写真、左がケニアへ戻るためのセスナ機に集まった近所の人たち。右が機上から見たトリートの街。後ほど写真をもう少し、別途掲載する予定です)

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