« 聖クララの祝日 | トップページ | 夏の司牧書簡 »

2008年8月12日 (火)

聖パウロ大聖堂へ

Paulo0802 先日のアフリカ旅行の後、ローマに数日おりました。真夏のローマは観光客ばかり。とはいえ、以前にも何度かこの時期にローマへ来たことがあるのですが、聖ペトロ大聖堂あたりでも、今年は日本人観光客の少ないこと。もしかしたらこれが原油高の影響なのでしょうか。

というわけで、パウロ年ですから、聖パウロ大聖堂へ巡礼に。神言会の総本部はローマの城壁のすぐ外、ピラミッドがあるあたり、鉄道のオスティエンセ駅の隣に位置しています。そこからは23番などのバスに乗ってさらに郊外方面へ10分ほどで聖パウロ大聖堂です。正式にはサン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂。つまり城壁の外にある聖パウロ大聖堂です。これまでも何度も訪れたことがありますが、さすがにパウロ年と言うこともあり、例年以上に巡礼団のバスが発着しておりました。

Paulo0801 聖堂入り口の回廊には、先日聖ペトロ・パウロ祝日前晩に教皇様が晩の祈りを唱えられ、その時から灯されている「パウロの炎」が静かに燃えていました(写真のパウロ像の後ろに小さく見える、台におかれケースに入ったランプのようなもの)。パウロ年の扉をくぐって聖堂内に入ると、主祭壇下では聖パウロの墓の前で、多くの人たちが跪き、祈りを捧げていました。加えて免償のため(その案内板もでていましたが)聖堂のあちらこちらでは、ゆるしの秘蹟のために司祭が待機しておりました。ゆるしの秘蹟は様々な言語で行うことができるようにと、告解ブースには使用できる言語名が明示されてます。残念ながら、ここでは日本語はありませんでした。

教皇様はその晩の祈りの講話で、次のように述べられています。

Paulo0803 『ガラテヤの信徒への手紙の中で、パウロはわたしたちにきわめて個人的な信仰告白を行います。この告白によって、パウロはあらゆる時代の読者に自分の心を打ち明け、生涯において心の底から彼を動かしたものを明らかにします。「わたしが今・・・・生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身をささげられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2・20)。パウロのすべての行いはこの中心から発します。パウロの信仰とは、きわめて個人的な形でイエス・キリストによって愛されているという経験です。キリストは、誰かわからない人のためではなく、わたし――すなわち、パウロ――への愛のために死に向かいました。そして、復活したキリストは、今もわたしを愛してくださいます。いいかえれば、キリストはわたしのためにご自分をささげてくださいました。パウロの信仰とは、このことを知ることです。パウロの信仰とは、イエス・キリストの愛に打たれることです。この愛がパウロの心を揺り動かし、彼を造り変えたのです。パウロの信仰は理屈ではありません。神と世界についての見解ではありません。パウロの信仰は、神の愛が彼の心に与えた衝撃です。それゆえ、この信仰はイエス・キリストへの愛となりました』。(写真はパウロ年の扉の一部)

Paulo0804 教皇様は「きわめて個人的な形でイエス・キリストによって愛されているという経験」がパウロの信仰を基礎づけていると言います。そして「パウロの信仰は理屈ではありません」とも言います。神の存在をそこまでリアルに意識することが信仰の基礎であるならば、人間の勝手な思い込みとご都合主義で、神に成り代わって神の立場を判断し、自分の考えを正当化することが如何に傲慢であるか。パウロの墓の前に祈るとき、パウロほどの経験もない身で、傲慢に生きている自分に、思わず恥じ入ってしまうのでした。

|

« 聖クララの祝日 | トップページ | 夏の司牧書簡 »

司教の日記」カテゴリの記事