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2008年9月21日 (日)

新潟教会では敬老ミサ

Keiro08 本日の主日9時半のミサ、新潟教会では敬老ミサを捧げました。昨日が司教叙階4周年でもありましたので、その感謝の意味も込めて、このミサは私が司式させて頂きました。あいにくの雨模様でしたが、大勢の人生の大先輩たちが集まって下さり、聖体拝領後に長寿を祝うお祈りと祝福をいたしました。名簿によれば、新潟教会に75才以上の方は78名おられるとのこと。参加することが難しかった方も含めて、お祈りさせて頂きました。またミサ後には信徒会館で茶話会も開かれ、新舞踊の披露もあり、楽しい一時でした。(写真はミサの聖体拝領祈願の後に、ミサに出席しておられた75才以上の方々に前に出てきて頂き、祝福の祈りの後、聖水で祝福しているところです)

ミサの説教でも申し上げましたが、本日の福音はぶどう園の主人と労働者のたとえ話でした。神が大切に思っていることを、この世の現実の中で暮らしている人間は理解できないことがしばしばであることを教えてくれるたとえ話であろうと思います。すなわち、この世の現実の中で命をつないでいくことが大切な人間は、働いた時間や量に応じた報いを受けることが大切なのですが、この場合神にとって大切なのは時間や量ではなく、ぶどう園で働くということそれ自体であるのです。声をかける神に応えて、神の働き場所へ足を運びその使命を果たす心づもりがあるのか無いのかの方が、大切であるということです。イエスが弟子たちを最初から「複数」で集められ、「複数」で派遣されたように、イエスを信じる者にとって共同体の存在は不可欠です。

ともすれば共同体の存在は自由を束縛するので、信仰はひとりだけで守っていくのがよいと感じるものですが、それは身勝手な信仰への誘いともなり得ます。私たちは神が望まれていることを、共同体における交わりのうちに知ることができるのです。

先に新潟教区でも設置した宣教司牧評議会は、そういった神の望みを知るための一つの手段です。新潟教区において、福音宣教という究極の目的のために、実際に何をすればよいのか、何が求められているのか。神の望みを知るために、神によって集められた共同体が共に識別をするための組織です。二回の会合を通じて少しだけ見えてきたことをまとめたのが、8月15日に発表した司牧書簡です。問題は、何を成し遂げたのかではなく、呼びかけに応える思いがあるのか無いのかです。まずそこから始まって、初めて何かを成し遂げることができるのだろうと思います。小さな努力を結集して、共同体として力強く、福音を告げ知らせて参りましょう。

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