« 共通の記憶 | トップページ | ちょっと新発田教会へ »

2008年10月 7日 (火)

フランシスコのお祝い

Omotemachi0801 10月4日はアシジの聖フランシスコの祝日でしたが、新潟教区の長岡地区で宣教司牧に取り組んでおられるフランシスコ会の会員とともに、長岡の表町教会でミサを捧げ、昼食をともにしました。毎年恒例のお祝いになっているのですが、教区司祭も都合がつく限り全員が一緒に参加することになっています。ミサには司祭団以外にも、長岡地区に大勢おられるフランシスコ会第三会員も参加して下さいました。長岡地区のフランシスコ会がもともとイタリアのボローニャ管区への宣教地区委託であったことから会員には今でもイタリア人が多数で、昼食も本場のイタリアンでした。そしておいしいワインも頂くために、わたしも今日は車ではなく電車で長岡へ行きました。ごちそうさまでした。なお長岡地区のフランシスコ会の活動は、今年で50年となるのだそうです。50年前に神言会から引き継いで、この地区をこれほど大きな、そして活動的な地区に育てて下さいました。これまでの50年の活躍に感謝しながら、ミサの中でフランシスコ会会員のためにも祈りました。これからもよろしくお願いいたします。(写真は長岡の表町教会正面)

修道生活はもともと砂漠の隠遁者から始まったのですから、だいたいにして教会の権威や組織とは無縁のところで、完全に自分を神に明け渡した生活をするものです。つまり教会のために修道生活をするのではなく、他人のためにするのでもなく、まずもって修道生活はその修道者自身のものです。フランシスコの生き方も、現実的に考えたら組織の枠から完全にはみ出した存在であっただろうと想像します。もっともその修道者が福音的勧告に従って共同生活の道を歩み出すとき、結果としてその存在が教会全体に対して益となっていくのです。現代社会にあって修道会は修道院の中で生きる現代の隠遁者ともいうべき観想修道会だけではなく、様々な活動の中に修道生活をみいだし、それを通じて福音をあかしする活動修道会など様々な形態をとっています。召命の危機が叫ばれる中、やはり修道会も後継者となる若い修道者の不足に悩んでいますが、それでも自信を持って、それぞれに与えられたカリスマを最大限に生かしながら、自らの召命である修道生活をさらに深めて頂きたいと思います。修道者としての自らの生き方を徹底的に追求するときに、教会全体に恵みをもたらす存在となるのですから。

|

« 共通の記憶 | トップページ | ちょっと新発田教会へ »

司教の日記」カテゴリの記事