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2008年10月 6日 (月)

共通の記憶

昨日から列福式に向けて「列福をひかえ、ともに祈る7週間」が始まりました。列聖列福特別委員会が作成した祈りの手引きのパンフレットを手にされた方も多いかと思います。今週のテーマは「みことばと確かな信仰」となっています。殉教者たちの残した言葉が聖書の言葉と対比されながら、彼らが託された福音の御言葉を最後までいかに宣言し尽くしたかが記されています。ガラテヤ書2章20節の言葉、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きているのです」が、まさしく当時の迫害下、信仰に生きた多くの人たちの思いそのものであったのだと思います。当時の教会には確かに殉教の死を迎えた人たちも、生きながらえることができた人たちも、また苦しみのうちに信仰を守ることができなかった人たちも、様々な人たちがいたことでしょう。それは弱さと罪を抱えた人間が生み出している共同体として、様々な人がいることは当然だろうと思います。しかし様々な人々を抱えながら、総体としてその共同体が福音をあかししたことも事実でしょう。その「あかし」の力は、教会共同体が当時、「みことばを宣言する人と、人々に宿ったみことばを育てる人の養成を片時も」怠らなかったからだと、祈りの手引きに記されています。そして、だからこそ、その共同体は「凛として生きる多くのキリシタンをはぐくんだ」のです。それが殉教者を生み出す原動力となったのです。一人ひとりは弱い人間であっても、キリストの身体である共同体につながりそこで生かされることによって、大きな業を成し遂げる存在となっていくのです。

「宣言されたみことばを宿し、大切にはぐくみ(カテケージス)、やがていのちを賭して、みことばが唯一の希望であることをあかしした多くの殉教者をはぐくんだ日本の教会。いまだれがはぐくみ、だれがあかししているのでしょうか」と祈りの手引きは問いかけています。

祈りの手引きの冒頭には今回の殉教者列福にあたって私たちが心すべきことに、日本の教会が「記念して」生きる「共通の記憶」を持つことの重要さが記されています。考えてみれば、私たちの信仰は組織への信仰ではなく、あのイエス・キリストへと連なる信仰です。最後の晩餐で「わたしの記念としてこれを行え」と命じられた事へと連なる信仰です。わたしが以前働いていたガーナのコロボ族のミサ典書では、この「わたしを記念して」の部分を「kai me」という言葉で表していました。直訳すれば、「わたしを忘れるな」ということです。わたしは、当時コロボ語のミサを捧げるたびに、この部分で、イエスが最後の晩餐の時に弟子たちに張り裂けんばかりの思いを込めて「俺を忘れるなよ」と呼びかけたような思いがしたものでした。私たちはあの主を信じる者として共通の記憶を持ち、それを今の生活に生かし、将来へと宣言し伝えて行かなくてはなりません。そしてこの日本という地に生きる教会共同体として、信仰を伝えるために、それに真摯に生きた当時のキリシタンたちの思いを自分たちのものとし、共通の記憶として伝えていかなければならないと思います。それこそが私たちの教会を、強めてくれるものとなるでしょう。

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