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2008年11月15日 (土)

日韓司教交流会も無事終了

Korea0805 第14回目となる日韓司教交流会が、11日から3日間、韓国の馬山教区教育館を会場に開催されました。今回の交流会には、韓国側から16名、日本側からは14名の司教が参加して、「移住者の神学」についての研修を行いました。会場となった馬山教区の教育館とは、教区のための宿泊研修施設で、この6月に完成したばかり。現在も庭の整備が進められていました。かつて米軍の砲台がおかれていたという海を見下ろす山の頂上部分。毎年、正月には馬山の人たちがご来光を拝みに登ってくる丘なのだそうです。このご来光の丘部分に市民が自由に立ち入ることを許すことを条件に、この米軍施設だった土地を購入したのだとか。道理で、あたかもこの教育館だけに行くために作られたように、山の頂上まで道路が延びているわけです。馬山教区は地域の人口のほぼ6%にあたる15万人ほどの信徒を抱え、教区司祭も100人以上を数える、日本的水準からいえば大きな教区です。やはりその規模に見合って、黙想会や研修会のためにはそれなりの宿泊施設が必要となり、教区全体をあげて数年をかけて資金を捻出し、この建物を完成させたのだそうです。それにしても、その資金捻出方法は、ちょっと日本では不可能な、ビックリするような信徒の結晶です。すばらしい眺め。十分な設備。おいしい食事。小共同体づくりなどに精力的に取り組んでいる韓国の教会ですから、きっと十分に活用されていくのでしょう。(写真は参加した日韓の司教団)

Korea0804 オーストラリアで働くイタリア人宣教師による移住者の神学についての講演は、まだその分野が十分に研究されていないと断りながらも、聞き応えのある内容でした。教会自体が民(共同体)として常に旅にある存在であること。イエスの派遣には常に移動する姿勢が求められていること。見知らぬ人や旅にある人をもてなすことは、本質的に聖書的であること。イエス自身の教えや実践を中心にするとき、旅する人に対して手を差し伸べることは、選択の余地のあることではなく、そうしなければならないこと。信仰においてイエスを中心において考えるとき、旅する人、周辺に追いやられた人に対して手を差し伸べることは、個人の好みや優しさなどに起因する偶発的なことではなく、そうしないはずがない必然であることなど。興味のあるお話をいただきました。(写真は教育館から眺める海。釜山の方向を臨む)

韓国の司教さんたちとのわかちあいを通じて、どちらも移住移動者の司牧を課題としているが、それぞれの状況が違うことからアプローチも異なっていることも分かりました。つまり韓国では地元の信徒が多数であって、そこに少数の移住移動者が存在する構図であるのに対して、日本の都市部では地元の信徒よりも移住移動者信徒の方が遙かに多いという現実です。お互いに通訳を介してで下が、グループでの話し合いや夜のお酒を通じてのコミュニケーションの一時など、いろいろと互いの状況について理解を深めることができました。

交流会は木曜のお昼で終了しましたが、航空便の関係でもう1日残ることになったわたしを含めて数名は、午後から馬山から車で2時間ほど離れた 双磎寺(サンゲサ)という、723年に創建されたお茶で有名な、そして韓国の仏教の中でも非常に権威のあるというお寺を訪問しました。馬山教区の神父さんと懇意にしているという住職は、文筆家でもあり音楽家でもあるようですが、いろいろと説明してくださったあとに、我々一行を部屋に招き入れ、お茶をごちそうしてくださいました。このお寺では夕方6時になると鐘がつかれるとともに大きな太鼓を、70人はいるという修行僧の中から選ばれた一団が、順番にリズムをつけて一心不乱に叩いていたのが美しくもあり、神秘的でもありました。(下左は色彩豊かなお寺の建物。右はお茶を入れてくれる住職)

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