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2008年12月13日 (土)

新潟の市民クリスマス

Shiminnxmass0801 新潟市でも、市内の各派キリスト教会の合同で、市民クリスマスが本日午後1時半から開催されました。もともと伊藤司教様や佐藤司教様が司教団のエキュメニズム(教会一致運動)担当司教であったこともあり、特に伊藤司教様の頃から、新潟市内の各派教会とは、様々な機会に一緒に活動をしてきた伝統があります。毎年、カトリックも含めた市内の牧師/教師/司祭の会議を行い、クリスマスのための合同の行事を行ってきました。以前は市内で一般の会場を借り、講演会をしたり、劇をしたりという、いわゆる催し物タイプの市民クリスマスだったようですが、ここ数年は、それこそ一般市民の参加が思わしくなく、皆さん悩んでおられました。そこで今年は、新潟の町のど真ん中、古町アーケードの大和デパート前で、毎年行われている救世軍の社会鍋にみんなで参加し、一緒にクリスマスの歌を歌ってアピールをしようという企画となりました。

本日午後1時半に、わたしも大和デパート前に出かけました。新潟の救世軍の小隊は、それほど大勢ではありませんが、今日はラッパも二本参加しておりました。平日は小隊長がお一人で、マイク片手に歌っておられます。そして今日は各派の牧師さんや信徒、そしてカトリックからも数名の信徒の方が参加して、大きなコーラスでクリスマスキャロルです。

Shiminnxmass0802 ちょうど今年は救世軍が日本で社会鍋を初めて100年の記念する年なのだそうです。当初は、失業などで正月の準備ができない困窮した家庭に、正月のための食糧を詰め合わせた「慰問かご」を配ることから始まったのだそうです。100年以上前のこととはいえ、困窮した方々の家庭を訪問して回ることは、容易ではなかっただろうと想像します。その後、アメリカでの手法をまねて、鍋をつるしての募金集めに転じたのだそうです。いただいた資料によれば、1921年には、単なる慈善ではなく社会へ向けた活動をしていくためにということで「社会鍋」と名称を変更。軍服のような制服を着て、ブラスバンドがあるのは世界中の救世軍の特徴です。寄せ集めのコーラスですし、カトリックにとっては歌詞も違うし、それほど上手な合唱ではなかったと思いますが、それでも足を止めて下さる方も多く、また大勢の方が、社会鍋に募金をされておられるのを目の当たりにして、多少心強いものを感じました。とはいえ、この日記でもたびたび紹介しますからご存じのように、社会鍋を行っているすぐ後ろの大和デパートには、例の歌って踊るウサギたちがいるのであります。しかも社会鍋が置かれている場所の後方5メートルで、ウサギたちが歌って踊っているのであります。どう見ても生身のコーラスよりも、機械仕掛けのウサギの方が「愛らしい」。従って、勝負は目に見えていたのですが、やはり親子連れの皆様は、そちらの前に群がっていたのでありました。

それにしても、大きな声で歌うと気持ちいいですねえ。車の騒音や、そのほかの音楽に負けないように歌わないと行けませんから。近頃はカラオケなんかには行くこともありませんから(以前、名古屋で大学生の指導担当の頃は、良く付き合いましたが)、久しぶりに歌いまくりました。来週の土曜日にも同じく新潟市内各派教会からの参加を得て、社会鍋が行われます。ちなみにカトリック新潟教会では、来週の土曜日は午後2時からチャリティーコンサートとなっております。

Yoshomei08 さて2時半頃まで社会鍋にご一緒させて頂いて、その後新潟駅前にある花園教会へ移動。花園教会では午後3時から、絵本作家の葉祥明さんの講演会でした。葉祥明さんは、絵本「地雷ではなく花を下さい」の作者です。世界人権宣言60周年を記念して、新潟のアムネスティで活動している方々が主催して、「葉祥明が語る世界人権宣言のこころ」と題した講演会でした。志を高くもって、正義と平和の理念をしっかりと心に秘め、凛とした生き方をすることによって、少しづつ周囲の人たちにその志を伝えていくことができるというポイントには、同感いたしました。大きく変革をすることは難しいかもしれないが、その中でもくじけることなく、志を高く持ち続けることは大切だと思います。加えてわたしをはじめとした宗教家が、宗教的理念の立場からこの世の人間の営みに対して理想を語らなくなったらば、もう宗教家でいる意味がありません。現実に妥協しても、なにも意味はありません。殉教者たちから学ぶことです。

『十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」。 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです(コリント前書1章18節以下)』

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