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2008年12月 7日 (日)

待降節第二主日

08xmass 列福式の余韻に未だに浸っておりましたら、あっという間に時間は過ぎていくものです。待降節に入って、すでに二回目の主日となりました。今日の日曜日、新潟教区の小教区では、待降節の黙想会を行ったところも多かったのではと思います。新潟教会では、次の主日14日に、東京神学院で働かれる横浜教区の中村吾郎師を招いて黙想会を行う予定になっているそうです。その新潟教会主任の大瀧師は、今朝6時半のミサを新潟教会で司式した後、お隣の青山教会で朝8時から黙想会だったそうです。わたし自身も、第四主日の21日に、新発田教会で黙想会のお話をさせて頂く予定です。新潟教会では、本日のミサ後に、聖堂内の馬小屋の飾り付けが行われました。皆様の小教区では、どのような待降節を過ごされておりますか。(写真は新潟教会の聖堂に本日設置された馬小屋)

本日の福音はマルコ福音書の冒頭部分でした。マルコは、イエス・キリストの「良い知らせ(福音)」を、イエスご自身の言葉や行い、はたまたイエスご自身の歴史からではなく、洗礼者ヨハネの話から始めています。「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と大見得を切って、真っ先に記すのは旧約のイザヤ書の言葉。すなわち、イエスの福音が、それを耳にする人にとってまさしく「良い知らせ(福音)」であるためには、まずそこに旧約を通じた準備が必要であったこと、旧約と断絶したメッセージではないことを、旧約がイエスのための準備であったことをはっきりとさせています。そして旧約とイエスをつなぐ橋渡し役は洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネは、イエスによる新しいいのちへの生まれ変わりの準備として、人々の心を神の方へと向ける(回心)役割を果たします。それまで旧約の時代を通じてさんざん神の言葉に接して来た人々の心は、必ずしもその本質を理解しようとしないで、人間的営みの中でさまよっているのです。すなわち荒れ野をさまよい、道に迷いながら、その場の判断であちらこちらへと、本来の進むべき方向を見失っているのです。その民に対して、ヨハネが本当の道を指し示すために現れた。すでに神は基礎を与えているではないか。水の洗礼に象徴されるのは過去を洗い流すことではないでしょうか。人間の営みの中にさまよっていた過去を水で洗い流し、まずもってすでに与えられた神からの基礎に立ち帰り、次に来られる真理に備えよ。そこにこそ、本当のいのちがある。ヨハネはそう伝えながら、人々を神の方向へと向けていくのです。

つまり福音とは、単に耳にすればそれで自動的に何かが起きるようなお手軽なものではなく、それを聞こうとする正しい方向を向いた姿勢が必要であるということではないでしょうか。せっかくの「良い知らせ」をただこの世界に垂れ流していただけでは、実はなにも起こらない。私たちはすでにそれを受けたものとして、洗礼者ヨハネの役割を果たしていくことが必要なのではないでしょうか。彼ほど極端ではないにしても、この世に対して、自分たちの生き方と言葉を通じて、神への方向性を示すことが必要です。米沢の地で多くの人々を魅了したキリスト者共同体は、まさしくその生き方、行いと言葉を通じて、神への方向性を多くの人々に示したのです。その模範に倣いたいと思います。

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