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2009年1月18日 (日)

召命

年間第二主日にあたる本日の朗読は、全体を通じて「召命」について語ります。サムエル記は、少年サムエルへの神からの直接の呼びかけ。コリントへの手紙では私たちがキリストの身体の一部とされていること。そしてヨハネ福音は最初の弟子の召し出しの話です。

私たちは「召命」を、単に特別な役割、例えば司祭や修道者への召命とだけ考えているのではありません。神はすべての人をそれぞれの役割に呼ばれると私たちは考えます。司祭・修道者だけではなく、すべての人には、この恵みである「いのち」を生きる中で、神が与えられた役割があると考えています。しかし世俗化の進んだ社会の荒波の前には、そんな考えは力を持ちません。合理的な説明のつかないそんな神がかりな「召命」なんて、今の時代には説得力を持っていないのかもしれません。しかし聖書は、神からの召し出しは、不合理で不可解だと教えています。

「何を求めているのか」というイエスの質問に、ヨハネの二人の弟子は「どこに泊まっているのですか」という、何ともかみ合わない回答をします。それに対してイエスもまた、「来なさい。そうすれば分かる」というかなり激しい回答です。しかしそれも、「召しだし」という視点から見れば、当然かもしれないと思いました。

つまり、弟子たちが求めていたのは、イエスが誰であるのか、何ものなのか、何を与えてくれるのかということの、合理的な説明ではなかったという事です。その場でイエスの講釈を聞いた上で、当時の先生であったヨハネの指し示してくれた方が「本物」であると十分に納得したいと願っていたわけではなかったのです。そうではなくて、そのイエスの「現実」を目の当たりにしたかったのです。体験したかったのです。そのイエスのリアリティを自分のものにしたかったのです。だから、イエスのベースが何処なのかを尋ねたのではないかと思うのです。「あなたのすべてを私たちに見せて下さい」という問いかけではなかったかと思います。

だからイエスの答え、「来なさい。そうすれば分かる」が生きてきます。二人の弟子は、まだ納得も何もないところで、とにかく主の懐に飛び込んでいくのです。この不合理の世界で展開する召命は、翌日、もうひとりをさらに誘うという行動へアンデレを駆り立てます。まさしく第一日目から、アンデレは、福音を告げるという自らに与えられた使命を、召命を、理解し行動へと移したのです。

私たちが合理的にすべてを納得できるレベルと、神の世界のレベルはまったく異なっている事を、心しておく必要があるのではないかと思うのです。不合理の中に、私たちへの呼びかけがあるのではないでしょうか。

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