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2011年1月 2日 (日)

主の公現の主日

Okinawa10

今年は曜日の関係もあり、1月2日の今日は「主の公現」の主日となりました。東方の三博士の来訪という出来事が象徴するのは、イエスを通じて現実のものとなった救いの神秘が、民族という壁を乗り越えて、すべての人に示されたということ。すなわち、イエスを通じてもたらされる神の救いは、すべての人に向けられたものであることを教えています。イエスによる救いの神秘は、諸国民に対して光り輝いているのです。この輝きを、隅々まで伝えていくのが、私たちに与えられている福音宣教の使命です。伝えるためには、私たち自身がその救いの喜びによって輝いていなければなりません。年頭司牧書簡にもその類のことを記しましたが、私たちが集う小教区の共同体が、教会の外の人たちに輝きを見せているのかどうか、人間の絆をしっかりと大切にしているのかどうか、何度も振り返ってみたいと思います。

ところで教皇様は1月1日のお告げの祈りの際に、今年の10月にアシジにおいて諸宗教のリーダーに呼びかけて、世界の平和のために祈る集いを開催されることを発表されました。これは特に、前任であるヨハネ・パウロ2世が1986年に、アシジに諸宗教のリーダーを招いて世界平和のための祈りの日を開催して25年になることを記念して開催するとのことです。お告げの祈りの前の言葉の中で教皇様は世界平和の日のメッセージに言及して、あらためて信教の自由の大切さを訴えました。その上で、世俗主義と原理主義の二つの傾向を、両極端な傾向であるけれど、現代の宗教が直面する重大な危機であると指摘されています。(なお教皇様の世界平和の日メッセージは、カトリック中央協議会のホームページから読むことができます)

すでに触れたことですが、12月のはじめに沖縄を訪問しました。太平洋戦争末期の沖縄での戦いで、多くの人が巻き込まれ命を落としていったまさしくその現場を訪れ、また今もまた、世界のどこかで発生する武力紛争の現場と直結する米軍の基地の存在の圧倒的迫力を身に感じ、あらためて、宗教者として理想であっても平和を語ることは義務だと感じました。それとともに、平和構築のためには、地域に根ざしたミクロの視点と世界的な規模で考えるマクロの視点の両者が同時に必要だとも感じました。沖縄の人たちにあれだけの負担を押しつけておきながら、それを沖縄だけの問題であるかのように見てしまう。しかしそこには、地理的にも、そして歴史という時間的にも、グローバルに広がった世界とのつながりの中で発生している様々な問題がある。沖縄の基地問題は、まさしく世界平和の問題と直結するということを、過去の歴史の事実も含めて、あらためて心に刻みました。(写真は辺野古浜の座り込みテント)

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