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2011年12月12日 (月)

「絆」はやっぱり今年の漢字に

毎年恒例の今年の漢字が発表されました。やはり「絆」が選ばれたと言うことでした。大震災のあと、多くの人が被災された方々のためにそれぞれの場所から関わりを持っていった現実をみれば、まさしくどこに行ってもこの言葉が繰り返されてきたのですから、選択されて当然だと思います。

この数年、特に自死を選択せざるを得ない方々が毎年3万人を超えてきた現実を前にして、社会共同体における人間関係の崩壊を指摘し、「絆」が失われていると繰り返してきたなかに、私たち宗教者もおりました。私自身、今年の年頭司牧書簡の冒頭には次のように書きました。

『私たちが生きるこの日本において、毎年の自死者数が三万人を超えるようになってからすでに十二年以上が経過しています。経済問題の解決支援や心理的な支援など、全国的に様々な取り組みが多くの善意の方によってなされているとはいえ、安堵できるような割合でこの驚くべき数字が減少する気配はありません。昨年は、高齢者の所在不明問題も全国的な注目を浴びました。昨年九月の法務省の調査によれば、「戸籍が存在しているのに現住所が確認できない百歳以上の高齢者は全国で二十三万四千人に上る(時事通信)」とまでいわれています。同じ頃、NHKの特集番組を通じて、「無縁社会」という言葉をしばしば耳にするようになりました。社会全体を覆う様々な要因が積み重なったことでかつてのような地域社会共同体の枠組みは崩壊し、地域の構成員同士が互いに協力する意識も希薄になり、一人孤立して生きる人たちの孤独感はますます深まっていく社会を称している言葉です。人と人との絆が失われています。深まる孤立感を補うかのように、日本を含めた多くの国々で、ことさらにナショナリズムをあおり、そこに団結を見いだそうとする傾向もしばしば見られるようになりました。
 こういった社会の現実を前にして、教皇ベネディクト十六世は昨年の世界宣教の日メッセージで、次のように呼びかけられました。

「憂慮すべきさまざまな孤独と無関心にますます苦しむ多民族社会にあって、キリスト者がなすべきことは、希望のしるしを与える方法とすべての人の兄弟姉妹になる方法を学び、歴史を変える偉大な理想を育てること、そして誤った思い込みや無用な恐れを持つことなく、この地球をすべての民族が住まうひとつの家とするよう全力を尽くすことです」

 教会は、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具」です(教会憲章一)。私たちの集う教会共同体は、地域社会において「神との親密な交わりと全人類の一致のしるしであり道具」となっているでしょうか。孤立感を深め不安におののく社会の現実に対して、真の交わりの場は教会共同体にあると自信を持って宣言できているでしょうか。教会共同体のよりふさわしいあり方を、この一年を通じて見つめ直してみましょう』

絆が失われてしまった事への危機感を表明し、教会共同体が社会の中で豊かな絆に満ちあふれたしるしとなることを呼びかけました。その直後に大震災が発生したのです。その中で確かに、人と人とのつながりの大切さ、尊さ、優しさ、厳しさが日を追う事に明らかに浮き彫りにされてきました。震災という緊急事態だから「絆」が注目されるのではなく、これを通じて社会全体に「絆」がしっかりと復活することを祈らずにはおられません。

「絆」という言葉は英語に翻訳しにくい言葉です。大震災以降、英語でのインタビューを受ける機会がしばしばありましたが、そのたびに頭の中では「絆」という言葉が浮かんでいるのに、言いたいことをぴったりと現す英語の単語が浮かんでこない。辞書を引けば「BOND」が絆の翻訳語になっていますが、何となくしっくりこない。目に見えない糸で人と人はしっかりと結びあわされている、それを断ち切っては生きていけないという、共同体の中で生かされる私たちを結ぶものを、「BOND」は表現し切れていないと思うのです。このさい、「ツナミ」という悲劇的な言葉だけでなく、「キズナ」という言葉も、そのまま英語の単語になってくれないものかと思います。

明日、13日は午後3時から岩手県の大槌町で、長崎教会管区のボランティアベースの開所式があります。これから息の長い支援を継続していくのだという、九州のカトリック教会の明確な意志表示です。明日は朝から新幹線で出かけて新花巻まで行き、そこからレンタカーで何とか3時までには大槌に到着し、開所式に一緒したいと考えています。

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