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2014年4月 8日 (火)

その後のルワンダとカリタスジャパン

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虐殺事件から20年を迎えたルワンダ。当時から疑問に思っていたことがあり、それをしばしば講演などでも口にしていました。その後、現在の教皇庁正義と平和評議会議長タ-クソン枢機卿が、同様の内容をどこかの講演で触れてくださり、ガーナ人という少なくともアフリカの方の口からそのポイントが出たことを心強く思いました。

そのポイントとは、もちろんルワンダはキリスト教国であり、しかも人口の6割以上はカトリックであった事実。なぜ信仰は虐殺を止めることができなかったのか。微妙なポイントなのですが、誰が悪かったという犯人探しをするつもりは全くありません。問題は、洗礼者は増えたけど福音はどこまで浸透していたか。つまり、教会に来る人が増えたとしても、そこで満足をせずに、さらにしつこいくらいにさらに、福音をその人の心にしみこませる努力をしない限り、人間の性に基づく集団の行動を抑制することは不可能だということです。洗礼後のカテケージスの継続が如何に大切かということでもあります。

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さてカリタスジャパンはその後、96年秋にキャンプが閉鎖されたこともあり、97年からルワンダ国内での子どもたちの支援を始めました。もちろん日本からは遠い地ですので、カリタスルワンダとの連携で行ってきました。この連携支援プログラムは現在も続いています。しかし、カリタスジャパンの募金枠の制約などから、まもなく終わりを迎えようとしております。何らかの形で、せっかく始まったカリタスジャパンとカリタスルワンダの連携関係が継続することを願っています。

以下、1997年8月にルワンダへ出かけたあとに、カトリック新聞に掲載した記事を、再掲します。

 早朝六時半の聖堂はいっぱいだった。赤い煉瓦づくりの立派な大聖堂は、二千人を軽く収容できるという。週日の早朝ミサだというのに、キガリ市中心部にある聖家族教会は、熱心に祈るルワンダの人たちの熱気に満ちあふれていた。さすがにカトリック信者が、全国民の八割以上を占めている国だけのことはある。この日、ミサの間に何度も繰り返された司式司祭のメッセージは、「和解と平和的共存」だった。
 「和解と平和的共存」。これは、ほんの数日間のルワンダ滞在中に、何度も繰り返し耳にした、あたかも国家的スローガンの様な言葉だ。まるで、人々の心に染み込ませようとするかのように、至る所で何度でも繰り返されていた。そしてこの言葉を繰り返し耳にした聖家族教会も、九四年五月に虐殺事件現場の一つになったという。愛と奉仕が、そして癒しと赦しが語られてきた神聖な場が、虐殺の現場となったのだ。
 

 国際カリタス(本部ローマ)の要請に応えて、カリタスジャパンがルワンダ難民問題と初めて関わったのは九四年一〇月のことだった。以来昨年の夏まで二年以上に渡って、コンゴ(旧ザイール)で避難生活を続けていたフツ族難民の救援に力を注いできた。ところが、昨年の一〇月以降、旧ザイールでの政変をきっかけに、予想もしていなかった難民のルワンダ本国への帰還が始まった。難民キャンプは次々と閉鎖され、コンゴとルワンダの国境地帯は再び大混乱に陥った。
 祖国への帰還が問題を全て解決してくれたわけではなかった。帰還の途中で命を失った多くの人たちがいる。家族を失った子供たちがいる。だがなによりも、戦火を逃れて二年以上も故郷を離れていた人たちの心は、深く傷ついていた。

 カリタスジャパンが今夏、初めてルワンダへ送った調査団の一員として私は、八月一六日の夕刻、首都キガリの空港に降り立った。空港ビルの天井を見上げると、そこかしこに銃撃の跡が残っている。宿舎へ向かう途中の路上には、テレビなどの報道で何度も目にしてきた黒ベレーの愛国戦線(RPF)の兵士たちが、検問に立っている。緊張感がみなぎった雰囲気が感じられた。やはり平和を維持するためには、まだ「武器の力」が必要なのだろう。

 カリタスルワンダ事務局長補佐を務めるドイツ人女性ジークリッドさんに案内されて、キガリ市内で行われている難民孤児救済の事業を見て回った。キガリという町は起伏の激しい山間部にある町で、坂が多い。車を降り坂道を歩いて登った丘の中腹に、その施設があった。といっても、見た目はふつうの一軒家と変わらない。ジークリッドさんが説明してくれた。
「孤児となった子供たちは、精神的に深い傷を負っています。彼らが立ち直るためには大きな施設に収容するのではなく、こういった小さな家での家庭的雰囲気の中で育てることが必要なんです。」

 現在ルワンダ国内には九〇年から続いた内戦と虐殺事件、そして難民の帰還という一連の出来事の結果として、十万人以上の孤児がいるという。しかも彼らは単なる孤児ではない。その多くが目の前で虐殺を目撃したり、死と隣り合わせの極限の逃避行を経験してきた子供たちだ。心理学の知識がない素人にも、この子どもたちが精神的痛手を負っていることは容易に想像がつく。ただその傷の深さを想像することができないだけだ。

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 カリタスルワンダはキガリ市内で一軒家を一〇カ所ほど借り上げ、一カ所に二〇人から三〇人ほどの子供たちを収容している。世話に当たるのは、元難民の婦人たちだ。彼女たちの境遇も厳しい。その多くが逃避行のうちに夫や家族を失っていたり、また虐殺事件に関連したとして、夫が刑務所に囚われている婦人も少なくない。「裁判もなにも、なかなか先へ進まないんです」と、ある婦人が不安げに語ってくれた。
 訪れた子供たちの家では、小学生から中学生くらいまでの二十四人の子供たちが、集まって歌と踊りを披露してくれた。楽しそうな歌。楽しそうな踊り。そして手拍子。でも何かが違う。一年前にコンゴの難民キャンプで出会った子供たちの雰囲気と、何かが違っていた。部屋の壁際に寄り添うようにして座ったこの子どもたちから、子供特有の活気が感じられないのだ。いちいち促されなければ、笑顔がこぼれてこないのだ。単なる無表情とも違う、独特の違和感を感じた。ジークリッドさんが言う。
「子供たちの精神的な傷をいやすための専門家が、この国には全くいないんです。素人が手探りでやって行くしかないんです。」
 戦争が終わった直後には、衣食住の最低限の必要を満たすことが急務だった。しかしこれからは精神的に痛手を負っている多くの子供たちのために、何かをして行かねばならないだろう。そしてその努力は、派手な救援事業とは無縁な、目に付かない地道な、そして息の長い援助を必要としている。

 あるルワンダ人シスターが運営している、元難民救済事業を見せてもらった。丘の上の小さな家には、ミシンが所狭しと並べてあった。ここでは少女たちに裁縫を教え、将来ドレスメーキングで生計を立てられるようにと、小さな職業訓練所が開設されていた。外に立って話を聞いていると、マウンテンバイクにまたがった少年が元気よく近づいてきた。少年とシスターとの楽しそうな語らいを眺めながら、ふと何気なく少年の姿を見て驚いた。左手首を失い、頭部には深い切り傷の跡が残っている。彼も九四年四月の虐殺事件の犠牲者だった。はにかんだような表情と素敵な笑顔が印象的だった。この街には、手首を失ったり足を失った子供たちが数多く見られる。いったい何人の子供たちが、戦争や虐殺事件の犠牲になったのだろうか。内戦も虐殺も全てが大人たちの政治的野望に端を発していることを考えると、最大の犠牲者はこの子どもたちではないだろうか。
 ミシン教室の隣では四人ほどの子どもたちが、カード作りをしていた。乾燥させたバナナの葉っぱを上手に使い、馬小屋の聖家族の場面などをカードの上に表現していく。カメラを向けると、それぞれが自分の自信作をかざして見せてくれた。

 シスターたちはこのほかにも、帰還難民たちの所有権回復支援もしている。九四年七月の愛国戦線による現政権樹立後に、ウガンダから二百万人に上るツチ族の人たちが、大挙してルワンダに戻ってきた。五九年に迫害を逃れてウガンダへ亡命していた人たちだ。彼らは、難民となってコンゴへ逃げていったフツ族の人たちの家を、当面の住まいと定めて定住した。そこへ今回、かつての所有者であるフツ族の人たちが戻ってきたのだ。政府が定めた原則に従った、所有権の返還が進んでいないとシスターは言う。シスターたちは特に、男手を失って弱い立場に置かれている家族の支援に重点を置いている。

 カリタスルワンダ事務局長のインシマタタ神父は、国家が安定し世界から注目される事件の起きていない今こそ、未来のルワンダの建設のために様々な救援事業を手がけなければならないと言う。その彼も日曜のミサを捧げたとき、説教の中で盛んに「和解と平和的共存」を説いていた。彼に本当に和解はできるのかと尋ねてみた。「もちろん。でも時間がかかるだろうけれど。」

 そう。表面的にはルワンダは安定した。難民も帰還した。人々には普通の生活が戻った。なによりも身分証明書から、「フツ」とか「ツチ」という民族の区別が姿を消した。しかし何気ない街角の会話の中で、「それでも誰が誰かはみんな知っているよ」という言葉を耳にしたりすると、本当の和解にはまだまだ時間がかかるだろう事を実感する。虐殺事件に関わった人たちの問題や、破壊された村や町の共同体の再建、そして失われたお互いの信頼の回復など、問題は山積している。しかし、何にもましてルワンダの将来を考えるとき、心に深い傷を負った子供たちのために手を貸すことが急務だろう。この醜い戦いに全く責任のない子どもたちが、一番の被害者なのだから。

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