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2014年4月 6日 (日)

ルワンダ虐殺事件から20年

Rwanda10th021994年4月6日、アフリカ中央部にある小さな国ルワンダの首都キガリにある空港へ着陸態勢に入っていた飛行機が、何者かによって撃墜されました。この飛行機には、当時のルワンダと、隣国のブルンジの大統領が搭乗しておりました。当時のルワンダ大統領ハビャリマナ氏とブルンジの大統領ヌタリャミラ氏は亡くなります。この事件が、世に言う「ルワンダ虐殺事件」の引き金となったのです。(掲載した写真はすべて、難民キャンプでの撮影です)

この地域で起こった事件は大まかに次の四つに分けて考える必要があります。

  1. 1990年10月1日にはじまった「ルワンダ内戦」
  2. 1994年4月6日、ルワンダ大統領ハビャリマナ氏(Juvenal Habyarimana)の暗殺に端を発する「ルワンダ虐殺事件」
  3. 1994年7月4日、ツチ族中心の新政権が誕生。旧軍を中心にフツ族が国外避難した「ルワンダ難民問題」
  4. 1996年10月、難民が身を寄せていた旧ザイール(現在のコンゴ)で発生した「コンゴ内戦問題」とその後、今にまで継続している大湖地方の混乱

もちろんそれぞれは関連性がありますが、それぞれの中心人物は異なり、個別の問題ととらえた方が理解しやすいからです。

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私は1995年の3月に、カリタスジャパンからの依頼で初めてルワンダ問題と関わりました。当時ザイール(現在のコンゴ)のブカブ市郊外のビラバ村にあった難民キャンプにカリタスジャパンはボランティアを派遣しており、その調整員をするようにと依頼されたのです。結局私は3月の末から5月の半ば過ぎまで、二ヶ月強をキャンプで過ごし、その後何度もキャンプを、そしてルワンダを訪れることになりました。最後に訪れたのは司教になる前年、2003年でした。

長く書くことはできませんが、虐殺に至った経緯などは、かつてサンパウロから出版した「カリタスジャパンと世界」という本に記しました。まだカトリック系の書店には在庫があると思いますので、是非一度ご覧いただけると幸いです。

さて問題の核心は、一般に多数派のフツ族が少数派のツチ族を虐殺した民族対立による事件だといわれているのですが、事はそれほど単純ではなく、そこには様々な国の利害が絡み合い、さらにはルワンダ国内の政治権力闘争も絡み合って、非常に複雑な事象が発生していたということです。どうして虐殺した方がほんの数ヶ月で国を追われる立場になったのか。どうしてそこにいた国連は何もできなかったのか。そもそもどうして民族対立が発生したのか。そして一番大事なことは、何が多くの普通の人を虐殺に駆り立てたのか。

考えてみれば、理解に苦しむことばかりです。民族が違うというだけの理由で、普通に暮らしている人たちが、そして家族の中でさえ、鎌やナタで、はたまた釘を打ち付けた棍棒で、長年生活を共にしてきた人を、隣人を、殺してしまうものなのか。何がそこまで人を駆り立てたのか。

国際社会は、ルワンダの悲劇を、「アフリカのことだから」などと特殊な事例と片付けることなく、そこから人間の性に根ざした感情を政治が利用することによる悲劇発生のメカニズムを学び取り、同じ間違いを犯さないように努めるべきではないでしょうか。同じ事は、日本でもどこでも、同じようにおこる可能性があります。

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ひとつだけ。そもそも生物学的な違いで、民族を定義することは、すでに不可能になっています。現代の私たちは、それほど簡単に白黒をつけて分類できるほどに隔離されて生活をしてきたわけではないからです。ジャングルの中で、外界から長年隔絶された中で生きてきたなら、その可能性はあるのかも知れませんけれど。ルワンダでも、確かに生物学的に異なる民族がそこにはあったものの、長年にわたり同じ地域で生活するうちに、そのボーダーは曖昧になっていました。

アフリカの分割を決定した1884年のベルリン会議以降に植民地化されたルワンダは、ドイツの手を経て第一次世界大戦後ベルギーの手に渡りました。ベルギーは植民地経営の一手段として、現地傀儡(かいらい)政権を設置。そのときに目を付けたのが、ツチ族王政システムです。1923年にベルギー政府は、ツチ族傀儡政権による植民地経営を決定づけるための手段として、ツチ族とフツ族をはっきりと区別することにします。そのために民族名を明記した身分証明書を導入したのです。この身分証明書が、その後94年の虐殺事件の時に大きな役割を果たすことになってしまいます。しかも、すでにツチとフツが長年にわたって共存していたこの地では、ツチとフツを単純に区別することができなくなっていたため、かなり非科学的な手法も用いられたという話も伝わっています。民族意識を明確にすることで対立関係を演出し、植民地経営を進めようとしたのです。

そして第二次大戦後の独立期には、多数を占めていたフツ族が力を持つようになり、1962年に独立後の政権を握ることになります。そして1973年にハビャリマナ氏がクーデターを起こします。そのご同大統領は、自らの部族であるフツ族こそ勝っているのだという運動を開始して、さらに民族対立感情をあおっていくのです。その行き着く先が、内戦であり、虐殺事件なのです。

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虐殺事件が始まった94年4月6日の時点で真っ先にねらわれたのは、実は「ツチ族」ではなく、「フツ族」の穏健派だったという証言もあります。その筆頭でもあったウィリンジマナ首相(女性フツ族)と3人の穏健派閣僚が、真っ先に殺害されてしまいました。大統領の民族対立を激化させる政策に反対していたからです。当時キガリに国連の一部として駐屯していたガーナ軍が、いかにウィリンジマナ首相を保護しようと努力したかの生々しい物語が、ウガンダで出版されています("Guns over Kigali", Henry Kwami Anyidoho、1998、Fountain Publishers, Uganda)。大統領がすでに政敵を抹殺するための暗殺リストを作成し準備していたところに、それを阻止しようとした何ものかが当の大統領を暗殺したために、暗殺リストが暴走して虐殺が始まったと、私は思っています。

いずれにしろ、ルワンダ虐殺事件はあそこだけで起こった特殊な事象ではなく、どこでも、とりわけ、国家主義的意識が高まっている世界の各地で、今後も同様に発生しうる出来事であると思います。あの事件で亡くなられた80万とも100万ともいわれる人たち。その方方の永遠の安息を祈ると共に、同じ間違いを繰り返さないように、祈りたいと思います。

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