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2014年7月24日 (木)

聖地の平和のために

パレスチナ暫定自治区であるガザにおけるイスラエルとパレスチナの対立は日を追う毎に激化し、ロケット弾の打ち合いから地上戦への展開すら噂される状態となっています。イスラエルとパレスチナの両政府にはそれぞれの正義があり、立場があり、理由があって武力行使に踏み切っているのでしょうし、自らの生存を守るため、つまり自衛・防衛のために戦っているのだと正当化しているのでしょう。政治に直接タッチできない教会としては、直接政治的な解決の道を示すことはできませんが、両者の立場の違いを乗り越えて、最も大切なこと、つまり一般市民の生命が多数奪われていること、特にこどもたちの生命が奪われていることに目を背けることはできず、やはり対立を武力によってではなく対話で解決を見いだしてくれるようにと呼びかけるしかありません。

聖地での紛争の歴史でも明らかですし、第二次世界大戦後の様々な地域紛争を顧みれば、やはり政治的対立を武力で収めることは不可能であり、敵対する相手方をいかに圧倒的な武力を持っていたとしても完全に押さえ込むことはこれまた不可能であることを、私たちは学ぶべきだろうと思います。私たちの国も、自衛を遙かに超えて、他の地域での紛争を武力で押さえる活動に積極的に協力するような道を模索するのではなく、この70年ほどの体験から、逆の道、つまり武力ではなく話し合いで対立を押さえる道を促進する立場を明確にする方が、国際社会の中で独自の立場を確立することができると思われてなりません。

イスラエルとパレスチナの対立については、以前、家庭の友に掲載して記事から、一部を抜粋します。

パレスチナ人が生活していた地に、1948年、イスラエルという国が誕生しました。もちろん、ある日突然ユダヤ人がパレスチナに出現したわけではありません。すでに19世紀末頃からの「シオニズム(イスラエルの地にユダヤ人の故郷を再建する運動)」の広がりの中で、当初は3万人に満たなかったパレスチナのユダヤ人口は徐々に増加を続けました。ユダヤ人に土地を売り渡したパレスチナ人も、少なくないといわれます。1930年代には、パレスチナの総人口が103万人ほどで、そのうち17%がユダヤ人。さらにナチスによるユダヤ人迫害の影響もあり、移住人口は増加を続け、1943年には総人口167万人に対して32.2%、すなわち約54万人がユダヤ人であったといいます。(広河隆一著「パレスチナ」参照)それにしても、長年その地に住み続けてきたパレスチナ人が、住民の大多数であったことは否めません。ところが1947年11月29日、国連総会はパレスチナの分割を決議し、地域の57%をユダヤ人に割り当てることを決定しました。そして1948年のイスラエル建国、さらにはそれに引き続いた第一次中東戦争。その混乱の中で、当時70万人に及ぶパレスチナ人が住む家を失い難民となったと記録されています。現在、300万人とも400万人ともいわれるパレスチナ難民の始まりでした。・・・新しい国家が誕生し、その代償として長年住み慣れた土地と家を失った人々は、失ったものを取り戻さない限り平和は訪れないと主張します。

 イスラエルという国をゼロから生み出すにあたって、これだけの混乱が引き起こされた遠因は、20世紀初頭に影響力を持っていた英国の、いわば「二枚舌政策」にあるというのは有名な話です。オスマン帝国に対抗するためにアラブの独立を約束しておきながら、同時にパレスチナにユダヤ人の「ナショナル・ホーム」樹立を認めたことが、今に至るまでの両者の対立の発火点になっています。旧約聖書における約束の成就という考えは分からないではないものの、誕生した国家がユダヤ教という宗教を根幹に据えたきわめて限定的な民族国家であったことが、問題の解決を難しくしています。パレスチナにおける紛争の歴史を見ると、無理をして誕生した国家がその存在の脆弱性を守り、さらにはその宗教に自らの正当性を見いだすがためなのか、イスラエルは、常識の程度を越えた攻撃性を見せる事がしばしばあります。

7月23日にジュネーブで開催された国連の人権理事会では、国際カリタスも声明を発表しました。人道支援と医療支援を円滑に遂行するため、停戦と、ガザの封鎖の解除を呼びかけています。

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