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2014年8月20日 (水)

教皇フランシスコ韓国司牧訪問

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いまさらですし、国内外の様々な方がブログやニュースで書いているのでいささか時宜を逸してしまった感は否めませんが、しかしアジアの教会にとっては大切な出来事でしたから、記録しておくことにいたします。

教皇フランシスコは8月14日から18日まで韓国を司牧訪問され、これが就任後初めてのアジア訪問となりました。もともとは8月10日から17日まで、韓国のデジョン(大田市)で開催された第6回アジア・ユース・デー(AYD・アジア青年大会)に教皇が参加するという事から話が始まりました。韓国の司教団は、地方教会にとって重要な教皇の訪問という機会を、青年たちと共に過ごすこと以上に広げるため、すでに今年の後半に予定されていた殉教者の列福式を繰り上げて教皇訪問の予定に組み入れ、加えて初めてのアジア訪問と言うことで、アジア司教協議会連盟(FABC)と連携して、アジアの司教との会合も組み入れました。もちろんこれ以外にも教皇様のご意向などで決まった訪問もあり、さまざまな予定が複雑に組み入れられた一連の司牧訪問となりました。

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AYDには独自の運営組織がありますし、列福式にも独自の運営組織があり、さらにそこにFABCが絡んでくる中で、全体を統括し聖座と交渉をこなし、見事にまとめ上げた姜禹一(カン・ウイル)司教(済州教区、韓国司教協議会会長)はじめ、韓国司教団のすさまじい努力があったと聞いています。加えて、韓国政府の様々な意図にも配慮する必要がありますから、今回の訪問を計画し実施することは容易ではなかったと思います。それにしても、ボランティアとして動員された信徒の数、司祭と修道者の数、そして政府が提供した警察官を初めとする様々な支援。どれをとっても日本の教会では考えられないほど、規模が大きいものでした。聖座も、政治と宗教の双方の意図が相克する中で、見事にバランス感覚を発揮して、普遍教会の司牧者としての教皇訪問を明確に打ち出すことに成功したように感じますし、その中にあっても、ゆるしやいつくしみの行動を最も大切にされる教皇フランシスコの姿勢が明確になるように配慮もされていたと感じました。

青年たちとともに時間を過ごし、殉教者を列福すること以外に、分断されている南北の統一と平和を祈ることも、今回の司牧訪問の大切なテーマとされていました。これについては最終日の18日に、ソウルの明洞のカテドラルで、朴大統領も参加して「平和と和解のためのミサ」が行われました。

それぞれの行事の詳細は、実は余りよくわからないので(理由は後述)、例えばAYDに参加したイエズス会の片柳神父さんのブログなんかが詳しいですので、参照ください。また列福式の説教は翻訳されて、中央協のサイトにすでに掲載されていますので、これも参照ください。

私は、15日の新潟での聖母被昇天ミサが終わってから、東京へ移動し、夜の羽田発金浦行きでソウルに行きました。仁川国際空港がソウルから遠いのは覚えていましたが、思いの外、金浦空港もソウル市内から遠いことを思い知らされました。それでも2時間ほどで東京からソウルには到着。日本の司教団では私が一番最後の到着でした。

翌朝は7時半にロビー集合。そのまますべての海外参加司教50名他は4台のバスに分乗して会場となる光化門付近へ移動。祭壇裏に用意されたテントの香部屋でさっそく祭服に着替えて待機。ミサは10時からです。その前に教皇が到着するので、オープンエアの祭壇に移動して待機。16日のソウルは多少曇っており、直射日光がなかった分助かりましたが、しかし祭服を着込んでいるのでとにかく暑い。海外の司教50名に、韓国の司教団が加わったので、祭壇をはさんで両サイドに70名以上の司教がいたと思います。この中には枢機卿が5名。

その後9時半頃に教皇を乗せたオープンカーが到着して会場を一周。この間、光化門まえでフェリー沈没事故の遺族とも対面。遺族たちは、真相解明を求めてこの地で座り込んでいた方々ですが、韓国の司教団は助けを必要とする方々を排除することは、教皇フランシスコ訪問にそぐわないとしてそのままそこにいてもらうことにしたため、教皇との面談が実現しました。そしてミサが開始。教皇と一緒にソウル教区長の廉洙政(ヨム・スジョン)大司教やパロリン国務長官、信徒評議会のリョウコ枢機卿など、さらに3名の枢機卿が。

ミサ中の説教はイタリア語で韓国語の通訳がつきましたが、もちろん私はわかりませんでしたので、後日、上記の中央協の翻訳でやっと知りました。言葉で表すのは難しいのですが、とにかく凄まじい数の人が参加され、信徒以外にも集まった人を数えると90万人ほどではなかったかと聞きました。ミサに参加する信徒への聖体拝領のために用意されたチボリウムの数は、残念ながら数えませでしたが、広い二つのテーブルに一杯でしたからすごい量でしたし、それをミサ中に主の祈りあたりから拝領担当の司祭団に手渡していきましたが、これまた凄まじい量なので拝領が始まってもチボリウムを渡しきれないほど。あれだけの参加者に聖体を届けるだけでも大仕事であったでしょう。

ミサ後、教皇は他の訪問へ。タフというかお気の毒というか。ミサに参加した私は、もうそれだけで力を使い果たしておりましたから。参加の司教団は、ホテルとミサの会場の往復で、移動はすべて団体行動でしたから、実はミサ以外に教皇様が何をしているかは伝わってこないのです。ホテルのテレビを見ても、映像しかわかりませんし、NHKが入っていますが、もちろん日本のニュースではほとんどと行っていいほど取り上げられていません。

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翌17日は朝7時半に集合して、バスで2時間以上かけて移動。AYDの閉会ミサが行われるヘミ(海美)聖地へ出かけました。大雨です。この聖地にある聖堂で教皇様とアジアの司教団の集まり。これはFABCのトップであるボンベイのグラシアス枢機卿が主催されました。アジア各国の司教協議会の会長が招待されており、昼の祈りのあとに教皇はイタリア語で話をされました。

あとで英訳を頂いたのでわかりましたが、この中で教皇は、アジアにおける対話を通じたあかしによる福音宣教の重要さを訴え、開かれた態度で、閉じこもらず積極的に出て行くことの必要性を説かれました。またバチカンと国交のない国々との関係改善への期待も表明されています。

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集まりのあとは教皇を囲んで司教団との昼食会。午後には雨も上がり、教会地区の李氏朝鮮時代の城跡に設置された野外祭壇で、AYD閉幕ミサです。祭壇上にはテントの屋根がありましたが、集まった青年たちは野外ですから大変だったと思います。でもそれを吹き飛ばすような元気なミサでした。教皇様はここで英語で説教。その説教で言いたかったことは、たぶん一言に凝縮されていると思います。「Asian youth. Wake up」。得意ではない英語なので、いつものように原稿から離れて力強く呼びかけることができないもどかしさを感じておられたと思いますが、この言葉は短くて力強いので、説教の最後部分で、本当に力強く繰り返されました。「おきよ」という呼びかけと訳されているようですが、私には「めざめよ」という意味合いの方が強いと聞こえました。

次回のAYDは2017年にインドネシアで開催と発表されました。

という数日を過ごして、18日の昼過ぎに金浦を出て羽田へ移動。新潟に戻りました。予定があったため、残念ながら明洞での最後のミサには参加できませんでしたが、これもまた多くの日本の司教さんたちが出られたので、そちらの報告に譲ります。

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