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2015年2月22日 (日)

洗礼志願式@新潟教会

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四旬節第一主日の今日、新潟教会において洗礼志願式を行いました。今年から、教区内で復活祭に洗礼を受ける予定の方々を集めて、司教司式で一緒に洗礼志願式を行うことを考えました。もっとも新潟教区は北は秋田の大館から南は新潟の糸魚川まで南北に長い教区ですし、その間の交通の便は良くはないので(北陸新幹線開業で南北はますます不便になりますし)、さすがに全員を集めることは非現実的です。そこで新潟周辺の教会の呼びかけたところ、今年は、新津教会からひとり、青山教会からひとり、そして新潟教会から3人の、5名の方が洗礼志願者として正式に教会に受け入れられました。

四旬節に教会は、その信仰の根本に立ち返り、何を信じているのか、どうして信じているのか、信じているのであればどのように生きるのかを、ともに見つめ直すことを求めています。その上で四旬節は、イエスの受難と死と復活の神秘的な出来事を祝う聖週間へとつながっていきます。言うまでもなく、私たちの信仰の基盤にはこの神秘的な出来事があり、まさしく私たちは水による洗礼を受けることによって、キリストの死と復活に与るものとなり、キリストとともに死に、キリストとともに新しい生命に生きるようになります。

このように各小教区の志願者に集まっていただいたことには、もちろん理由があります。

第一に、洗礼を受けることは、個人的な内心の問題だけではないことを実感していただくためです。ともすれば宗教は個人の内心の問題であると考えられてしまいがちですが、私たちキリスト者にとって、信仰は常に共同体の中で生きられるものだからです。

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共同体のないキリスト教は考えられません。イエスご自身が、まず最初に12人の弟子という共同体を形成して、祈りをともにし、聖体の秘蹟を定め、二人ずつ福音宣教に送り出されました。教会憲章には「教会はキリストにおけるいわば秘蹟、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるし、道具で」あると記されています。洗礼を受けることはひとり個人が新しい生命に生きることだけではなく、それを通じて、「神との交わりと全人類一致のしるし、道具」の一部となることをも意味しています。一つの体の部分となるのだという自覚を持っていただくためにも、洗礼志願者として洗礼への最終的準備を始めるときは、それは共同体の中でなされなければなりません。

第二に、それではなぜカテドラルに集まっていただいたかです。教会共同体と言うとき、それは単にある小教区教会だけを限定してはいません。教会は、私がミサに与る教会だけを意味しているのではなく、まさしく「普遍教会」と呼ばれるように、全世界に広がる一つの共同体を指し示している言葉です。洗礼を通して、私たちはある教会のメンバーになるのではありません。それを遙かにこえた神の民の一員となるのです。キリストのからだとしての教会は、民族や文化や国境を越えて、この世界に一つの神の民として存在しています。その一つの群れの牧者として与えられているのが教皇です。この地域にあっては、新潟教区という名称の下に、一つの民が形成されていて、司教がその牧者として任ぜられています。ですから、洗礼を受けて教会の一員となることは、同時に新潟教区という一つの共同体の一員となることを意味しているのですから、このようにその牧者である私と祈りの時をともにすることで、自らが歩みをともにしようとしている共同体の普遍的な広がりの一端を感じていただければと願って、カテドラルに集まっていただきました。

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洗礼志願式の典礼では、まず代父母の方がふさわしく準備をしてきたことを証言し、その後自らの意思でこの道を歩む決意を明確にするために署名をしていただくことや、共同体の一員となることを自覚するために、キリスト者の共同体の皆が信仰のうちに共有している信条の授与があり、さらに悪の誘惑から守られ清められること祈り、加えて洗礼志願者の油を額に受けます。

今日の新潟教会の洗礼志願式では、信条は一節ずつ区切って信徒の共同体が唱え、それを志願者が繰り返して唱えるという形式にしました。また洗礼志願者の方々には、信徒の方からの寄付によって、立派な洗礼式用のろうそくと、先日私がベトレヘムで買い求めてきたオリーブのロザリオをプレゼントさせていただきました。5名の洗礼志願者の方々、そして教区の各所において今日洗礼志願式を受けられた多くの皆様、どうか良い準備をされて、自信を持って復活祭を迎えられますように。

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