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2015年3月 6日 (金)

カトリック教会と死刑

しばしば話題に上がることであり、また教会内部にも、特に日本の教会の中では正反対の意見があることをよく承知しておりますが、刑罰としての死刑の問題です。

カテキズムの要約をみても、確かに教会の伝統的な教えは第五戒の流れの中で「正当防衛」を認めており、その続きとして死刑を含む刑罰について語っています。カテキズムの要約の469には次のように書いてあります。

「科される刑罰は犯罪の重大性と均衡がとれたものでなければなりません。今日では、国家は犯罪を抑止する種々の手段を用いて、犯罪者を無害化することが可能となっているので、死刑の絶対的な必要性の事例は『実質的に全くなくなったわけではないが、ごくまれなことになっています』。血を流さない手段で十分であるなら、権威はそれらの手段に限定すべきです・・・。」

教会は長い歴史を背負って現在がありますし、世界中の様々な国家体制の現実の中で存在していますから、政治の権威が関与する事柄に対しては、公的な「教え」として断定的なことは避けています。ですからこのカテキズムの文章も、幅を持って解釈できる文章であり、『だから死刑は廃止だ』と考える人たちと、『だから死刑は必要だ』と考える人たちの両者を否定しないものとなっています。このスタンスは変わることがないでしょう。

しかし時々に教会は、様々なレベルでの発言を通じて、その幅のある「教え」を、具体的にどのように解釈するべきかを示してきました。

死刑については、教皇ヨハネパウロ2世に始まっていまに至るまで、かなりの程度で死刑の抑制から否定に向かった流れを明確にしていますが、3月4日、国連の人権理事会第28回会議において、バチカンのジュネーブにおける国連代表であるシルバノ・トマシ大司教が、この数十年の教会の立場を説明した後で、次のように述べて、現在の教会の考え方を国際社会に明確に示しました。

「さらに教皇フランシスコは、国家の立法府と司法府は「人間の生命優先と人間の尊厳」に、常に従っていなければならないと強調します。教皇はまた、法的過誤の可能性と、全体主義や独裁政権による政敵抹殺や宗教や文化的少数者への迫害のための法律の利用についても言及しました。

従って、すべての人の尊厳への敬意と共通善への敬意は、聖座の立場のよりどころである二つの柱です。これらの原則は、国際的人権法や法学の同様の発展と重なり合っています。加えて、死刑が抑止的であるという明確な積極的効果は見られないと言うことを考慮すべきであり、この刑罰の不可逆性は誤判の場合にそれを是正することが出来ないという点も考慮すべきです。

議長、我が代表団は無血の方法で共通善を護り正義を保つことが可能であると強調し、諸国がより人道的な刑罰をを支持する姿勢を明確にするように刑罰制度をあらためるように呼びかけます。この方法を廃止するにはまだ準備が出来ていないと主張する国に対しては、我が代表団はそれが可能となるように努力するよう勧めます。

結論として、議長、聖座代表団は死刑を廃止する努力を全面的に支持します。この望むべき目的に到達するために、次の段階を踏むべきです。1)社会が死刑の廃止を実行できるように社会改革を進める。2)刑務所の状況を改善し、それによって自由を奪われている人々の人間の尊厳への敬意を保つ」

以上のように述べて、現時点で聖座は、死刑廃止を積極的に支持する姿勢を明確にしました。そこには当然EUとの政治的関係への配慮もあるでしょう。それを無視することは出来ません。しかし、同時に、教会がいまこの課題に対してどういう答えをもっているのかを、心に留めておくことも大切かと思います。

トマシ大司教は、国際カリタスの会議で何度もお会いしたことがありますが、シャイで寡黙な人物ですが、とても国際政治のセンスがある外交官で、頭脳明晰な人物です。

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