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2015年4月 2日 (木)

聖木曜日主の晩餐@新潟教会

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聖なる三日間が始まりました。聖木曜日は主の受難、死、そして復活という私たちの信仰の根幹となる出来事の始まりである主の晩餐を思い起こす日です。そしてこれらの出来事は連続して起こったのですから、それを記念する典礼も、今夜から始まって復活徹夜祭まで連続しています。今日のミサには派遣の祝福がなく、明日の典礼には始まりの挨拶も派遣の祝福もなく、そして復活徹夜祭は始まりの挨拶もなしに始まります。

新潟教会の主の晩餐のミサは、今夜7時から始まりました。ミサは毎日繰り返し行われていますが、その中でも聖木曜日の主の晩餐のミサは、まさしくイエスが万感の思いを込めて聖体の秘跡を制定された、その偉大な愛の業を思い起こす特別なときです。2000年前のあの一瞬の過ぎ去るときだけではなく、聖体において現存されることによって、主は世の終わりまで私たちとともにおられ、霊的糧で私たちを常に養ってくださいます。聖体の秘跡を通じて主は、最後の晩餐の席で弟子たちに伝えたかった思いを、時を超えて私たちにも直接伝えておられます。

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その席で主は弟子たちの足を洗われました。先生が弟子の足を洗うという行為は、弟子たちにとって衝撃的な出来事であったと思います。常識を覆す行動でした。しかし人間は、衝撃を受けるような体験を忘れることはありません。しっかりとそれを心に刻み込みます。イエスが足を洗おうとしたとき、ペトロはそれを拒否しようとします。『私の足など、決して洗わないでください』。そういったペトロにとって、尊敬すべき先生が、弟子の足を洗うなどと言うことは非常識きわまりない行動だったのでしょう。しかしそのペトロの言葉に対してイエスは、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもないことになる」と諭します。

イエスに足を洗ってもらわないと、イエスと何の関わりもないものとなってしまう。つまりそれまでの3年近いイエスとの生活の中で、弟子たちが自ら耳にし、目の当たりにし、体験したイエスとの出会いは、足を洗われなければ完成しないのです。仕えられる者ではなく、互いに仕える者となるその謙遜の姿勢、生き方にこそ、イエスの教えの基礎があるのです。

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今夜のミサは、近年の少子高齢化の傾向によって、新潟教会でも平日夜の典礼に集まることが難しくなっている現実を反映して、いつもの日曜日より少ない参加者でした。それでも6名の男性が、洗足式のために前に出る程度には、集まってくれました。洗足式を通じて、あの晩の弟子たちの思いに心をはせたいと思います。そしてこれから起こる受難を前にして、すべての集大成として弟子の足を洗うイエスの思いにも心をはせたいと思います。その弟子たちとイエスの思いを、私たちはいま生きるキリスト者として受け継いでいるでしょうか。

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聖体拝領のあと、御聖体に献香し、小聖堂まで行列しました。小聖堂に安置された御聖体の前でタントゥム・エルゴを歌い、今宵の典礼は終わりました。その後、9時過ぎまで、聖体の前で個人的に祈りを捧げる聖体礼拝の時がもうけられました。

明日は午後3時から十字架の道行き、午後7時から聖式です。また聖金曜日は、大斎・小斎の日です。(こちらの中央協HPを参照

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