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2015年9月27日 (日)

堅信式@柏崎教会

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本日の日曜日、新潟県の柏崎教会で堅信式を行いました。7名の方がミサ中に堅信を受けられ、さらに二人の子どもたちが初聖体を受けました。堅信を受けた皆さん、そして初聖体を受けたお二人、本当におめでとうございます。

今日の第一朗読、民数記にはモーセの言葉として、「私は、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になれば良いと切望しているのだ」と記されていました。まさしく、堅信の秘跡を通じて聖霊を受けた信徒は、成熟した大人の信徒としての責任を果たしていかねばならないのですが、その責任の一つは、聖霊を受けたものとして預言者であることがあるのだと思います。

預言者は、よく言われることですが、未来を見通したりする「予言者」ではなく、読んで字のごとく、「神の言葉を預かるもの」です。聖霊に満たされることによって、私たちは神のみ言葉をお預かりします。その預かったみ言葉は、心の内に隠しておけば良いのではなく、旧約の預言者たちに倣って、人々の間であかしされていかなくてはなりません。ですから私たちは、堅信の秘跡を受けることを通じて、神のみ言葉をあかしして生きる責務を担うのです。

人々の前で語る言葉、行いを通じて、私たちは、神のみ言葉を語り、行っていくのです。そのためにも、神が私たちに、何を語るように、何をあかしするようにと託されているのか、見極めていく必要があります。

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今日の第二朗読には一つの方向性が示されています。使徒ヤコブは単に金持ちを戒めているのではなく、自分勝手に自分の思いだけを優先させて生きる生き方そのものを戒めています。

もちろん、教会の社会教説の重要な原理の一つである「富が万人のためにある原理」は、個人の所有権を認めつつも同時に、いかに正当に取得した富であっても自分自身だけのものと考えるのではなく、他者のためにも役立つもの、つまり共通善のために個人の富は存在するのだと説いています。ですから、この世界で生きる私たちは、教皇フランシスコが常々強調されるように、廃棄の文化ではなく、神のいつくしみと愛のうちに、すべての人が包み込まれる道を見いだすことが必要です。

ですから預言職は、自分勝手な独りよがりの思い込みを語りあかしするのではなく、つねにすべての人へ愛といつくしみを示そうとする神のやさしさ、思いやり、配慮、ゆるしを伝えあかしするものでなくてはなりません。

と同時に、神の愛といつくしみに包み込まれることは、心の安らぎを与えてくれるものの、だからといって甘えることを許しているわけではないことが、今日の福音に示されていました。これくらいなら許されるだろう。現実的に考えて、この福音のメッセージは夢物語だ。そういう妥協のうちに甘えるのではなく、明確な厳しさが主の教えのうちにあることも、心に留めておきたいと思います。

なお、今日は柏崎教会で、カトリック看護協会の新潟支部の集まりも行われていました。日本カトリック看護協会は、カトリック信徒の看護師、助産師、保健師などの加盟する全国組織です。ほかのカトリック全国組織でも同じですが(カトリック医師会もそうです)、近年は、若い専門職のカトリック者の加盟率が低下してきています。新潟教区も例外ではありません。新潟教区内に居住するカトリックの医療関係者には、それぞれの専門に応じた協会に加盟されることをおすすめします。

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